百 川 館


                 

 

  百川氏の陣屋は、遠望すると田の中にうかんだ小島のように見えなくもない。
  周囲に深さ二間ほどの空堀をうがち、掻きあげた土でいくつもの土塁と櫓台を形づくっている。母屋敷のある主郭と二ノ曲輪三ノ曲輪はなかば上下に重なり合い、全体としてちいさな平山城の体をなしていた。屋敷のまえには籾を干す広い庭があり、一本の栴檀(おうち)の木が高枝にたくさんの薄藤色の花をつけている。
 土塀に囲まれた庭には、在所ごとに下忍たちを束ねる中忍(こがしら)どもが座し、そのうしろにはおおぜいの下忍たちが敷莚もあたえられずにじかに座っている。かれらに相対するかたちで、濡れ縁の上の高所に百川の父子(おやこ)が居並ぶ。弥九郎の坐り姿が若々しいのにくらべ、当主弥右衛門―伯耆守を僭称しているために、百川伯耆ともよばれる―は丸まった背を大儀そうに脇息に凭れさせており、両の(ひとみ)はなかば白濁しているためにどこを見ているのかわからない。
 ちなみに、弥九郎の横には先日より当家の客となっている織田前右府家中の永田主膳正もいる。じっさい百川氏は伊賀国一揆の中でもいちはやく織田方にころんでおり、さきの織田の伊賀出兵では先んじて総大将北畠(織田)中将信雄の道案内(あない)をつとめたほどの平身低頭ぶりなのである。
  これらの衆目のもとに、漣はいる。漣は下段、対峙する霧生ノ権左は正眼である。
  権左は、大兵であった。身の丈はゆうに六尺、目方も三十貫近くはあるであろう。両肩が隆起し、くくり袴の下にのぞく脹脛(すね)がはちきれんばかりに発達しているさまは、忍びというよりもむしろ兵法修業者に似つかわしい。げんに権左はかねがね、
―おれは、霧生の忍び武者ごときでは終わらぬ。
と広言してはばからず、いわば常に功名のたねを探しながらおのれの武技を磨いているといった男なのである。今日のような場にはうってつけなのであるが、漣の仕合の敵手(あいて)役を命ぜられてしまったのが、果してこの男にとっての本意だったかは分からない。
 権左の剣は、拵えもぞんざいな陣太刀である。権左は、その長大な上肢(うで)で剣尖を高々とかかげると、
 「やあ」
と一声を発しながらあらあらしく一歩間合いをつめた。漣はすかさずとび下がるが、その剣先は下段にふわりと構えたままでうごかない。権左がさらに踏み込むと、漣はおなじ分だけ退く。そのうちに、ふたりは相対したまま庭をぐるりと一周してしまった。
 「権左っ」
 濡れ縁のうえで、弥九郎がさすがに焦れたらしく権左の背中に向かって言う。
 「…」
 容貌には表れないものの、漣には権左の四肢がかたくなってゆくのが見て取れる。体格と膂力においては比較すべくもないが、権左は漣の剣のただならぬのを識っていた。もし無思慮に撃ち込もうならば、瞬時に漣の剣先がうごいて権左ののど輪を刺突するであろう。さきに仕掛けさせるには、漣は、まず権左のじぶんへの懼れをとり除いてやらねばならない。
 漣は、間合いはそのままで、剣尖をわずかに下に垂らした。
 とたんに、権左が動いた。体が左ななめに開き、太刀が上段から漣の面に向かって鋭く振り下ろされてくる。漣は、その切先がとどくよりもさきに、権左に抱きつくほどの間合いに飛び込むと、その左小手を摺りあげに斬り上げた。
 「がはっ」
 権左が呻き、太刀が音を立てて地面の上に転がった。柄を握っていた左手が、いまや手甲から先が皮一枚で繋がってぶら下がっている。権左は、そのまま庭に袴の両膝を突くと、やがて苦痛のために口から白い泡を吹き始めた。
