Title9-3.GIF (2758 バイト) 翔ぶが如く             

[ 参考書籍 ]

〜 読書記録(目次、概略、感想、関連年表) 〜

『翔ぶが如く』

司馬遼太郎著

文芸春秋社 1975年12月発刊

目 次

bullet

第一巻 ;パリで/東京/鍛冶橋/情念/征韓論/小さな国/渋谷金王町/好転/鈴虫/風雨/ジャニー

bullet

第二巻 ;千絵/廟堂/秋の霜/激突/分裂/右大臣/挿話/退去/陸軍卿/大警視/明治七年/春の霜/混沌

bullet

第三巻 ;薩南の天/鎮西騒然/私学校/そのひとびと/迷走の府/長崎・台湾/波濤/北京へ/総理門/ 北京の日々/五十万両/帰国

bullet

四巻 ;壮士/肥後荒尾村/植木学校/明治八年・東京/浅草本願寺/島津左大臣/薩摩への使者/密偵/幻影/流説の巷/神風連/鹿児島へ

bullet

第五巻 ;蜂起/ 衝撃/薩南/内務卿の靴音/東京獅子/西郷の下山/鹿児島異人館/高雄丸/人馬/再び異人館/東風動く/宣戦

bullet

第六巻 雷発/ 熊本鎮台/籠城/炎上/肥後の野/二・二二の戦闘/二十三日の木葉/浅き春/菊池川/高瀬の会戦/野の光景/地鳴/田原坂/警視隊/激闘/衝背軍

bullet

第七巻 ; 西北の崩れ/萩原堤/熊本南郊/熊本を去る/過ぎゆく春/日向へ/西郷の日々/夏めく/北へ/可愛岳/突囲/一百里程/風を結ぶ/城山/攻防/露の坂/紀尾井坂

概 略

bullet

第一巻 ;パリで/東京/鍛冶橋/情念/征韓論/小さな国/渋谷金王町/好転/鈴虫/風雨/ジャニー

明治維新により、幕府を倒し、新しい政府を作った西郷や大久保だったが、天皇を中心とした国家にする、という以外はどのような国を創るかという具体的な方針ができていなかった。天皇を中心とする 国家体制づくりのために明治四年に廃藩置県を断行した。これは長州の木戸孝允が中心となって進めたが、薩摩出身の大久保利通は薩摩士族、そして主人であった島津久光の手前、表にでることはなかった。しかし、薩摩士族の精神的な支柱となりつつあった西郷(陸軍大将)に、その抑え役を頼み、断行した。しかし、難航すると見られていたこの廃藩置県も、西郷が自ら薩摩士族を率いて上京し近衛軍を組織、その圧力のおかげで、すんなり運んだ。すると、大久保、木戸、それに岩倉など参議は、三条実美と西郷ら残りの参議に国内政治を押し付けて大挙外遊にでてしまった。そんな中で国内で“征韓論”が持ち上がる。廃藩置県で役割を失った士族のはけ口として、つまり国内問題として、西郷はそれを必要とした。西郷 の考えとしては、征韓論は日本が清と韓国と同盟し、南下するロシアに備える政略の第一歩であり、そのために明治維新によって国を開いた日本のように韓国にも国を開かせよう、この提案に頑な韓国に自分が行って、そこで自分が殺されれば、日本の征韓論が動き出す、という構想であったともいう。

一方、外遊・帰国組によって、内務省、警視庁、そして徴兵制による鎮台兵など、国権の確立に向けて体制固めが構築されていくこととなる。

bullet

第二巻 ;千絵/廟堂/秋の霜/激突/分裂/右大臣/挿話/退去/陸軍卿/大警視/明治七年/春の霜/混沌

西郷の勢いに押されて、左大臣三条実美は、まずは西郷を遣韓大使として派遣することについて、天皇の勅許をとりつけてしまう。これを外遊・帰国組、とくに大久保が水面下で、岩倉を動かし、ついに阻止してしまう。西郷は自分の立場、つまり征韓論を待望する士族への責任として、参議を辞任。西郷にならって、板垣退助(土佐)、江藤新平(佐賀)、副島種臣(佐賀)なども参議を辞任。西郷に率いられて上京した近衛軍や警察庁の幹部たちが大挙辞去し、薩摩にもどってしまった。東京の軍事力を大きく上回る武力が薩摩に蓄積され、不穏な空気が漂う。

