戦争の歴史 | ![]() |
探究テーマ史一覧
ホーム
哲学・思想の歴史
「哲学・思想の歴史」ページの転用のため、元のページの内容が残ったままになっている。(工事中)
時代 | 欧 州 | 日本・アジア |
ペリクレス(BC495~429) | ||
BC5世紀 | ペルシア戦争(BC492~480) -BC490年;(第ニ次)マラトンの戦い -BC480年;(第三次)テルモピュライの戦い -BC480年;(第三次)サラミスの海戦 -BC479年;(第三次)プラタイアの戦い -BC479年;(第三次)ミュカレ岬の海戦 |
|
戦国時代(BC453~221) | ||
ペロポネソス戦争(BC431~404) -BC431年;アルキダモス戦争 -BC424年;デリオンの戦い -BC422年;アンフィポリスの戦い |
||
BC4世紀 | フィリッポス2世(BC359~336) | |
アレクサンドロス大王(BC336~323) | ||
BC3世紀 | ||
秦の始皇帝(BC259~210) | ||
戦争 | 概要 |
ペルシア戦争(BC492~480) |
|
-BC490年;マラトンの戦い | (第ニ次) |
-BC480年;テルモピュライの戦い | (第三次) |
-BC480年;サラミスの海戦 | (第三次) |
-BC479年;プラタイアの戦い | (第三次) |
-BC479年;ミュカレ岬の海戦 | (第三次) |
戦争 | 概要 |
ペロポネソス戦争(BC431~404) | ペルシア戦争では、結束して勝利を得たアテネとスパルタであったが、その後、アテネはデロス同盟を形成し、その財政を集約して繁栄し、BC443年にペリクレスが将軍に就き、「ペリクレス時代」と呼ばれるアテネ民主政の最盛期を迎える。一方のスパルタはペロポネソス同盟により対抗。BC431年ペロポネソス戦争が開始される。アテネの民主制とスパルタの寡頭制との戦いでもあった。アテネはデロス同盟の財政により帝国化し、さらに弁論がうまい政治家に民衆が先導される衆愚政治となり、民主制の欠点を晒すこととなった。海軍力で圧倒したアテネであったが、穀倉地帯をスパルタに荒らされ、また疫病の流行などで国力が低下し、敗れることとなった。トゥキディデス『戦史』に記述されている。(*4) |
-BC431年;アルキダモス戦争 | スパルタ王アルキダモス、デロス同盟のアッティカに侵入、連年劫略。アテネでは消耗すると同時に、BC430年頃から疫病が流行した。アテネはペリクレスという徳も見識もある一人のリーダーによって支えられていたが、BC429年ペリクレスも死去する。BC426年までにアテネの市民の1/6が死亡した。 |
‐BC428年;レスボス島事件 | レスボス島の諸都市がアテネから離反し、スパルタに支援を求める。BC427年にアテネが鎮圧。アテネはクレオンの煽動により、レスボス島のミュティレネに対し、成人男子を全員処刑、女性・子どもを全員奴隷化とする判断をした。 |
-BC427年;ケルキュラ島内戦事件 | ケルキュラ島の寡頭派(スパルタ側)と民主派(アテネ側)で内戦となり、アテネ、スパルタ双方が援軍を出した。寡頭派が虐殺され、BC425年ケルキュラの内乱終わる。大儀より私利私欲が優先されるようになる。 |
-BC425年;ピュロス・スファクテリアの戦い | アテネのデモステネス、ピュロスを占領し、スパルタ軍を撃退。アテネのクレオン、スパルタの和平提案を決裂させる。逆にアテネ軍が窮地に陥り、クレオンに批判が集まるが、将軍職となったクレオンは、デモステネスに助けられ、スファクテリア島でスパルタを攻囲し降す。クレオンの名声が高まる。デロス同盟の貢賦金、増額される。クレオン、陪審員手当を増額。『戦史』では、クレオンという扇動家により、衆愚化するアテネの民主制が描かれる。 |
-BC424年;デリオンの戦い | アテネではアテネはボイオティアとペロポネソス同盟軍に敗れ潰走。スパルタの将軍ブラシダス、アンフィポリスとトロネを占領。ゲラ会談で、シチリアの諸ポリス、アテネの干渉回避のため、休戦を宣す。 |
‐BC423年;トゥキディデス陶片追放 | トゥキディデス(『戦史』作者)が、トラキア地方を奪われた責任を問われ、陶片追放される。 |
-BC422年;アンフィポリスの戦い | アテネ軍潰走、アテネの将軍クレオン戦死。 |
‐BC421年;ニキアスの和約 | BC421 アテネ・スパルタ50年のニキアスの和約成立。アテネの平和論者ニキアスとスパルタ王プレイストアナクスで締結。 |
‐BC415年;デケレイア戦争 | BC415 ヘルメス像破壊事件起き、アテネの将軍アルキビアデス召喚され、スパルタに亡命。アテネ、シチリアへ遠征 BC414 アテネ、スパルタ側のシラクサを攻囲。BC413 デケレイア戦争(~BC404):スパルタ、アッティカに侵入しデケレイアを占拠。アテネのシチリア遠征隊、惨敗。アテネの市民感情を考えて撤退を躊躇したニキアス・デモステネスは、シチリアで投降後、約3万の将兵とともに殺害される。 アルキビアデスはソクラテスの弟子でもあったので、ソクラテスへの風当りが強くなり、糾弾・裁判・死刑につながる。 |
-BC405年;イゴスポタモイの戦い | アテネ、スパルタの指揮官リュサンドロスに惨敗。スパルタはアテネを攻囲。翌404年にアテネは降伏し、スパルタにより民主制が廃された。 |
戦後の情勢 | スパルタにより、アテネの城壁は破壊され、アテネの民主制は廃され、30人僭主の寡頭派政権が作られたが。暴政により、打倒され、翌BC403年民主制が回復された。その後もペルシアを巻き込んで、同盟、離反を繰り返しながらギリシアの覇権争いは続き、ギリシアの各都市は国力を低下させていく。ギリシアの技術、文化、制度を学んだマケドニアが国力を蓄え、BC4世紀半ばにマケドニアの王フィリッポス2世がギリシアの覇権を握る。 |
資料 | 『世界史大年表』(山川出版社、石橋秀雄 他) *1 |
『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 *2 | |
『世界哲学史1』 浦和也 他 著 *3 | |
『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著) *4 |