8「不可逆変化」
(―暗い)
千鳥は思った。
「―北―さん、―かなあ」
「もう――しょ」
暗やみの遠くの方で、妖精が囁くような声がしている。
「うん」
「――だって」
「―――ね」
まだ水の中にいるのだろうか。身体がふわふわしている。口がぴったり塞がれたみたいな感覚で、手も足も全然動かせなかったが、まるで大きな膜に包まれているように、不思議とぽかぽかとして気持ちが良かった。
「―、してないよ」
「――んじゃ」
「静かに――」
妖精のささやきは続いている。
(―ああ、あたし、死んじゃったんだ)
千鳥は思った。―お魚みたいに長く、がんばって息をとめたのだけれど。でも、今こんなに暖かくて気持ちがいいのなら、それでもいいかも知れない。
千鳥は、まどろみに落ちるように、柔らかな膜の奥へと沈んでいくことにした。
「―北上」
また声がする。今度は妖精のとはちょっと違う。遠雷のような、しっかりした太い声だ。
「―上、――しろっ」
千鳥は、夢の中で薄目を開ける。誰。誰だろう。
(誰)(あたしは、もう――)
突然、喉に何かを荒々しく差し込まれたような、すさまじい痛みがした。
「あがっ」
声が漏れ、今まで感覚がなかった手足がびりびりと動く。妖精たちの気配が、周りで木立のようにさわさわと揺れる。
(痛)(離し)(離して)(構わないで)
千鳥は抗った。しかし、それはますます喉の奥へと入り込んでくる。それが触れる度に痛覚が増し、胸が絞られるように苦しくなる。
(痛い)(痛いよ)
「ががっ、がふっ」
「ああっ」
「見て、見て」
胸を上下させ、自律呼吸を始めた千鳥の身体を囲んでいた生徒たちは、一斉に喚声を上げた。プールサイドに寝かされた千鳥は、両脚を曲げて横向けの姿勢になると、咳き込みながら肺の中の水を吐き始めた。
「がっ、ぐほっ。がほっ、がほっ。がほがほ。ごほ」
泡と一緒に吐き出される水。それが水溜りになり、たらたらと流れてプールの端に達する頃には、千鳥の顔と唇には少しずつ生気が戻り始めていた。
千鳥はうっすらと目を開けた。
舞台でライトを浴びた時みたいに、視界が白くて何も見えない。ライトの手前で、さっきの妖精たちが、影法師みたいに黒くなって口々に何かを言っている。そして陽光にちりちりと肌が灼かれる感覚と、身体の下のコンクリートの温かく固い感触が蘇り―千鳥は、たくさんの顔が、自分を心配そうに覗き込んでいるのが分かった。
「千鳥、大丈夫?」
「顔、真っ青だよ」
「水から引き上げられても、全然息しないから―」
真ん中の顔が、口元を緩めて歯を見せた。日に灼けた銅色の肌と無精髭。八重山だ。ジッパーを下げてウェットスーツを胸元まで脱ぎ、例の丸眼鏡はどこかに落としたのか掛けていない。
「…北上、気分はどうだ」八重山が言った。
「は、はい」千鳥が答える。まだ、喋ると少しむせそうになる。「はい。普通。普通です」
「普通なわけないだろう」
怒るように言われたので、千鳥はびくっとして上体を起こした。
「はい、まだ胸が苦しくて。…それと、頭がちょっとふらふらします」
「よし」八重山は頷いた。「起き上がらなくていい」
「…はい」
なぜか、となりで大きな寝息がする。振り向くと、自分と同じようにして吉乃が救護所のブランケットの上に長々と寝かされていた。
「…吉乃ちゃん、立派な立ち往生だったんだよ」傍らにいた春菜が、千鳥の視線に気付いて言った。こっちは真っ先にギブアップしただけあってぴんぴんしている。
「立ち往生?」
「そう。武蔵坊弁慶」
聞くと、吉乃は着席してペンを握り目を見開いたままで失神したのだという。 ともかく、見上げた精神力だ。
それにしても、あの時思い切り水を吸い込んで、てっきり死んでしまったと思ったのに、どうして自分はまだ生きているのだろう。
「…全く、お前らはなんでここまで無理するんだ」
八重山は生徒たちの方に向き直ると、首筋に手を当てながら言った。「昨日の二年生といい、今日の一年生といい」
八重山の意外な言葉に、生徒たちは少しの間沈黙し、それからどよめくように口を開いた。
「…だって、それは先生が」
「肉体を極限まで追い込む、とか言って」
「追い込むためのトレーニングと言ったはずだ」八重山は言った。「溺れるまでやれとは言っていない」
「…」
「危険があると自分で感じたら、速やかに考査を終了する。それでもし落第しそうになるなら、俺がいくらでも追試でも補習でもしてやる」
「…」生徒たちは憮然としている。
その会話を聞きながら、千鳥は、何だか大事なことを思い出しそうな気がしていた。