 斬りざま、権左の背後へと駆けぬけていた漣は、振り向いてこの男の苦悶を見た。権左は、その長い上体をはいつくばるように曲げ、なおも声にならない嗚咽を漏らし続けている。もう、剣術修業はあきらめざるをえないであろう。漣は、剣の刃先にこびりついた血と脂とを眺めながら、じぶんの肢体がなかば傀儡のごとく反射的にうごいて人ひとりの人生をこなごなに打ち砕いた事実を、無感動のままに認識した。
 「勝負、あった」
 弥九郎がしらじらしく言う。小者どもに半ば運ばれるようにして出てゆく権左のことなど、もはやまるで目に入らない様子である。
 「次」
 城坊門が出てきた。
 城坊門、というこの名前に深いいわれがあるわけではなく、むつきの頃、奈良興福寺の円城坊門外にうち棄てられていたためというに過ぎない。この男について特筆すべきは、むしろ権左よりさらにひと回りは大きいであろうその巨躯である。加えて、目鼻立ちは(まなこ)がぎょろりと大きく鼻翼の幅広に拡がった奇相であり、濃灰色の小袖に破ればかまを穿いた様子は、もはや異形者と言ってよい。
 城坊門の得物は、くさりがまである。手にした長さ二尺ほどのするどい大鎌の柄に、七尺もの鎖分銅が付いていて、それを今一方の手で虚空に弧を描きつつ振り回すという特異な構えをとる。火付け城攻めといった乱波しごとで、算をみだして逃げる敵兵どもに追いすがってなるだけ多くの首級をあげるのが、この男の伊賀者としての随一のたのしみなのであった。
 鎖鎌の兵法には、間合いはない。下がれば投げ分銅が小手をねらって絡み付いてくるし、踏み込めば大鎌がきびきびと振り下ろされてくる。漣は剣を正眼をやや下方にくずし、二十尺ほどの間をあけて足を摺りつつ機を窺っていたが、城坊門はこれほどの大男のくせに体のうごきに無駄がなく、隙をつくらない。
 そのまま、四半刻ほどが過ぎた。
 「来ぬのか」
 城坊門が、黄色い歯を見せて嗤う。
 「ならば、こなたから参ろう」
 途端に、漣の視野のなかで城坊門が怪鳥が翼をひろげたように巨きくなった。
  きん
  きん
 太刀が鳴る。退きながら、漣は城坊門の打ち込みを捌きつつ受け、受けつつ捌く。一打ちごとに、その度外れな膂力のために両の小手はびりびりと痛んだ。思わずひととびに五尺ほど下がると、その刹那、城坊門が放った鎖分銅が漣の刀身に生きもののようにくるくると巻きついた
 (しまった)
  漣は思った。城坊門との立ち合いで、これを受けて命のあった者はいないのである。鎖がぴんと張りつめているために、剣を引くだけでは締まり度合が余計に増すのみだが、かと言って柄をにぎる小手を緩めればとたんに太刀ごと奪い取られてしまう。城坊門はすでに勝負は詰んだとおもったのか、鎖をしごきながらもその大眼はうっすらと喜色をうかべはじめた。
 「…」
  漣が、うごいた。鎖を剣にからませたまま電発して中段真一文字に斬りこむと、すかさず城坊門の鎌が受ける。同時に今一方の拳が伸びてきて、漣の片頬を岩石のごとき力で打擲した。連は後ろにはね飛ばされ、しかし飛ばされつつも肢体をくるりと回転させると、足のゆびさきの力で踏みこたえてすぐさま立ち上がった。
  鎖は、外れてはいない。城坊門の嵌めている手甲鉤のために頬はさくりと割れ、口内の肉をじぶんで噛みきったらしく血の味がした。かるい目眩を起こしながら、そういえば先程から姿が見えないが、六文は今どこにいるのだろう、と漣は脈略もなく思った。
  城坊門は、焦らない。
 じぶんの鎖分銅のさきが漣をからめ取っている以上、猫がその獲物をいたぶるように、じわじわと嬲り殺しにしてゆけばよいのである。漣のほうも、いまは敵手の与えてくれるこの間合いを使って少しでも体力を恢復させるべきであったが、漣はその実、全く逆の行動を取った。息も整えぬうちに、ふたたび城坊門めがけて矢のような逸さで撃ち込んでいったのである。
ばかが。
