| 西暦 |
月日 |
主なできごと |
その他のできごと |
| 1792年 |
9月5日 |
ラクスマン乗船のエカチェリーナ号、漂流民大黒屋光太ら送還と国交樹立交渉のため根室に入港。*3 |
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| 1803年 |
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幕府、東蝦夷地を松前藩から永久上知とした。*3 |
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1804年
(文化元年) |
9月6日 |
レザーノフのナジェジダ号、長崎に入港。出島オランダ館長ドゥーフが立ち合い。レザーノフ、クルーゼンシュテルンらは交渉の間、長崎に上陸。5か月後、幕府は通商を拒否。翌年3月18日長崎を出港。*3 |
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1805年
(文化2年) |
7月18日 |
レザーノフ、樺太・南千島の日本植民地襲撃計画を皇帝アレクサンドルに上申。*3 |
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1806年
(文化3年) |
3月 |
幕府を応接した遠山景晋が西蝦夷地(松前藩領)を調査。松前彰広の扁額「降福孔夷」を「福を紅夷(ロシア人)に降す」と読んで問題視。*3 |
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10月 |
レザーノフ配下のフヴォストフ、ダヴィドフらは2隻の武装した商船(約70名)で樺太クシュンコタンの松前藩運上所を襲撃、サハリンがロシア領であることを宣言。*3 |
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1807年
(文化4年) |
3月1日 |
レザーノフ、ロシア皇帝の仲介でサンフランシスコのスペイン総督の娘との結婚に関するローマ教皇の許しを得るため、ペテルスブルグへ帰還の途上死去。*3 |
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3月22日 |
幕府は松前本領と西蝦夷地を松前氏から取り上げ、奥州梁川九千石を支給。前藩主松前道広を永蟄居とした。*3 |
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4月 |
フヴォストフの樺太襲撃を松前藩が知る。箱館奉行所へも通知し、松前藩兵が樺太に渡る。*3 |
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4月25日 |
フヴォストフらエトロフのナイボを襲撃、米塩など略奪し、アイヌに分配、エトロフをロシア領と宣言。*3 |
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4月27日 |
箱館奉行所の対露警固強化上申に対して、幕府は防備は宗谷にとどめ、樺太の番屋・倉庫の再建、出兵も無用とした。ロシアとの紛争を回避することを基本とした。ロシアとの通商を開く議論もあった。*3 |
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4月29日 |
フヴォストフら、エトロフのシャナに上陸。シャナには箱館奉行所の幕吏が駐在、南部・津軽の藩兵ら230名が警固していたが、ろくに戦わず撤退。このとき間宮林蔵も在勤していた。*3 |
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フヴォストフ、ダヴィドフは、オホーツク長官に投獄された。その後、二人は脱獄し、スウェーデンとの戦争で戦功を立てたが、1809年ペテルスブルグで酩酊しネヴァ河で溺死。*3 |
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1808年
(文化5年) |
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松前奉行所(箱館奉行所改め)の河尻・荒尾は、フヴォストフらの暴行を謝罪するなら、交易を許してもよい、辺土同士の交易なら国法に背かない、と上申。*3 |
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8月 |
間宮林蔵、樺太・アムール地方の調査から帰還し、樺太が島であることを確認。間宮海峡の発見。*3 |
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1811年
(文化8年) |
7月5日 |
ゴローヴニンのディアナ号がクナシリ島トマリ湾に来航。松前奉行が会見すると称して上陸したゴローヴニンを捕らえる。副官リコルドはディアナ号で退避。*3 |
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1812年
(文化9年) |
1月26日 |
ゴローヴニンは箱館、ついで松前に移送され、幕府は先年フヴォストフの暴行がロシア政府の一員として行われたものかについて詰問した。取り調べをした松前奉行荒尾の上申に反し、幕府はゴローヴニンらを放免しない決定を下す。*3 |
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2月 |
間宮林蔵がゴローヴニンと面会。*3 |
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3月24日 |
ゴローヴニンら四人は脱走するが、翌日捕らえられる。*3 |
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8月14日 |
リコルドはクナシリに戻り、日本船を拿捕し、高田屋嘉兵衛を拉致した。一時ペトロパヴロフスクに抑留される。*3 |
6月ナポレオン軍がロシアへ侵攻。 |
1813年
(文化10年) |
5月27日 |
クナシリ島トマリで高田屋嘉兵衛解放される。7月幕府はリコルドに改めてフヴォストフ事件の釈明書を求める。*3 |
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9月26日 |
釈明書を持ったリコルドが箱館に戻り、ゴローヴニンが解放される。高田屋嘉兵衛もディアナ号を見送った。リコルドは去り際、イルクーツク知事トレスキンから日露和平懇親のための会談開催が打診する書簡を日本に手渡す。翌年の回答を期していた。*3 |
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1814年
(文化11年) |
6月8日 |
幕府から前年の回答書簡を渡すためエトロフに出向くが行き違いとなる。国交樹立は問題外だが、国境問題について、日本側エトロフまで、ロシア側はシムシリまでとし、エトロフ・シムシリ間の諸島はウルップを含めて中立とする、という幕府見解を示していた。*3 |
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1815年
(文化13年) |
8月 |
ロシアはパーヴェル号(船長;スレドニー)を日本人漂民6名をエトロフ島へ送還。濃霧で上陸できず、小舟で漂民のみを帰還させた。交渉再開のためのイルクーツク知事の書簡は手渡すことができず。*3 |
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| 1816年 |
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シベリア総督ぺステリ、日本との交渉はよい時期がくるまで延期することを上申し裁可された。イルクーツクの日本語学校が閉鎖される。日露通商の努力は露米会社が継続。*3 |
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1821年
(文政4年) |
