9「ヘウレーカ」
「じゃあ、お伺い差し上げますけど」春菜が妙な謙譲語で言った。
「なぜ、あたしたちに直接タンクから空気吸わせてくれないんですか」
「危険だからだ」八重山は答えた。「お前、エアタンクを使ったことはあるのか」
「え、そ、それは…」
「レギュレーターを扱い慣れない人間は、水を吸ったりしてパニックに陥る可能性が高い」八重山は続ける。「それよりも、吸い込むエアの量が問題だ。…長月」
「は、はいっ」千鳥より先に回復したらしい蓮が返事をする。
「もし水深15メートルで空気を肺一杯に吸い込んでそのまま浮上した場合、水面で空気の体積は何倍になる」
「ええっと…深さ15メートルの水圧は2.5気圧ですから、2.5倍です」
「そう。ボイルの法則だ。まず肺は破裂するだろうな」蓮の方を向いて頷く。
「じゃ、じゃあ」早苗が口を挟んだ。普段はおとなしいのに、めずらしく気色ばんでいる。
「先生は、キスしたことありますか」
その時、千鳥ははっきりと思い出した。なぜ、自分が助かったのか。頬のざらざらした感触。喉奥に差し込まれるような、熱いものの記憶。ふいに周囲の視界がぼやけ、千鳥は自分の頬を涙がたらたらと流れ落ちているのに気が付いた。
(あ、あれ)(あたしって、こんなにか弱いんだっけ)
「何。質問の意図が分からんな」
八重山は、早苗のきっと見上げる視線を受け流しながら言った。
「他人に関心を持つのはいいが、意味もなく詮索するのは…」
「…最低だな」救護所のキャンバス布の壁に寄りかかっていた武緒が、目を伏せながらぽつりと言った。
「千鳥ちゃん、かわいそう」屈み込みながら春菜が言う。千鳥がいくら目をごしごしと擦っても、涙は後から後から溢れ出て止まらない。他の生徒たちは、千鳥と春菜の方と交互に、八重山に一様に恨みがましい目を向けていた。
八重山は、全く理解できないといった顔でしばらく一同を見渡していた。しかし、じきに泣いている千鳥に目を留め、数秒間考え込むと、ふいに顔を蛸のように赤らめた。
「あっ」八重山は、もう見る影もなく動揺している。
「『あっ』じゃないっ」
「先生が赤くなるなあ」
緊張が解け、生徒たちが口々に八重山をなじる。
「まさか、意識してなかったの」
「ありえなあい」
「ま、まあ、待て」八重山は、制止するように両手を挙げる。「これは、俺がフリーダイビング部の頃からやってきた事で…」
「先生の大学のフリダイ部って、男子部だけだろ」武緒がすかさず突っ込みを入れる。
「先生、千鳥ちゃんに謝って」と春菜。
「お、おう」八重山は答え、だいぶ落ち着いてきたらしい千鳥の方に向き直った。
「…北上。迂闊だった。すまん」
「…いえ、あたしこそ、助けてくれてありがとうございました」千鳥は言った。いつの間にか涙が引き、代わりに自分でも説明のつかない口惜しさがこみ上げてきている。
(「意識してない」?)(初めてなのに)(そんなのって)
「…北上、その、何だ」
「大丈夫です」千鳥はことさらにとげとげしく言った。「あとで、よく歯磨きして口すすいどきますから」
「そ、そうか」八重山は半ば狼狽したような、複雑な安堵の表情を浮かべた。
「先生」その時生徒たちの間から、蓮が前に進み出てきた。
「良かったら、私にもどうか宜しくお願いします」両手を手首で組み、目を閉じて顔を赤らめる。
「げ。また」
「お蓮ちゃん、もっと自分を大事に」
「戻ってきてっ」
「…な、長月?」もうすっかり訳が分からなくなったらしい八重山が、出席簿を手にしたままじりじりとプールの方に後ずさった。