bullet

第三巻 ;薩南の天/鎮西騒然/私学校/そのひとびと/迷走の府/長崎・台湾/波濤/北京へ/総理門/ 北京の日々/五十万両/帰国

西郷は薩摩の山で猟に明け暮れ、誤解や風評を恐れてか、人に会おうともしない。そんな中、佐賀で征韓論が沸騰し、爆発する。この暴発に江藤新平が担がれるが、大久保が全精力を傾け、これを約10日程度で鎮圧し、専権を以って、江藤を斬首した。この小さな佐賀の乱はむしろ国権を強化することに役立った。江戸時代の風習や文化を好み、洋風を極端に嫌っている薩摩の島津久光も明治政府からの要請で、西郷に佐賀の乱に参加しないよう説得に動いた。 一方、琉球船が遭難し、そこで虐殺されたことから、大久保らは士族の不満をそらすため、台湾征討を思いつく。西郷隆盛の弟従道は英国などの干渉があったにもかかわらず、強引に出発し、台湾に上陸してしまう。日清交渉が膠着状態となったため、大久保自ら北京へ行き、強引に賠償金を得て、征台が義挙であることも認めさせた。

bullet

四巻 ;壮士/肥後荒尾村/植木学校/明治八年・東京/浅草本願寺/島津左大臣/薩摩への使者/密偵/幻影/流説の巷/神風連/鹿児島へ

薩摩にもどった近衛兵などが私学校を作る。私学校は、県庁、警察を押さえ、社会主義国の政府に対する党のような存在であったという。 警視庁の大警視川路利良は、薩摩の叛乱を恐れており、それ以外の各地の叛乱に対しては、むしろこれを個別に打ち破ることを考えていた。長州に帰った元参議の前原一誠に対しては、密偵が近づき、むしろ扇動するなどした。

bullet

第五巻 蜂起/ 衝撃/薩南/内務卿の靴音/東京獅子/西郷の下山/鹿児島異人館/高雄丸/人馬/再び異人館/東風動く/宣戦

熊本の神風連は、宗教色(神道)の強い結社であり、太政官政府が、西洋化を進めることに強い不満を持ち、明治九年十月、叛乱に至った。しかし、他の民権運動や反政府運動と連携せず、また、銃ももたず、刀だけで鎮台のある熊本城を約170名で襲った。平民出身の鎮台兵は、この急襲に狼狽して、多くが斬殺されたが、参謀児玉源太郎(日露戦争時の参謀長)らが鎮台兵をまとなおし反撃、これを鎮圧した。神風連の叛乱に呼応して、数日後、長州萩で 前原らが、挙兵したが、同様に計画性に欠け、また、これに呼応するもの少なく、短期間で鎮圧された。薩摩では 西郷隆盛が狩猟のために山にこもることで、不平分子を抑えていた。しかし、川路が薩摩に送り込んだ密偵が、薩摩の私学校に捕まり、西郷を暗殺する目的であったことを自供した。これにより、薩摩の叛乱気運は抑えることができなくなり、山を降りた西郷も、自分の身体を預けることを表明、大久保に事を糾す、ことを名目に、翌明治十年二月に太政官政府に宣戦を布告した。

bullet

第六巻 雷発/ 熊本鎮台/籠城/炎上/肥後の野/二・二二の戦闘/二十三日の木葉/浅き春/菊池川/高瀬の会戦/野の光景/地鳴/田原坂/警視隊/激闘/衝背軍

鹿児島を出て、熊本に向かった西郷軍は、熊本城を抜くことができず、そこで動けなくなる。 西郷軍は自分たちが動けば、軍隊を含め全国の士族がなびく、また戦いになっても百姓中心の鎮台兵などに敗れると思っていなかったが、意外と頑強な抵抗に遭う。このような考えからしっかりした戦略も戦術もなく、輜重も充分に検討されていなかった。政府軍は 続々と兵員を九州に上陸させた。西郷軍は、熊本城を攻囲したまま、その北方、田原坂に進出し、政府軍と向かい会うことになる。薩摩士族の勇猛さだけが、政府軍を押しとどめるが、東京へ出て、太政官政府、または大久保利通、川路利良らを糾す、という本来の目的が、熊本の地で、政府軍とぶつかり合うことになってしまった。西郷自身も熊本城の南方に居て、すべてを桐野利秋らに任せてしまっていた。