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幕府、蝦夷地を松前氏に返還。(幕府の北辺への警戒意識が低下した現れ。1855年2月まで。) |
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| 1828年 |
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露米会社によるウルップ植民再開される。*3 |
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1836年
(天保7年) |
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ロシアのオルロフ少尉のウラナスカ号で日本漂民3名を送還。アッケシで砲撃を受け、エトロフに上陸させて退去。ロシア政府から露米会社には通商交渉に入らないよう訓令がでていた。*3 |
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1843年
(天保14年) |
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ガヴリーロフ少尉のフロムイセル号越中国漂民をエトロフに送還。*3 |
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| 1843年 |
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プチャーチン海軍少将、日本との国交樹立のため探検隊を派遣する計画を上申。総理大臣ネッセルローデの反対にあう。 |
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| 1844年 |
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クルーゼンシュテルン提督の対日関係樹立計画上申するも裁可されず。 |
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1851年
(嘉永4年) |
1月3日 |
土佐国中浜村の漂流民ジョン万次郎、米国船で琉球に着く。 |
1/11清にて、洪秀全、太平天国を建設。 |
| 8月 |
薩摩藩主島津斉彬、精錬所を築く。 |
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1852年
(嘉永5年) |
6月24日 |
ロシア軍艦、漂流民を送って下田に来航。 |
2/19英船で米国に向かう中国人労働者、人身売買を拒否して暴動。船長を殺害して琉球に上陸。 |
| 8月17日 |
オランダ商館長が明年の米国使節来訪を予報。 |
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12/2仏ルイ=ナポレオン大統領、クーデターにより帝位に就く。(第二帝政~70) |
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12月英、ビルマ戦争により下ビルマを併合。 |
1853年
(嘉永6年) |
6月3日 |
米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる米国艦隊が浦賀沖に現れ、開国を求める国書を差し出す。 |
太平天国、武昌、九江、南京等占領。英米人、自衛のための義勇軍を結成。 |
| 6月9日 |
幕府、米国国書を受領。 |
太平天国、北伐・西征を開始。 |
| 6月12日 |
ペリー、国書回答の明年延期を認め退去。 |
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| 7月1日 |
老中阿部正弘、諸大名に米国書を示し意見を聞く。 |
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| 7月18日 |
ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン、軍艦4隻で長崎来航。 |
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| 8月6日 |
幕府、高島秋帆の禁固を解除。 |
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| 9月15日 |
幕府、大船建造の禁を解除。 |
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| 9月26日 |
江川英竜指揮のもと、品川台場の建造命令。 |
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この月、幕府、長崎奉行を通じオランダに軍艦・鉄砲を注文。 |
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| 10月18日 |
徳川斉昭、大砲74門を幕府に献上。 |
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| 12月5日 |
プチャーチン艦隊4隻、長崎に再来して通商条約を協議。 |
10/20(11/1)クリミア戦争勃発。 |
| 12月5日 |
水戸藩、幕命により、江戸石川島で軍艦建造を開始。 |
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1854年
(安政元年) |
1月16日 |
ペリー、軍艦7隻を率い小柴沖に投錨。 |
2/23米軍艦、清の軍船を拿捕。 |
| 3月3日 |
日米和親条約締結;下田、箱館開港。片務的最恵国待遇供与。 |
3/7英軍、清軍と戦う。 |
| 3月23日 |
プチャーチン、長崎に再び来航。 |
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| 3月28日 |
吉田松陰、下田で密航を企て捕らえられる。 |
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| 4月6日 |
佐久間象山、松陰の密航に連座して投獄。 |
4/13英米仏、清の海関設置に抗議して、上海を自由港とする。 |
| 6月17日 |
ペリー、琉球と修好条約を結ぶ。 |
4/23東シベリア総督ムラヴィヨフ、軍を率いて黒竜江を下る。 |
| 7月15日 |
英東インド会社艦隊司令長官スターリング、長崎に来航。 |
5/26米公使、昆山で条約改定を要求。 |
| 8月23日 |
日英和親条約締結;長崎・箱館開港。 |
5/28雲南でイスラム教徒の乱起こる。漢人多数を殺害。 |
| 9月2日 |
オランダにも下田・箱館を開港。 |
6/9英公使ボーリング、上海で条約改定を要求。 |
| 11月4日 |
関東・東海道大地震;下田入港中のプチャーチンの乗船ディアナ号大破。 |
7/15清、英・米に条約改定拒否。 |
| 12月21日 |
日露和親条約締結;下田・箱館・長崎開港。千島エトロフ・ウルップ島間に国境策定。樺太は雑居地とする。 |
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この年、江川英竜が韮山に反射炉を築く。 |
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1855年
(安政2年) |
1月 |
幕府、蛮書和解御用を独立させ、洋学所を開設。 |
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| 2月5日 |
幕府、講武所開設。 |
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| 2月22日 |
幕府、松前氏の居城付近を除き、全蝦夷地を直轄化。 |
4/16北伐の太平軍壊滅。各地の天地会と清との攻防つづく。 |
| 3月22日 |
プチャーチン、伊豆戸田での建造船ヘダ号で帰国。 |
| 6月29日 |