 城坊門はおもったであろう。体がわずかに開き、両眼が眠ったように細くなった。奔る影が重なり合い、やがて一つになる。
  その時、不思議なことがおこった。
  城坊門の体躯が、しばし天を仰ぐようにして仁王立ちになると、やがて巨木が倒れるようにどうと前のめりにくずれ落ちたのである。顔の皮膚はまるで縊死したかのごとく青黒く、わずかに指先をひくひくと動かすのみであった。
  背後に、漣がいた。
  さきほど、城坊門の体のうえを駆けのぼるようにしてその肩上を跳び越えると、じぶんの太刀に巻きついた鎖のはしをその猪首にからめ、背後に飛びおりつつ目方をかけてくびり落としたのである。なかば無意識のうちに体がうごいたが、とにかくも尋常ならぬ体のばねと言ってよい。
 「はあっ、はあっ」
  漣は、肩で大きく息をしていた。筋肉がだるく、気負わねば地面にくずれ込んでしまいそうになる。それでも血交じりの唾をぺっと土のうえに吐くと、気迫だけで剣のつかをふたたび強く握り直した。
 「…つぎを」
  高所の弥九郎を見すえて言う。疲労感とはべつに、体のなかに火照りのような異様な恍惚が生じつつあった。もはや、じぶんの四肢は死ぬまで活動を止めないかもしれない。
  「…」

  弥九郎は無言でいる。
  その白皙はわずかに青ざめているのみだが、内心ではおのれの閨に迎えようとしていた齢十七の美少女がここまでの技量に達していたことに、少なからず衝撃を受けていた。
(惜しい)
  とは弥九郎はおもわない。漣を仕置きすることが、である。それどころか、頬の血すら拭わずに自分にふてぶてしい眼を向け、自分の思惑にことごとく反逆してくる漣に対して、今までその肉体をはげしく恋慕していただけ、よけいに憎悪を抱いた。この娘だけは、何としても責め殺さねばならぬだろう。
  弥九郎の唇がうごき、何者かの名を口にした。
  しかし、離れている漣の耳にはとどかない。そしてしばらくすると下座の影のむれから中忍たちに前に突きころばされるようにして、一人のひどく小柄な忍びが出てきた。
  六文であった。
 「…」
  白昼夢(ゆめ)を見ているのだろうか。しかし漣自身にもよく似た可憐な面立ちと、朽葉色の小袖を裾みじかに着て裸足に細い脛巾(はばき)を巻いた容姿は見まごう方がおかしい。
  漣は先程より構えたままである。六文も、やむなく細帯に差した脇差をのろのろと抜いた。六文は姉の漣とはちがい武技一般よりも幻術を得手とするために、元来太刀は帯びていない。その瞳には今はおびえの色が浮かび、片手で逆手持ちにした刀身のさきが、鶺鴒(せきれい)の尾のように小刻みに揺れていた。
  二人は、相対峙したまま一歩も動かなくなった。仕合の体裁は取っているとはいえ、戯れに実の姉妹に剣を取らせて殺し合わせるなど、古今これほどすさまじい仕置きもないであろう。弥九郎は、眼前の自分のつくりあげた光景に無生の昂奮を感じながら、ふと喜悦の笑みをもらした。弥九郎の唇が割れ、隙間からあかあかとした口腔が覗いた。

 「…それがし、言上つかまつる」
 その時ふいに一声を放ち、仕合場の沈黙をやぶる者があった。漣のとなりの在所の与十という若衆が、平伏したまま下座の下忍溜まりから身ひとつぶん前によじり出ている。
 「こ、これっ」
 「与十、きさま、分限を知らんのか」
 中忍たちがあわてて制止する。このような場で下忍ふぜいがスグリに向かって口上をのべるなど、蚤が口を利くがごとくあってはならないことなのである。興を削がれた形になった弥九郎は、しかしながら与十の気迫がただごとでなかったせいか、やがて濡れ縁の上から気だるそうに「何か」と応じてやった。
 「こ、ここに居る漣殿、六文殿と言えば、この伊賀霧生でも名うての忍術使いにござれば」
 「ふむ」