bullet

第七巻 ; 西北の崩れ/萩原堤/熊本南郊/熊本を去る/過ぎゆく春/日向へ/西郷の日々/夏めく/北へ/可愛岳/突囲/一百里程/風を結ぶ/城山/攻防/露の坂/紀尾井坂

局地的な戦いでは士族ゆえの強さを発揮した薩摩軍も、圧倒的な兵数と近代兵器の政府軍にじわじわと詰め寄られ、田原坂の激しい攻防から、後退せざるをえなかった。熊本城の囲みも解いて、熊本南部から、現在の宮崎県へ後退。政府軍の追撃を受けつつ、完全に包囲されたかに見えた可愛岳からも脱出。戦略がないまま、あるいは死ぬために故郷鹿児島に向かった。最後は3百数十名が、鹿児島市近郊の城山に籠もり、約6万の政府軍に囲まれ、明治十年九月二十四日、最後を迎えた。政府軍総大将山県有朋も、無用の殺しあいをさけるべく、西郷へ自決を勧める書状を送ったが、西郷は最後まで切腹を選ばず、薩摩隼人として、ほとんどの将兵を引き連れての闘死を選んだ。最後は2発の銃弾を受け、可愛がっていた部下である別府晋介が介錯をした。この戦いに西郷を引き込んだ桐野も戦役途中からは、西郷と交わすことも少なくなってしまったというが、最後まで颯爽と戦い狙撃を受け死亡。西郷の助命嘆願の動きもあったが、西郷本人が拒否したし、桐野も西郷の最後をそのように穢(けが)すことを激しく叱責したという。

西郷と私学校の動きを潰した大久保だが、翌明治十一年五月十四日石川県士族たちによって、政務へ赴く途上、暗殺された。また、薩摩に西郷の暗殺隊を送り込み西南戦争のきっかけを作ったといわれる大警視川路利良もその後精神的に衰弱し、明治十二年フランスへ再渡航する途上で倒れ、昏睡状態で帰国し数日後に死亡した。

 

感 想

西郷隆盛は言葉数が少ないが、人を包み込むような感情量の大きな人間であったという。それは逆に、自分の政略を言葉を尽くして説明することがなかったともいえるようである。また、具体的な国家運営方針という点でもあいまいであり、むしろ日本人のあるべき、あるいは日本政府があるべき姿を漠然と、哲学としてもっている状態だったようである。西郷は征韓論を単に薩摩士族のはけ口としてだけでなく、ロシア南下の脅威に対する政略の一歩と考えており、中国の左宗党とも連絡をしており、正式なものではないが、対露同盟の打診はしていた。歴史にもしもはないが、このとき 日本が征韓論を採ったとすると、違った形でロシアと対することになった かもしれないという。

士族にしてみると、倒幕に加担したものの、その後解散させられ、中央に残った一部の大官が大名のような豪華な暮らしを実現し、そして薩長により太政官の主要な地位を占められてしまった。その上、藩まで解体されてしまった。当然のように不満が鬱積する。薩摩士族にしても同様で、西郷に従って官または軍を辞去することで、この不平士族側となってしまった。

西郷は薩摩を率いて倒幕に導き、英雄となったが、倒幕後はみずから形骸となってしまった。その透明度の高い感情量を慕われ、絶対化する太政官政府に対する不満分子を引き寄せた。しかし、すでに形骸となっている西郷には、新国家の青写真もなく、これをかついだ桐野に戦略も政略もなかった。

2005.4.22 読了

このページトップへ 参考資料  ホーム