大名・旗本に洋式調練を命じる。 |
5/15パリ万国博覧会開催 |
| 7月29日 |
長崎海軍伝習所を開設。 |
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| 8月14日 |
前水戸藩主徳川斉昭、幕府の政務参与に就任。 |
9/9英仏軍、セヴァストポリ要塞を陥落させる。 |
| 10月2日 |
安政大地震;藤田東湖圧死。 |
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| 10月9日 |
下総佐倉藩主堀田正睦、老中首座に就任。 |
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| 12月15日 |
吉田松陰、萩へ檻送、蟄居を命じられる。 |
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| 12月21日 |
日露和親条約;北方領土の択捉島と千島列島の得撫(うるっぷ)島との間に国境を設けた。樺太には国境を設けず、両国民の混住の地とされた。 |
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1856年
(安政3年) |
2月11日 |
洋学所を蕃書調所と改称。 |
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| 7月21日 |
米国総領事ダウンゼント・ハリスが下田に着任。 |
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| 8月5日 |
ハリス、下田に領事館を開設。通商条約締結を要求。可否を巡って日本を二分する大論争。(和親条約と違って、具体的に通商を行う内容で、外国人の日本居住を前提としていた。) |
8/4太平天国の指導者の内紛起こる。 |
| 9月18日 |
長崎奉行、浦上の隠れキリシタンを弾圧(浦上三番崩れ)。 |
9/6広州でアロー号事件(清官憲が香港船籍のアロー号の中国人を捕らえ、英国国旗を引き下ろす) |
| 10月17日 |
老中堀田正睦、外国事務取扱の選任専任となる。 |
9/25アロー戦争勃発(~1860);英海軍セーモア提督、広州に進攻、砲台占領。 |
1857年
(安政4年) |
2月1日 |
オランダ、アロー号事件を長崎奉行に通知。 |
| 4月11日 |
講武所内に軍艦教授所を開設。 |
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| 5月26日 |
ハリスと下田条約を締結(治外法権など) |
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| 閏5月19日 |
薩摩藩主島津斉彬、磯の洋式工場を集成館と命名。 |
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| 7月 |
幕府、長崎飽之浦の製鉄所建設に着手。 |
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| 8月4日 |
オランダ海軍軍医ポンぺ、長崎伝習所教官として来日。 |
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| 10月16日 |
福井藩主松平慶永ら、将軍継嗣に一橋慶喜推薦を建議。 |
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| 10月21日 |
ハリス、将軍に謁見し、大統領ピアースの国書を提出。 |
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| 12月13日 |
幕府、ハリスと日米通商条約を締結することを朝廷へ伝える。 |
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| 12月29日 |
幕府、諸大名に日米通商条約を示し意見を聞く。 |
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1858年
(安政5年) |
1月8日 |
老中堀田正睦、日米修好通商条約の勅許を請うため上京。 |
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| 3月20日 |
朝廷、条約勅許拒否を回答。関白主導で一旦は勅許を下すこととしたが、孝明天皇が呼びかけ88人の下級公家が列参し、拒否することを決定。 |
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| 4月23日 |
彦根藩主井伊直弼、大老に就任。堀田正睦は失脚。 |
5/28清とロシア、アイグン条約締結。 |
| 6月19日 |
幕府、ハリスと日米修好通商条約を締結;自由貿易、領事裁判権・協定関税制の不平等条約。孝明天皇は激怒し、譲位の意向を示す。 |
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| 6月25日 |
紀伊藩主徳川慶福(後の家茂)を将軍継嗣と決定。 |
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| 7月5日 |
徳川斉昭(水戸)、松平慶恕(尾張)、松平慶永(越前)に謹慎を命ず。 |
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| 7月6日 |
13代将軍家定没(35歳)。 |
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| 7月 |
蘭・露・英と修好通商条約を締結。 |
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| 8月8日 |
戊午の密勅;孝明天皇、条約締結に不満の勅諚を水戸藩などに下す。 |
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| 9月3日 |
仏と修好通商条約締結。 |
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| 9月7日 |
安政の大獄はじまる。;梅田雲浜、橋本佐内など逮捕。 |
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| 10月25日 |
徳川家茂、第14代将軍就任。 |
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| 10月 |
福沢諭吉、江戸築地鉄砲洲の中津藩邸に私塾を開設(慶應義塾の起こり)。 |
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| 12月5日 |
長州藩、吉田松陰を老中襲撃の陰謀で投獄。 |
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| 12月30日 |
薩摩藩、西郷吉之助(隆盛)を奄美大島に流す。 |
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| この年 |
江戸でコレラ流行。歌川広重没。 |
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1859年
(安政6年) |
2月17日 |
孝明天皇、幕府の圧力により一橋派の青蓮院宮らに謹慎を命じる。 |
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| 4月22日 |
幕府の内奏により、前関白鷹司政通、近衛忠熙、三条実万ら謹慎・出家処分。 |
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| 5月26日 |
駐日英総領事オールコック着任。 |
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| 5月28日 |
