ペルシア戦争開戦の経緯(*1より) |
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(ギリシアの?)植民市の一つに、ミレトスがあり、そこにヒスティアイオスというイオニア人の独裁者がいた。アケメネス朝ペルシアのダレイオス王に気に入られ、首都スサに召喚されて、側近として仕えることとなった。ミレトスの為政を自身の従兄弟で娘婿であるアリスタゴラスに託した。 |
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同じ頃、エーゲ海のギリシア植民市ナクソス島で内紛が発生し、資産階級の人々が追放されてミレトスに亡命するという出来事があった。アリスタゴラスは、彼らの支援にかこつけて、ナクソスの支配権まで奪取しようと画策した。そのため、ペルシア帝国のアナトリア半島地域の長官アルタプレネス(ダレイオスの腹違いの弟)に協力を取りつけた。しかし、アリスタゴラスはナクソス侵攻に失敗してしまう。このままではペルシア帝国から責任を問われることになり、窮地となる。そのとき、スサにいるヒスティアイオスから使者が来て、ダレイオス王に叛くよう勧められる。ヒスティアイオスとしては、叛乱を鎮圧する名目でミレトスに戻り、独裁者に復帰することが目的だった。アリスタゴラスはヨーロッパ側からの支援を得ようとスパルタに向かうが拒否され、次にアテネに向かう。 |
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その頃、アテネでは、独裁者として君臨していたペイシストラトス一族を追い出し、民主制へ移行しようとしていた。追い出されたペイシストラトス一族の当主ヒッピアスは、スパルタに助けを求めた。スパルタはギリシアの盟主を目指しており、アテネをライバル視しており、アテネの政体をコントロールしようとして、この要請を受け、ヒッピアスをアテネの独裁者に戻すべきと呼びかける。周辺の同盟国は、強国スパルタに逆らえず、沈黙を守った。 |
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しかし、コリントスだけは、反対を表明した。「スパルタの方々よ、貴国は自分の国では独裁者が生まれてこないよう、細心の注意をしてなさる。それが他国に独裁者を立てようといわれる。独裁者の政治というのは、こういうものじゃ。ギリシアの国々に独裁制を敷こうなどと考えてくださるな。敢えてヒッピアスを復帰させようとするなら、コリントスは貴国の行動を是認せぬことをご承知願いたい」
これを機に、沈黙していた同盟各国も反対に転じ、スパルタとヒッピアスの策略は頓挫した。 |
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ヒッピアスが次に頼ったのが、ペルシア帝国だった。ヒッピアスは、ペルシア帝国のアナトリア半島の長官アルタプレネスを訪れ、アテネ侵攻を持ちかける。策謀を知ったアテネはアルタプレネスに使者を送るが、アテネが安全を願うなら、ヒッピアスを復帰させるよう要求した。ここにペルシアとアテネの対立は決定的となる。
スパルタを発ったアリスタゴラスがアテネに到着したのは、このタイミングであった。アテネはアリスタゴラスに説き伏せられ、軍船20隻をイオニア人への援軍として派遣することとした。 |
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初戦ではアテネ・イオニア側が優勢で、アナトリア半島のペルシアの拠点サルディス(旧リディア王国の首都)を占拠し、焼き尽くした。ダレイオス王は悔しさのあまり、近習に食事の度に「アテネ人を忘れたもうな」と3回言わせた。 |
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国力に勝るペルシアは次第に挽回し、侵攻してきたアテネ・イオニア軍を鎮圧し、アリスタゴラスは撤退中に討たれ、ヒスティアイオスも逃走中に捕らえられ、胴体は磔に、首は塩漬けにされてダレイオスのもとに送られた。発端となったミレトスは完全にペルシア軍に制圧され、全市民が奴隷にされた。 |
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さらに攻勢にでたペルシア軍は、ギリシア系の植民市があるアナトリア半島沖の島々を攻略して焼き払い、美貌の少年を選んで去勢し、器量のいい少女をダレイオス王のいる宮廷へ送った。アジアとヨーロッパの間にあるへレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)付近も制圧し、ギリシアの諸都市に使節を派遣し、ダレイオス王への隷属を命じると、こぞって服従した。 |
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そしていよいよアテネへ侵攻する。アナトリア半島の長官アルタプレネスが総大将、アテネの地勢に詳しいヒッピアスがその軍隊を先導した。ヒッピアスが布陣の地として選んだのがマラトン。 |
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アテネでは迫りくるペルシア軍に対し、交戦か否かで意見が二分する。そのとき将軍ミルティアデスが主戦論を展開し、国論を1つにまとめた。