 「その技倆の並々ならぬこと、殊に漣殿に至っては今度(こたび)の仕合にても明らかと見え候」
 「それで」弥九郎が倦んだように言う。この若い忍者の弁は、意外なほどつまらない。
「与十よ、
ぬしは一体何が言いたいのだ」

 「そそ、それがしは」
  沈黙が続く。与十は、しばらく吃音(どもり)のように空しく口蓋をうごかしていたが、やがて、この空気をひとりでは支えるのは耐え切れぬといった様子で面を伏せてしまった。
 「…与十めは、口べたにて」
  同輩の鹿ノ助が進み出ると、与十のあとをさらりと引き取った。鹿ノ助はとしは漣より二つ上で、与十とは一つ長屋に棲んでいる。顔は浅黒いが彫りがふかく、月代の剃りあとが青々としていた。 「漣殿に、こたび何の咎めあるやは存じ申さぬが」鹿ノ助はいう。そしてさらに続けて、殊勝にも当郷きっての練達者にふたりまで当たって撃ちしりぞけた今、その仕置きはすでに済んだと見るべきであろう、先刻権左と城坊門の負った深手にくわえて、これから更に漣と六文を相食わせてそのいずれかを失うのは、当家にとっても損失はいささか大ならん、と弁舌さわやかに言い放った。 鹿ノ助は、胸筋の張った襟元を自然にひらき、高所にいる弥九郎をゆったりと見据えている。
  (蚤めが、道理を言いやがる)
  弥九郎は思った。現世(うつつよ)が、蚤の道理でうごくなら苦労はないであろう。弥九郎はいまいましくなり、漣と六文の仕合をそのまま続けさせようとした。
 「ならば、飼うか」
  ふいに、それまで全く口をきかなかった弥右衛門が声を発した。上体をゆすり、濁ったまなざしを二人に向けてくる。
 「与十、鹿ノ助。漣を脚の腱をきってあたえるゆえ、ぬしらのいずれかが飼え」
 「な、何と」
 「めっそうなことを仰されます」
 与十も鹿ノ助も、これには顔を赫くして俯くしかない。
 両名とも、漣のことをひそかに想うところがあったために尚さらである。しかし、田の一枚さえもたぬ下忍の身で、妻が飼えるわけがないではないか。

  そのとき、漣に相対していた六文のうえに変化が起こった。
  きゅうに脇差の刃尖をおろすと、仕合場の土にぺたりと両膝をつき、柄を握り直しつつ刃をじぶんの白い頤に向けた。
 (あっ)
  ためらうことなく、目を閉じたまま刃先をゆっくりと突き立ててゆく。座をみたした忍びどもの間から声のない嘆息が漏れたが、それは、だが六文のこの自刃を見たゆえではない。
  漣が、咄嗟に投げ放った飛び苦無が、縁の上の弥九郎の眉間を正確につらぬいていたのである。  「…」
  意志をうしなった弥九郎の上体は、一語も発しないままにごろりと後ろへと崩れ落ちる。弥右衛門は視力がよわいためか動かぬままであったが、どういうわけか口元の皺が一瞬喜悦にちかい表情をつくった。となりの永田主膳正は「曲者っ」と叫ぶがはやいか、大小も取りあえず腰をからげて屋敷の中へと逃げ込んでいった。たかが忍び武者どうしの内紛に巻き込まれて命を落としてはかなわぬと思ったのであろう。
  そして漣のほうは、ぐったりした六文の身体を抱き上げると、(いなずま)のようなはやさで走って高塀の縁に取りつき、そのまま乗り越えて主郭のそとへと飛び降りた。
  土塁の斜面のうえを転げるようにして駆け下ると、二ノ曲輪を越え、三ノ曲輪の土塀づたいに大手口を目指す。しかしながら、大手前の虎口を鍵の手に曲がったところで、栗毛に跨った騎馬武者が突如あらわれて漣の進路をふさいだ。
 「どう、どう」
  栗毛は、腹をみせながら激しく前脚を足掻く。馬上にいたのは鹿ノ助である。いつの間に外の厩から引いてきたのか、鹿ノ助はひらりと馬から飛び降りると、代わりに「さあ」と漣と六文を鞍上に押し上げ、手綱を漣の手に握らせた。