幕府、神奈川・長崎・箱館を6月以降開港。米英露仏蘭との自由貿易を許可。 |
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| 6月 |
英は総領事館を高輪東禅寺に、米は公使館を麻布善福寺に設置。 |
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| 7月6日 |
シーボルト、再び長崎に来日。 |
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| 8月27日 |
幕府、前水戸藩主徳川斉昭、同慶篤に差控。一橋慶喜に隠居謹慎を命じ、同藩家老安島帯刀に切腹を命令。 |
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| 9月23日 |
米宣教師ヘボン来日。 |
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| 10月7日 |
橋本佐内、頼三樹三郎ら死罪。 |
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| 10月11日 |
前土佐藩主山内豊信に謹慎処分。 |
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| 10月27日 |
吉田松陰死罪。 |
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| 12月8日 |
下田港を閉鎖。 |
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1860年
(万延元年) |
1月19日 |
勝麟太郎・福沢諭吉ら、条約批准交換のため咸臨丸で浦賀出港。 |
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| 1月22日 |
遣米特使外国奉行新見正興ら、米艦ポータハン号で横浜出港。 |
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| 3月3日 |
桜田門外の変;水戸・薩摩浪士18名、大老井伊直弼を殺害。 |
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| 閏3月19日 |
五品(雑穀・水油・蠟・呉服・生糸)の横浜直送禁止・江戸廻送令。 |
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| 閏3月28日 |
新見正興ら、ワシントンで米大統領ブキャナンに謁見。 |
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| 8月15日 |
徳川斉昭死去。 |
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| 9月4日 |
幕府、一橋慶喜、松永慶永、徳川慶勝、山内豊信らの謹慎を解除。 |
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| 11月1日 |
幕府、皇妹和宮の将軍家茂への降嫁を発表。 |
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| 12月5日 |
米通訳官ヒュースケン、江戸の三田で斬殺される。 |
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1861年
(文久元年) |
2月3日 |
露軍艦、対馬占領を企図(対馬事件) |
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| 3月23日 |
仏米英蘭露5国へ兵庫・新潟両港、江戸・大阪両都の開市、開港延期を要請。 |
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| 3月28日 |
長州藩主毛利慶親、長井雅樂の「航海遠略策」を採用、朝廷に上層。 |
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| 5月28日 |
水戸浪士ら、江戸高輪東禅寺の英公使館を襲撃。 |
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| 7月23日 |
英艦、対馬で露艦の退去を要請。8月退去。 |
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| 10月20日 |
皇女和宮、京都を出発、江戸へ向かう。11/15江戸着。孝明天皇は、幕府に好意的で公武合体を進めたが、一方で攘夷を10年以内と約束させた。 |
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| 10月28日 |
種痘所を西洋医学所と改称。 |
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| 12月4日 |
外国奉行水野忠徳ら、小笠原諸島開拓のため咸臨丸で出発。 |
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| 12月23日 |
外国奉行竹内保徳ら、開市・開港延期交渉で欧州へ出発。福沢諭吉、福地源一郎ら随行。 |
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1862年
(文久2年) |
1月15日 |
坂下門外の変;安藤信正、水戸浪士ら6名に襲われ負傷。公武合体策(和宮降嫁)に反発した攘夷派の志士による。幕府権威の失墜、攘夷派が活発化。 |
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| 2月11日 |
将軍徳川家茂と皇女和宮の婚儀。 |
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| 4月8日 |
土佐藩参政吉田東洋(開明派)、勤王党に暗殺される。 |
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| 4月16日 |
薩摩藩の島津久光、藩兵を率い入洛。改革意見を上奏。 |
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| 4月23日 |
島津久光、有馬新七らを伏見寺田屋に上意討ち。 |
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| 5月9日 |
江戸・大阪の開市、兵庫・新潟の開港延期の覚書をロンドンで調印。 |
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| 5月18日 |
蕃書調所を洋書調所と改称。 |
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| 5月 |
孝明天皇、攘夷督促の勅使を江戸に派遣。初めて勅使が将軍の上段に着座。幕府が朝廷の権威にすがるようになる。朝廷でも尊王攘夷派が、公武合体派に対して優位に。 |
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| 6月10日 |
勅使大原重徳、幕政改革の勅旨を将軍に伝達。 |
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| 7月6日 |
一橋慶喜を将軍後見職に任命。9日 松平慶永を政事総裁職に任命。 |
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| 8月21日 |
生麦事件;島津久光の行列護衛の薩摩藩士、横浜生麦村でイギリス人を斬る。 |
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| 閏8月1日 |
