Title9-3.GIF (2758 バイト) 『空海の風景』             

[ 参考書籍 ]  

〜 読書記録(目次、概略、感想) 〜

『空海の風景』

司馬遼太郎著

文芸春秋社 1982年6月25日発刊

概 略

空海は儒学を学びながら官吏をめざす当時の大学を中退し、僧になる道を選び、乞食のような私度僧となる。空海は、当時唐で流行り始めた密教を自分で学ぶ。それを極めるために、最澄らの遣唐使船へ同乗することとする。空海渡唐にあたっては、空海が出た佐伯氏一門の支援があったと思われる。

西暦804年、空海は34日間かかって唐に渡る。周囲を海に囲まれている日本ではあったが、当時の日本の造船技術は未熟で、平たい器を浮かべたような船で、クギもないため、木を組み合わせて造られていた。8世紀においては、すでに中国にアラブ人が貿易に来ていたが、日本はそれらの船をまねすることなく、古来からの独自技術(当時はすでに亡い百済の技術と考えられる)にこだわり、進化していなかった。
 また、西洋ではすでに天測航法が知られていたが、日本がとっていたのは中国式の天測航法、つまり太陽がでている昼は除き、天測はするが、その結果は占いによって方角を決めていたという。
 その上、決まって南に向かうには逆風となる夏を選んで、出発していた、という。東シナ海の季節風もアラブ人が発見したらしい。

唐に渡ったときは、すでに空海は中国語が話せたらしく、詩や文章もすばらしく、独学での密教の基礎知識もあって、密教のすべての伝承を受けただけでなく、当時の 密教の継承者(一番えらい人)である恵果から、その座を譲り受けという。

最澄は、天台宗を請来させることが目的であったが、帰国の船を待つ間に、少し学んだ密教が、時の桓武天皇などに喜ばれ、その命により、他の僧侶などに対しても密教だけで行われる灌頂を施したという。しかし、空海が帰国したとなると、密教の総本山が日本にやってきたようなものであり、かつ帰国前に桓武天皇が崩御しており、最澄と空海は対照的な立場となった。最澄に攻撃されていた南都(奈良)の僧侶たちも空海に加担したらしい。また、代わった嵯峨天皇は、文化人としての空海を友人として、また師として重く用いた。

生真面目な感じのする最澄は、空海から学ぼうと、空海が持ち帰った密教の経典を借り受けようとし、自らを空海の“弟子”と称したりした。しかし、このような学び方は「筆授」といい、密教の嫌うやり方であったようだ。一度は、空海は最澄を弟子とし、密教を継承させようとしたようだが、密教を天台宗の一部として取り扱おうとしていた最澄に対して、ついに絶縁状をたたきつる。

そして、最澄は比叡山、空海は高野山を開き、この二人以降、日本の仏教は他の宗派に対して、閉鎖的になったという。

最澄は空海より12年前に没している。空海は835年3月21日に高野山において没した。信仰者は、この死を入滅とせず、“入定”といって、いまなお空海が地下で祈り続けていると信じているという。

感 想

空海は最澄とならび称せられるが、同じ遣唐使船で唐に渡ったこと、また、最澄は天台宗を請来させるエリートとして派遣されたのに対し、空海は留学生として、それも二十年間の予定で、ほとんど自費で渡った、という対象的な存在であったことをはじめて知った。

司馬遼太郎氏は、空海という平安時代初期の日本という記録の少ない時代の題材であり、多分に推測を働かせ、「〜といったかもしれない」などとセリフまでをも想像している。少し映像化などを前提に考えているのではないかと勘ぐってしまうが、小説家としてやむなしなのかもしれない。『空海の風景』という題名にもそのあたりの雰囲気がでているような気がする。

最澄がその前半生において、桓武天皇から信頼され、奈良の各宗派を圧する勢いを持ち、ついには遣唐使の中心として唐へ赴いた。それに対して、空海はその前半生において、山野を歩き回り、乞食僧同然で過ごしたが、派遣された唐で、その天才を発見され、帰国後は逆の立場となる、という対照性がこのストーリーの中心となる。生真面目な秀才最澄と型破りな天才空海として、対照的に描かれている。 そして、二人は決裂した。

最澄は比叡山、空海は高野山を開き、この二人以降、日本の仏教は他の宗派に対して、閉鎖的になったという。日本の仏教にとっても、この二人の存在は転機になったようである。

仏教を扱った歴史ものははじめて読んだが、この後、仏教の展開については今後の課題としたい。

2005.11 読了

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