空海は儒学を学びながら官吏をめざす当時の大学を中退し、僧になる道を選び、乞食のような私度僧となる。空海は、当時唐で流行り始めた密教を自分で学ぶ。それを極めるために、最澄らの遣唐使船へ同乗することとする。空海渡唐にあたっては、空海が出た佐伯氏一門の支援があったと思われる。
西暦804年、空海は34日間かかって唐に渡る。周囲を海に囲まれている日本ではあったが、当時の日本の造船技術は未熟で、平たい器を浮かべたような船で、クギもないため、木を組み合わせて造られていた。8世紀においては、すでに中国にアラブ人が貿易に来ていたが、日本はそれらの船をまねすることなく、古来からの独自技術(当時はすでに亡い百済の技術と考えられる)にこだわり、進化していなかった。
また、西洋ではすでに天測航法が知られていたが、日本がとっていたのは中国式の天測航法、つまり太陽がでている昼は除き、天測はするが、その結果は占いによって方角を決めていたという。
その上、決まって南に向かうには逆風となる夏を選んで、出発していた、という。東シナ海の季節風もアラブ人が発見したらしい。
唐に渡ったときは、すでに空海は中国語が話せたらしく、詩や文章もすばらしく、独学での密教の基礎知識もあって、密教のすべての伝承を受けただけでなく、当時の
密教の継承者(一番えらい人)である恵果から、その座を譲り受けという。
最澄は、天台宗を請来させることが目的であったが、帰国の船を待つ間に、少し学んだ密教が、時の桓武天皇などに喜ばれ、その命により、他の僧侶などに対しても密教だけで行われる灌頂を施したという。しかし、空海が帰国したとなると、密教の総本山が日本にやってきたようなものであり、かつ帰国前に桓武天皇が崩御しており、最澄と空海は対照的な立場となった。最澄に攻撃されていた南都(奈良)の僧侶たちも空海に加担したらしい。また、代わった嵯峨天皇は、文化人としての空海を友人として、また師として重く用いた。
生真面目な感じのする最澄は、空海から学ぼうと、空海が持ち帰った密教の経典を借り受けようとし、自らを空海の“弟子”と称したりした。しかし、このような学び方は「筆授」といい、密教の嫌うやり方であったようだ。一度は、空海は最澄を弟子とし、密教を継承させようとしたようだが、密教を天台宗の一部として取り扱おうとしていた最澄に対して、ついに絶縁状をたたきつる。
そして、最澄は比叡山、空海は高野山を開き、この二人以降、日本の仏教は他の宗派に対して、閉鎖的になったという。
最澄は空海より12年前に没している。空海は835年3月21日に高野山において没した。信仰者は、この死を入滅とせず、“入定”といって、いまなお空海が地下で祈り続けていると信じているという。
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