会津藩主松平容保を京都守護職に任命。 |
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| 閏8月22日 |
参勤交代制を緩和。大名の嫡子・妻子についても帰国を認めた(文久の改革)。しかし、日本全体としての軍備増強と全国の海岸警備を目的としていたが、結果として徳川幕府の力を弱めることとなった。 |
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| 9月1日 |
榎本武揚、西周、津田真道ら幕府のオランダ留学生、長崎を出発。 |
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| 11月2日 |
幕府、朝廷の攘夷督促の遵守を決定。 |
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| 12月12日 |
高杉晋作ら江戸品川御殿山の英公使館を焼き打ち。 |
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1863年
(文久3年) |
2月22日 |
足利氏木造梟首事件;京都 等持院の足利尊氏・義詮・義満の三代の木造の首と位牌を三条河原に晒した。首謀者は平田派の三輪田綱一郎、師岡正胤、角田忠行。 |
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| 3月4日 |
将軍家茂上洛、二条城に入る。将軍の上洛は229年ぶり。 |
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| 3月13日 |
幕府、浪士組の清川八郎を東帰させ、近藤勇ら、新撰組を名乗る。 |
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| 4月11日 |
天皇、石清水八幡宮に攘夷祈願の行幸。幕府に制限されていた天皇の行幸は、237年ぶり。なおかつ、将軍家茂等諸侯を従えていた。朝廷統制の崩壊。 |
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| 4月20日 |
幕府、5月10日を攘夷決行期限と奉答。 |
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| 5月10日 |
長州藩、下関海峡通航の米船を砲撃。次いで、仏・蘭艦へ砲撃。 |
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| 5月12日 |
長州藩の井上馨、伊藤博文ら、英留学のため横浜から密出国。 |
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| 5月18日 |
英仏守備兵の横浜駐屯を許可。 |
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| 5月20日 |
朔平門外の変;姉小路公知(右近衛少将、国事参政)が、禁裏朔平門外で暗殺される。薩摩藩の田中新兵衛が犯人と目されて捕らえられた。攘夷派であった公知が開国に傾いたためとされるが、取調べ中に田中が自殺し、真相は謎。朝廷は島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業という説もある。結果として薩摩藩は御所の乾御門の警備を外された。 |
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| 6月1日 |
米艦長州砲台を報復攻撃。 |
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| 6月5日 |
仏艦、長州の砲台を攻撃、占領。 |
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| 6月7日 |
長州藩の高杉晋作ら、奇兵隊を結成。 |
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| 7月2日 |
薩英戦争;イギリス艦隊、鹿児島を攻撃。 |
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| 7月18日 |
江戸城 西の丸火事により焼失 |
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| 8月17日 |
天誅組の乱;公家中山忠光ら尊攘派、大和五条代官所を襲う。 |
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| 8月18日 |
八月十八日の政変;公武合体派の公家・会津藩・薩摩藩らクーデターを起す。尊攘派公家・長州藩を追放。 |
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| 8月19日 |
攘夷派の三条実美ら七卿都落ち。 |
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| 8月29日 |
洋書調所を開成所と改称。 |
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| 9月14日 |
幕府、横浜閉鎖を外国に提議。 |
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| 9月21日 |
土佐藩勤王党の党首武市瑞山(半平太)らを投獄。 |
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| 12月25日 |
江戸城 本丸、二の丸 火事により焼失(本丸は再建されず)。 |
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| 12月30日 |
朝廷、一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城を朝議参予に任命。 |
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1864年
(元治元年) |
3月9日 |
参予会議解散。 |
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| 3月22日 |
仏公使ロッシュ着任。 |
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| 3月27日 |
天狗党の乱;水戸藩武田耕雲斎・藤田小四郎ら尊攘派、筑波山で挙兵。藩内の諸生党との抗争にも起因している。二百数十年の泰平の中で、水戸浪士の尚武の気性は人心を揺り動かした。*2 |
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| 6月5日 |
池田屋騒動;新撰組;京都三条の池田屋に尊攘派を急襲。 |
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| 6月15日 |
箱館の洋式城郭 五稜郭完成。 |
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| 7月11日 |
一橋慶喜に招かれて上洛した佐久間象山が京で暗殺される。 |
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| 7月19日 |
禁門の変(蛤御門の変);長州藩兵、京都御所諸門で幕府軍と交戦し、敗退。長州方は、洛中、内裏に火を放ち、天皇を拉致、また筑波の水戸志士とも呼応しようとした。京都は大火災となる。 |
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| 7月24日 |
第一次長州征伐;幕府、長州征討を命令。 |
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| 8月5日 |
四か国連合艦隊、下関を攻撃。 |
