333年石勒死後の内争を制して石虎が帝位についた。石虎は慕容部と同盟を結んで鮮卑族の段部を謀り、そのまま慕容部へ攻め込んだが撃退され、かえって慕容部の拡張を許した。この後、前涼に対しても征討軍を起こすが撃退され、石虎死後、その子の間で内争となり、石勒の養孫である漢人の石閔(セキビン)が石鑒を殺して即位し、姓名を冉閔に復し、国号を魏(大魏)とした。冉閔は(ゼンビン)は羯族20万人を虐殺した。
後趙の石祗は襄国で即位し、冉閔に対抗したが、部将に殺され、351年後趙は滅んだ。冉閔も352年前燕の慕容儁に斬られ、魏もまもなく滅んだ。
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