7「エントロピー増大」


 「…答え、J=Mgh/{(m+H)(t-s)×10}。単位、〔J/cal〕っ」
 一番目の応用問題をやっと解き終わる頃には、千鳥の胸の苦しさは焼け付くような痛みに変わっていた。横隔膜が大きく上下し、肺の中の古くなりすぎた空気を押し出そうとする。意志の力ではもうどうにもならなくなり、ふと力を緩めたはずみに千鳥は息を盛大に吐き出してしまった。
 ごぼぼぼっ。がぼっ。
 (ああっ)(あたしの、空気)
 見上げると、自分が今吐いたばかりの気泡が、ひとつながりの真珠のように白く光りながら水面へと上っていくのが見えた。
 (…あたし)
 どきん、どきん。自分の鼓動が聞こえ、それに合わせるように頭がずきずきと痛んだ。
 (…あたし、なんでこんなに頑張ってるんだっけ)(ここまでやっても、八重山とキスしなけりゃ採点されないのに)
 頭の中に、脈略のない思考が浮かんでは消える。
 (3分)(3分50秒)(試験時間、あと16分)(空気)(無理)(草原)(絶対無理)(息)(苦しい)(失神)(蓮)(失神)(嫌)
 シャーペンが千鳥の手から落ち、ふわふわと足下まで漂っていく。意識が錯乱し始めていて、もはや千鳥は15メートルの水底で息をこらえ続けているだけの存在になってきていた。

 その時、八重山のウェットスーツ姿が、焦ってでもいるように千鳥の目の前を通り過ぎた。
 朦朧としながらも、千鳥は八重山の進む先に視線を転じる。すると、会場の右奥の方で意外なことが起こっているのが見えた。
 二人の生徒の身体が、席を離れて水底から一メートルくらいの所に浮かんでいる。
 一人は弥生で、身体をほぼ水平にして足先までぴんと伸ばし、両腕で天霧の首筋をしっかりと抱きかかえている。唇を天霧に強く押し付け、力をこめてその唇に空気を吹き込むたびに、二人の顔の間に小さな泡がこぽこぽと漏れ出ていた。一方の五月の方はすでに全ての空気を提供し終えたらしく、浮力を失った身体が水底へゆっくりと仰向けに倒れこんでいくところだった。
 (えっ)
 千鳥が見るうちに、八重山は天霧の手前で椅子の背を掴んで体の惰力を殺すと、両の掌を×の形に交差して見せた。反則行為のサインだ。許可なく、他の受験者から空気を口移してもらったのだから、指摘は当然というところなのだろう。
 天霧は、しばらく整った顔を無感動に八重山に向けていたが、やがて弥生の身体を無造作に引き離し、小さな舌を出して舌なめずりをした。そして、かっと赤い口を開くと、大量の気泡をあとからあとから吐き始めた。
 「ごぼっ。ごぼごぼごぼごぼっ。ごぼごぼごぼごぼがぼごぼごぼごぼごぼ」
 さすがの八重山も、やや唖然として天霧の様子を見ている。
 「ごぼごぼごぼごぼごぼがぼがぼごぼごぼごぼごぼ」
 天霧の呼気はまだ終わらない。すごい肺活量だ。まさか、さっきまで三人分の空気が自分の肺に入っていたのだろうか。
 「ごぼごぼっ。ごぼっ、ごぼっ、ごっ」
 天霧は、前に屈みこむようにして腹部を両の拳で圧迫し、お腹をぺちゃんこに凹ませて、絞り切るようにして最後の泡を吐ききった。そして八重山をきっと見据えると手刀を喉元に当て、自分の肺に全く空気が残っていないことを伝えた。
 (…)
 八重山はしばらく静止していたが、やがてグローブを嵌めた人差し指をゆっくりと天霧の眼前にかざした。今回限りだぞ、ということだろう。
 天霧は頷いて見せると、向きを変えて机に座り直した。そしてロングの髪をかき上げると、また平然と試験に取り組み始めた。