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| 8月14日 |
長州藩、四か国艦隊と講和。 |
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| 11月11日 |
長州藩、禁門の変の責任者に切腹を命じ、朝廷・幕府に恭順を表す。 |
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| 11月19日 |
水戸天狗党、諏訪・松本藩に遭遇し和田峠合戦に勝利し、突破。*2 |
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| 12月16日 |
長州藩の高杉晋作、下関で再挙。 |
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| 12月17日 |
天狗党の武田耕雲斎ら1,000余名、加賀藩に降伏。(翌年2月350名死罪)水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材のことごとくを失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることはなかった。*2 |
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1865年
(慶應元年) |
1月2日 |
高杉晋作ら、下関で挙兵、山口に進撃。 |
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| 1月24日 |
長崎の大浦天主堂完成。潜伏キリシタンが訪ねる。 |
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| 3月17日 |
萩藩主毛利敬親、急進派の討幕に藩論を統一。 |
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| 3月22日 |
薩摩藩士 五大友厚、寺島宗則、森有礼ら19人、英国留学のためひそかに長崎を出航。 |
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| 5月28日 |
四か国公使、下関自由通航・内乱局外中立を決議。 |
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| 閏5月16日 |
イギリス公使パークス着任。 |
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| 9月16日 |
英米仏蘭四か国公使、軍艦を率いて兵庫に結集、条約勅許・兵庫開港を要求。 |
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| 9月27日 |
幕府、仏の援助による横須賀製鉄所を起工。 |
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| 10月5日 |
朝廷、安政五ヵ国条約は勅許、兵庫開港は不許可と決定。 |
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| 11月7日 |
幕府、長州出兵を発令、和歌山藩主徳川茂承を征長総督に任命。 |
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1866年
(慶應2年) |
1月21日 |
薩長同盟成立;坂本龍馬の斡旋で桂小五郎・西郷隆盛、京都薩摩藩邸で討幕の密約。 |
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| 5月13日 |
「改税約書」に調印;輸入税を5%の重量税に軽減。 |
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| 6月7日 |
第二次長州征伐;幕府軍艦、長州海岸を砲撃。 |
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| 6月 |
武州一揆;秩父・多摩の幕領農民約1万、一揆を起す。 |
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| 7月20日 |
将軍徳川家茂、大坂城中で没(21歳)。 |
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| 8月1日 |
長州藩軍、豊前国小倉城を占拠。 |
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| 8月20日 |
一橋慶喜、徳川家宗家相続を発表。 |
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| 8月21日 |
長州征伐停止の勅書を発令(10月撤兵完了)。 |
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| 12月5日 |
一橋慶喜、15代将軍に就任。 |
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| 12月25日 |
孝明天皇没。天然痘による。享年35歳。討幕派による暗殺説も。 |
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| 12月 |
福沢諭吉『西洋事情』初編刊。 |
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| この年 |
百姓一揆、打ち毀し、全国的に激化。 |
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1867年
(慶應3年) |
1月9日 |
睦仁親王、京都で即位;明治天皇(16歳)。 |
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| 1月11日 |
遣欧特使徳川昭武ら、パリ万国博覧会出席のため横浜を出航。 |
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| 3月 |
薩摩藩が、岩倉具視の天皇親政策に目をつけ連携。 |
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| 4月 |
坂本龍馬の亀山社中(長崎)、海援隊と改称。土佐藩配下に入る。 |
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| 5月21日 |
板垣退助・中岡慎太郎・西郷隆盛ら、京都で討幕挙兵を密約。 |
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| 5月24日 |
将軍慶喜、兵庫開港の勅許を得る。 |
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| 6月15日 |
長崎奉行、浦上のキリスト教徒を逮捕。 |
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| 6月22日 |
土佐藩後藤象二郎・坂本龍馬・中岡慎太郎、薩摩藩 西郷隆盛・大久保利通ら、京都で大政奉還の薩土密約を締結。 |
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| 6月 |
坂本龍馬の「船中八策」成る。 |
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| 7月29日 |
土佐藩中岡慎太郎、陸援隊を組織。 |
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| 8月 |
尾張に「ええじゃないか」起こり、翌月から東海・京畿・江戸に広がる。 |
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| 9月18日 |
