Title9-3.GIF (2758 バイト) 後趙

 

開祖 明帝(高祖)石勒 支配民族  羯族 石氏
興亡 319年〜351年 首都  襄国−[業(オオザト)]

建国

 匈奴の一種である羯族の石勒は初め烏桓に属していたが、その勢力とともに前趙を興した匈奴の劉淵につき、その死後、劉聡が立つと劉曜とともにその幕下となる。劉聡の死後、自立し、後趙を建国した。南の東晋を侵略しながら、前趙と戦ってこれを滅ぼし、330年江北を統一した。

滅亡

 333年石勒死後の内争を制して石虎が帝位についた。石虎は慕容部と同盟を結んで鮮卑族の段部を謀り、そのまま慕容部へ攻め込んだが撃退され、かえって慕容部の拡張を許した。この後、前涼に対しても征討軍を起こすが撃退され、石虎死後、その子の間で内争となり、石勒の養孫である漢人の石閔(セキビン)が石鑒を殺して即位し、姓名を冉閔に復し、国号を魏(大魏)とした。冉閔は(ゼンビン)は羯族20万人を虐殺した。

 後趙の石祗は襄国で即位し、冉閔に対抗したが、部将に殺され、351年後趙は滅んだ。冉閔も352年前燕の慕容儁に斬られ、魏もまもなく滅んだ。

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資料 陳舜臣『小説十八史略』(185)