「今やアテネは建国以来の危機に瀕している。仮に屈するようなことがあれば、ヒッピアスの手に委ねられることは必定、その結果、どのような目に遭わねばならぬかは明白。また、もし我が国が安泰を保つことを得れば、ギリシア諸国の中の第一等の国になることができる。(略)もしわれらが戦わぬならは、必ずや我が国に激しい内部分裂が起こってアテネ国民の士気を動揺せしめ、その結果はペルシアに屈することとなるに違いない。しかしながらもしわれらが幾人かのアテネ人が不心得な考えを抱くような事態になる以前に戦いを交えるならば、神々が公平であられる限り、われらは戦って勝ちを制することができる。」 |
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かくしてアテネ軍は、BC490年、諸都市の中で唯一援軍に駆けつけたプラタイアの軍とともにマラトンへ進軍する。
兵力で劣るアテネ・プラタイア軍は、戦線の幅をペルシア軍に合わせ、中央部分を薄く、左右両翼を手厚くするよう布陣。ペルシア軍が中央突破を試みたとき、左右から挟み込む形で対抗した。これが奏功して、ペルシア軍は撤退した。アテネ側の最大の武器になったのは、騎馬や弓ではなく、歩兵の駆け足による突撃だったことが意表をついたと言われている。 |
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海へ逃れたペルシア軍は、作戦を変更し、兵士が少ないはずのアテネを海から攻撃しようとした。しかし、それを察知したアテネ軍が陸路を全速力で引き返し、ペルシア軍の襲来より先に帰還を果たす。これを見たペルシア軍は本国へ帰還した。(以上がヘロドトス『歴史』第6巻) |
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ダレイオス王は怒り心頭、アテネ再侵攻の準備を進めたが、その4年後、支配下にあったエジプトがペルシア帝国から離反する。ダレイオス王はエジプト・ギリシア両方面の討伐に意気込むが、翌年(BC486年)死去した。在位36年。 |
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後を継いだ息子クセルクセスは、当初エジプト奪回に意欲を燃やし、当時辺境だったギリシアにさほど興味を示さなかった。それを翻意させたのが将軍マルドニオス。ダレイオスの妹の子で、クセルクセスにとっては従兄弟にあたる。
マルドニオスはマラトンの戦い以前に大艦隊でアテネへ遠征したが、嵐により300隻の艦船と2万人の兵士を失うという惨事を経験しており、アテネに固執しる理由があった。 |
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その意を汲んで、クセルクセスはギリシア遠征を決意し、4年をかけて準備をした。艦船は4,000隻以上、海兵50万人、陸上部隊は170万人、騎兵8万人、その他アラビアのラクダ部隊、リビアの戦車部隊など2万人、ヨーロッパで徴用された兵力数十万人。行く先々で飲料のために使われた川の水が枯れ果てたとの伝説が残るほどだった。 |
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ギリシアには再び戦慄が走った。「デルフォイの神託」を乞うと、「木の砦、唯一不落の累となり」との神託をアテネのテミストクレスが「海戦の準備すべし」と解釈し、アテネの住民を船に乗せて海上に避難させた。
周辺の諸都市から代表者がアテネに集まり、ギリシアとして一致団結して戦うことを誓約した。その中にはスパルタもいた。 |
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テルモピュライの戦い(P104);スパルタ王レオニダスと300人のスパルタ兵が大軍のペルシアを相手に善戦するが全滅。 |
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アルテミシオンの海戦(P106);大艦隊のペルシア軍が狭い海峡で嵐に遭い、混乱するが、テルモピュライでのスパルタの敗戦を聞いて、アテネなどギリシア艦隊は撤退する。 |
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アテネの陥落;クセルクセスがアテネに進攻したときには、アテネ市民はほどんど船で退避しており、クセルクセスはアテネに火をかけてパルテノン神殿も含めて焼き払った。 |
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サラミスの海戦;ギリシアの勝利、クセルクセス王はペルシアへ帰還 |
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プラタイアの戦い(P111);ギリシアの勝利となる |
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・・・以降略。『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著)*1 |