 「それがしが此処、与十が搦手口でしばらく防いでおるゆえ、その間こやつが泡を吹くまで責めらるるがよかろう」
 「…鹿ノ助どの」漣は、鹿ノ助が馬の後肢を打とうとするのを押しとどめると、なぜ、自分たちにここまでの事をしてくれるのか、という意味のことを訊いた。
 「…」鹿ノ助はほんの数拍の間考えると、漣の腕の中にいる六文に向かって言った。 
 「六文、気張れるか」
 「…平気じゃ」気丈にこたえる。刃先はわずかに急所を外したらしい。
 「そうか」鹿ノ助は歯をみせた。「…おれの逡巡(まよい)のゆえに、六文ははかくのごとき次第となった。相済まぬ」
 「それは、鹿ノ助どののせいではない」
 「いいや」そのあとはまるで囁くように言う。「…すでに晩いかもしれぬが、おれは言うぞ。お漣、俺はそなたを妻にする」
 「えっ」
  漣が訊き返す。しかし、鹿ノ助がことぶきよう往け、と漣の乗馬をはげしく打擲したために、その姿はまたたく間に後ろに遠ざかっていった。
  間もなく、中忍たちに率いられた追っ手の一団が大手口に到着した。
 「鹿か」
 「鹿よ、そこを退け」
  鹿ノ助が虎口を塞いでいるのを見ると、中忍たちは口々に声を浴びせた。しかし鹿ノ助の方は、まるで聞こえぬといった風情で手にした素槍の鞘をはらうと、石突をさっと手前に引いて穂先を追っ手どもの目の高さに据えた。
 「それは何だ」
 「これか」鹿ノ助はうそぶく。「かくなる多人数のお相手となれば、太刀ではものの用をなさぬゆえ、これにて失礼つかまつる」
 「な、何と」
 「おのれが何をしているか、分かっておるのだろうな」
 「鹿よ、乱心したかっ」
 「乱心、とな」鹿ノ助は返す。「俺は狂うてはおらぬ。むしろ」重ねて大喝する。「戯れに、犬猫のごとく姉妹を共喰わせて愉しむぬしらとスグリの方が、よほど狂うておるわ」
 「…」
  鹿ノ助の指摘がなまじ当たっているために、中忍たちはことばに詰まる。しかし、中忍としての分限がスグリの権勢のもと、在所ごとの下忍からの収入(あがり)で成り立っている以上、スグリからの下知をきかねばその権威は雲散霧消してしまうのである。
 「こわいのであろう。禄を失うのが」
 「鹿。き、きさま」意表を突かれ、中忍たちは憤激した。「者ども、構わぬ。こ、この痴れ者を討ち取ってしまえ」
 「…」
  後ろにいる下忍たちは、まだ動かない。彼らのほうにしてみれば、いまの事態は弥九郎の漣に対する私的な仕置から派生したことで、自分たちが積極的に関与すべき性質のものではない。さらに言えば、中忍は下忍にとっては主人ではなくいわば外交員に対しての営業所長に過ぎず、忍びわざ以外のことで容喙を受けるいわれもないのである。
 「討て。討たぬか」中忍どもの幾人かは、すでに泣き鬼のような形相になっている。「動かぬ者には、ことしの割符はやらんぞ」
  ようやく、忍びどもの黒い群れが動いた。音もなく鹿ノ助の周りを半円に取り囲み、やがてわっと斬りかかってゆく。
 「あっはっは、さあ来い」鹿ノ助は仁王立ちのままであった。

  漣は、笠置峠を越えてやがては山城へと向かう野道に馬を駆けさせながら、ふと鞍上で頭をめぐらせた。百川の城が、さっきまで眼下に木の間がくれに見えていたが、今はもう緑の山襞にすっかり遮られてしまっている。
  六文は、刀傷に(よもぎ)の血止めを施され、いまは漣の腕の間で眠るように目を閉じていた。  ふいに、漣の眼前の風景が煙るように白くなった。熱いものが目元から溢れ出すと、筋を作りながら頬をたらたらと流れ落ちてゆく。
 傀儡(くぐつ)であるのに)漣は、拭うこともせずに泣き面を風に嬲らせながら思った。
(なぜ、こんなにも涙が出るのか)
  国境(くにざかい)までの道程は、わずか四里である。