薩摩・長州・安芸藩、討幕挙兵を盟約。 |
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| 10月3日 |
前土佐藩主山内豊信、幕府に大政奉還を建白。 |
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| 10月13日 |
薩摩藩に討幕の密勅下る。 |
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| 10月14日 |
長州藩に討幕の密勅下る。 |
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| 10月14日 |
徳川慶喜、大政奉還を上奏。翌日勅許。 |
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| 11月8日 |
和宮降嫁を推進したことから失脚していた岩倉具視の上洛が許される。 |
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| 11月15日 |
坂本龍馬、中岡慎太郎、京都で暗殺される。 |
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| 12月7日 |
兵庫開港・大阪開市を勅許。 |
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| 12月9日 |
王政復古の大号令;摂政・関白・将軍を廃止し、総裁・議定・参与の3職を設置。 |
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小御所会議 |
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| 12月10日 |
慶喜の辞職と辞官・納地を決定。 |
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1868年
(明治元年) |
1月3日 |
鳥羽伏見の戦い;戊辰戦争始まる(~1869)。 |
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| 1月7日 |
新政府、慶喜追討令を出す。 |
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| 1月10日 |
慶喜らの官位を剥奪。旧幕領を直轄化。 |
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| 1月11日 |
神戸三宮事件;備前藩(岡山)が神戸で英国人を殺傷。幕府軍の撤退もあり、兵庫奉行は逃走し、無政府状態に。兵庫沖に停泊中の英国船から陸戦隊が上陸し、神戸を占拠。到着した長州藩によって、和解。備前藩家老日置帯刀は謹慎、下手人滝善三郎は切腹。 |
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| 1月15日 |
王政復古を各国公使に布告。 |
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| 1月19日 |
大久保利通、大阪遷都を提議。 |
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| 1月21日 |
東久世道禧は、六カ国公使に徳川慶喜追討を報告
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| 1月25日 |
英米仏蘭など諸外国、局外中立を通告(12/28解除)。 |
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| 2月9日 |
有栖川熾仁親王、東征大総督に就任、2/15発進。 |
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東久世通禧 大坂西本願寺にて英パークス他各国公使を引見
通禧は、各国公使に京都での天皇謁見を提案。しかし、各国公使も新政府が東征する先の横浜の状況を懸念する中で躊躇する者もあり、京都でも外国人が天皇と対面することに反対するものもあった。 |
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| 2月12日 |
徳川慶喜、上野寛永寺大慈院に閉居恭順。 |
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| 2月15日 |
翌日、京都から謁見を許す旨の通知があり、仏ロッシュが、東久世通禧、醍醐忠順(ただおさ)、伊達宗城(宇和島伊予守)、および各国公使を仏公使館に招いて会食。
しかし、その晩、仏軍艦乗組員が土佐藩士に襲われ死傷。(堺事件)。
仏軍艦は兵庫から撤退し、江戸へ行くことを宣言。通禧は仏乗組員の死体を届けて、仏軍の撤退を思いとどまらせた。 |
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堺 妙国寺で、くじ引きで選ばれた土佐藩士20名が切腹。立ち会った仏士官が11人目で中止を要求。排外感情を抑えるために、太政官代三職の名で外国交際の布告。
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| 2月23日 |
旧幕臣の彰義隊、上野を占拠。 |
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| 2月27日 |
英仏蘭の公使が京都へ。
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| 2月30日 |
英公使ハリー・パークス、参内途中に襲撃される(パークスは無事)。 |
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| 3月13日 |
西郷隆盛、勝海舟と江戸開城を会談。翌日合意。 |
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| 3月15日 |
五箇条の御誓文 「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」など。 |
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| 3月28日 |
神仏分離令を発布(神仏混淆を禁止)、廃仏毀釈運動起こる。 |
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| 4月11日 |
江戸開城。徳川慶喜、水戸へ退去。 |
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8月19日 |
幕府海軍副総裁榎本武揚は、征討軍への軍艦引き渡しを拒否して、開陽丸以下8隻を率いて江戸を脱出、箱館に蝦夷島政府を樹立して抵抗。 |
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1869年
(明治2年) |
3月12日 |
明治天皇、伊勢神宮参拝。 |
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| 版籍奉還;各藩の藩主に土地(版)と人民(籍)を国家に返還させる。 |
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1871年
(明治4年) |
4月 |
廃藩置県を断行。;各府県に政府が任命した府知事や県令(知事)を派遣し、地方行政を担当させる。全国の府県が政府直轄となり、中央集権体制が確立。 |
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1872年
(明治5年) |
12月3日 |
太陰暦から太陽暦へ変更。この日が明治6年1月1日となる。 |