「とにかく、これで考査は終了だ。期末試験自体もこれで終わりだが、希望者には昼から要点解説と補習を行う。教室は、専修科のご厚意により専修科棟を使わせてもらえることになった。1階103号室だ。以上」
八重山は早口に言い終えると、みごとなフォームで背面のプールに飛び込み、その姿を波間に没した。
「専修科って…」
残った生徒たちが顔を見合わせる。
「あの専修科だよねえ」
「科生全員、耳のうしろにえらがあるっていう」
「で夏合宿で小笠原沖に飛び込んで、素潜りで海底ケーブルをくぐる特訓するって」
「ってクジラじゃないんだからさ…」
専修科棟は、本校舎脇の校庭から、さらに5メートルの竪穴を潜り、そこから200メートルの水中渡り廊下を泳いでいった学園第2プールの底にある。勿論、噂を聞いたことがあるだけで、千鳥たちは一度も行ったことがない。
「無理だよ…」
誰かがぽつりと言った。
その時、プールで大きな波音がした。波紋の下にイエローのツーピース水着がちらりと見えたが、すぐに青く霞んで見えなくなる。天霧だ。
「あっ、天霧…」
「…さっき、終了時間まで下にいたのって、天霧だけだよねえ」
「うん。あれから、誰も息継ぎしてるの見てないのに、全然余裕で」
「うげっ」
「元々息してないんじゃないの?」
「…でも、試験終了してたのに、なんで補習に行くんだろ」千鳥は言った。
「ああ」春菜が答える。「天霧ちゃん、前途有望とかで、最近声がかかって専修科に出入りしてるらしいよ。試験監督みたいなこともしてるみたい」
「へええ」
「うおおっ」ふいに、武緒が仁王立ちになって声を上げた。
「…俺たちも行くぞ。天霧に負けちゃいらんねえ」
「でも、200メートルだよ」
「無理だって」
「馬鹿っ」武緒は打ち消すように言う。「人間、気合を入れれば素潜りの200や500くらい…」
「いや、死ぬって」
「…でも、行かなきゃやっぱ落第かな」
「嫌。落第、嫌」
「今回は、八重山のあれの心配がないだけでも」
武緒の気迫に押されたように、さっきの試験の棄権組がちらほらと立ち上がり始めた。ばちゃばちゃとプールに飛び込み、水面で念入りに呼吸を整え始める。
「ほら、千鳥ちゃんも行くよ」
春菜が千鳥の腕を引っ張る。「大人になった千鳥ちゃん」
「誰が大人になったのよ」
「ほら、早く」
「ちょっと待ってよ、だいたい、あたしはさっきの試験は終了して…って、早苗までなに腕引っ張ってんの」
見ると、早苗がもう片方の肘をしっかり抱え込んでいる。まだ顔色が白く、目の下にはくっきりと隈が出来ていた。
「早苗。目、怖いよ」
「千鳥ちゃん」早苗が、あさっての方向を向いたままで言う。「死ぬときは一緒って、言った」
「うわあああ」千鳥は悲鳴を上げた。「ていうか、それは社交辞令。…ていう訳でもないんだけど。あの、その」
「大丈夫だよ。あたし、秘策を思いついたんだ」と春菜。
「またあ?」
「うん。名づけて水中口移しリレー。渡り廊下で苦しくなったら、どんどんみんなで息口移ししていくの」
「それは、全員が一緒に潜っているときは意味ないのっ」
「ほら、何ぼさっとしてるんだ」武緒が、背後から3人の肩を叩いた。「200メートルとなると、平泳ぎの日本記録で泳いでも2分半だからな。気合入れてけよ」
「ちょ、ちょっと。あたしは行くなんて一言も…」
「…おっ、ナエ、頑張れよ。そうだ、委員長も連れてくか」武緒は千鳥をまるで無視すると、まだ鼾をかいている吉乃の足首を掴んだ。幸せな夢でも見ていたのだろうか、吉乃は「ううん」と唸る。
「ああ、もう、滅茶苦茶っ」
千鳥の抵抗も空しく、バランスを崩した少女たちの一群は吸い込まれるように鮮緑色の水面へと落ちていった。