記憶のなかで、漣はどこかの土壁わきに並んだちいさな茅葺き長屋の、半坪ほどの土間の中にしゃがみこんでいる。脇にはごくおさない六文もいて、床に敷いた
―自分は、なにものか。
要するに、郷に来てからの存念と仕込まれた
―それは、ぬしの手首のあざに書いてあろう。
と、歯の抜けた口で嗤ったのみである。たしかに漣と六文の両手首には、荒縄をきつく締め回したような古疵があるのだが、その由来が
つまりは、
(ただ、それだけのことだ)
と、漣は思うようにしている。おのれの郷里や父母の名がわからないと言っても、天下麻のごとく乱れて流民棄民が諸国に満ちみちているこの末法の世で、それがどれほどめずらしいことだろうか。それでも、漣はときに深井戸の中をのぞきこんだような寂寥感に苛まれることがあり、そんなときは赤目四十八滝の修練場で手足の筋がくたくたになるまで身体をうごかすか、でなければ今日のように、特に早くから田に出て野良ばたらきをすることにしていた。
(…お漣、
半阿弥ならばいったであろう。漣は、師匠の火傷痕のある容貌をふと思い出しながら、かがんで草鎌をにぎる手に力を込めた。
(惑わば、心に陰ができ、頭のはたらきは自ずと鈍くなる。おのれをひとふりの剣、一個の
「姉うえ、若殿さまじゃ」
六文がふいに上げた声で、漣の思念はとぎれた。
目を上げると、笠置の峰々を若葉が山頂近くまで青く染め上げているしたに、盆地の起伏に沿って広がる田の一枚ずつが、やがて来る夏を待ちわびるように空をうつくしく映しこんでいる。その青田のあいだの小路を、
漣と六文は、草取りの手を休めて畔に上ると、ふかぶかと平伏した。ぜんたい、霧生郷一円の小領主である百川家の権勢にくらべ、漣や六文のような下忍の身分はみじめなほど低いのである。ふだんは、同家から田請けをする無高の
弥兵衛の乗馬が歩みを止めた。路端にうずくまっている漣には見えないが、その蹄音と息遣いから、弥九郎がすぐ前の馬上にいることが分かる。
「お漣、六文か」頭上から声がした。
「左様にございます」
「お漣。ことしの稲の塩梅はどうじゃ」
「…はい」漣は答える。「今年はよき霖雨にめぐまれたゆえ、苗の馴染みもよく、また育ちも幾分いつもより早いように思われます」
「ふむ」しかし弥九郎の興味は、稲株の出来にはない。漣は、弥九郎の気配が馬から下りてきてじぶんの背後に回っていくのを感じていたが、次に、やにわに両の腕が後ろから伸びてきて漣のくびれた腰周りをつかんだ。
「あっ」
「お漣よ」弥九郎のなまあたたかい息が、漣の耳朶にかかる。「くだんのこと、思案はできたか」
「く、くだんとは」漣は上体を起こし、はじめてこの若ざむらいの横顔をまじまじと見た。眉がうすく、目鼻立ちはおやじ殿に似ず秀麗であるが、ただ口元が卑しい。
「知れておる。そこもとが当屋敷に奉公に上がることじゃ」ぬけぬけと言う。一昨年あたりから当主弥右衛門が
「ご無礼ながら、漣はまだ、思案が出来ておりません」
「何と、気をもたせることよの」弥九郎は
「しかし、若殿」漣は言った。「漣は、この六文とたったふたりの姉妹ゆえ、漣ひとりお屋敷にご奉公するわけには」
「そうか。ならば六文はしかと
「…」漣は、弥九郎のなすがまま羽交いにされているしか法はない。
「しかし、
「うっ」
「…姉うえっ」
「六文、よい」
漣は、
「お漣よ、屋敷へこい」弥九郎は言った。「そこもとほどの器量で、いつまでも、命をおとすかわからぬ乱波稼業をしたり、泥田をこねまわしたりしておる道理はない。そうだ、この鹿肉がすべてやわらこう溶けほぐれるまで、遊蕩させてやるぞ」
「若殿、どうか」漣はさらに言う。「漣には、六文のほかにまだ師匠半阿弥の遺した家作と位牌もありますれば、
「家作とは、そこもとらの棲んでいるあの
その時、弥九郎の目前の天地がくるりと回った。
漣が、小具足の
「お漣っ」
弥九郎は、あわてて介抱にきた小者どもに助け起されながら言った。漣のほうは、
「若殿、お師匠は―」
といったのみで、感情がたかぶったためにもう次の句がいえない。
「そ、それほどまでに俺がいやか」
弥九郎が泥のこびりついた顔を
「追って沙汰するゆえ、小屋で待つがよい」弥九郎は、ふたたび馬上のひととなった。 そして、漣と六文の棲みかに再び百川家の手の者がやってきて、
―あす、辰の刻に当屋敷にて真剣仕合をする。
と口上を呼ばわったのは、同日の薄暮の頃のことである。
その夜、漣は床の上に伸ばした身体を
むろん、あす行われる剣仕合の顛末を予感してのことである。弥九郎がにわかに仕合をおこなう企図からして、十中八九、漣の命はないであろう。
このような場合、伊賀者は徒におのれの恐怖心を押さえこんだりすることはない。後代、武士階級は葉隠という、抑制と自虐心とを美学にまで止揚したふしぎな哲学をつくり出したが、乱世の忍び武者はそのような観念あそびとは無縁である。漣は、逆にじぶんの感情の発露するままに任せ、それが溢れて形をなし次第に冷え固まりゆくうちに、思念が自然にまとまるのを待った。六文もむろんそのことを知っているから、特に声をかけるわけでもなく、
やがて、漣の思惟がおわった。恐怖心は熱の引くようにきえており、体内には軽いけだるさと冷めた覚悟のみが残っていた。そして、六文にさきに床につくように言ってから、漣は戸外に出て月明かりのなかで一刻ほど剣をふるうと、その後、夜明けまでの時間を死んだようにねむった。
霧 生