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四民平等。 |
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学制、兵制、税制の改革;維新の三大改革。
| 学制;小学校から大学校までの制度、6歳以上の男女を小学校に通わせることを義務とする。国民の学力の底上げを図る。 |
| 兵制;徴兵制を制定。 |
| 税制;地租改正し、国民の土地所有を認めて課税。 |
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鹿児島県から琉球を切り離し、琉球藩を設置。1879年(明治12年)に沖縄県へ(琉球王国は消滅;琉球処分)。清からの抗議。 |
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1875年
(明治8年) |
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樺太・千島交換条約;ロシアが樺太全土を領有し、日本が千島列島全域を領有。 |
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1876年
(明治9年) |
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廃刀令、秩禄処分(武士の家禄を廃止)。 |
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1877年
(明治10年) |
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東京大学(初めての総合大学)創設。 |
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江華島事件;日本の艦艇が朝鮮の砲台から砲撃される。日朝修好条規締結(日本が欧米と結んだ不平等条約と同じ)。 |
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1882年
(明治15年) |
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朝鮮半島で壬午事変;朝鮮軍人による暴動。これに乗じて清が朝鮮に派兵、鎮圧し、日本を牽制。 |
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1884年
(明治17年) |
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華族令制定。 |
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朝鮮で甲申政変;日本の支援を受けた金玉均のクーデターを、清が鎮圧。 |
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1885年
(明治18年) |
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内閣制度創設;ドイツの内閣を模範とする。伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。 |
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1889年
(明治22年) |
2月5日 |
枢密院本会議にて、大日本帝国憲法を含む基本法典が決定。 |
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2月11日 |
大日本憲法発布。 |
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1890年
(明治23年) |
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帝国議会開設。 |
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衆議院議員選挙実施;国税を15円以上納入し、かつ満25歳以上の男子のみに選挙権が限定された。 |
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第一回帝国議会が召集。衆議院と貴族院の二院制の議会制度。(アジアで初) |
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9月16日 |
エルトゥールル号遭難事件;和歌山県沖でオスマントルコ軍艦エルトゥールル号が遭難、沈没。約500名死亡。現地の日本人が69名を救助し、生存者を海軍軍艦比叡と金剛でトルコに送り返し、感謝される。後の1985年(昭和60年)イラン・イラク戦争で自衛隊を派遣できない日本に代わって、トルコが日本人救出に援助。 |
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10月30日 |
教育勅語が発布される。 |
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1893年
(明治26年) |
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清の北洋艦隊6隻が横浜に来航;日本に圧力をかける。 |
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日清戦争が近いと考える伊藤内閣は、第二次海軍拡張計画を立て、海軍予算増額を議会に求めるが否決。 |
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1月12日 |
衆議院本会議は、政府に製艦費削減を求めるが、政府は拒否。政府と衆議院の衝突。 |
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2月10日 |
和衷協同の詔勅;国防の備えが遅れることを憂慮した天皇の仲介。文武官僚の俸給の十分の一を献納させる。 |
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1894年
(明治27年) |
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日英通商航海条約締結;英国の治外法権を撤廃。他の欧米諸国も治外法権撤廃に応じる(関税自主権が認められるのは、日露戦争後)。ロシアの極東進出に警戒を強めていた英国が条約交渉を受け入れたことによる。 |
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朝鮮半島で東学党の乱(甲午農民戦争);民間宗教を中心とした農民らによる暴動。朝鮮政府が清に援軍を要請し、危機感を抱いた日本軍は朝鮮に派遣。日清両国関係は緊張へ。 |
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大本営が広島に遷されると、明治天皇は7が月半現地に滞在、戦争を指導。天皇が戦う将兵を外地で指揮するのは、飛鳥時代に斉明天皇が百済救済のために筑紫に行幸して以来、1233年ぶり。 |
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7月23日 |
ソウルに入った日本軍は、王宮付近で朝鮮兵から発砲されて応戦し、王宮内の朝鮮兵を駆逐して王宮を守護した。日本の近代式軍隊が勝利。 |
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1895年
(明治28年) |
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下関講和条約;朝鮮は清から独立。遼東半島、台湾、澎湖諸島の領有が認められる。 |
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