概 略 |
794年
(延暦13年) |
平安京遷都;平安京(東西4.6Km、南北5.3Km)は唐の長安(南北8.6Km、東西9.7Km)を模したが、人口100万の長安に対して、10〜12万人の平安京は大きすぎた。実際に使われたのは4分の一。空き地が大半を占めた。 |
797年
(延暦16年) |
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命。 |
801年
(延暦20年) |
坂上田村麻呂、胆沢地方(岩手県奥州市)の蝦夷を制圧。803年、盛岡市南部に志波城を築く。 |
大隅と薩摩で班田収授法が実施され、朝貢中止。九州南端まで律令体制が行き渡る。九州南部から東北中部までの日本の領域が確定する。 |
805年
(延暦24年) |
桓武天皇、平安京造営を停止。平安京造営と東北の蝦夷平定で国家財政疲弊。 |
810年
(弘仁元年) |
安殿(あて)親王が51代平城天皇(へいぜい)となるが、病弱だったため在位3年で弟に譲位し、嵯峨天皇(第52代)が即位。譲位後健康になった平城上皇に藤原薬子が重祚を促す。810年(弘仁元年)上皇が平城京遷都の詔を発し、対立が極限に。嵯峨天皇が薬子の兄藤原仲成を左遷、薬子の官位をはく奪。平城上皇は薬子と東国へ出立しようとするが、坂上田村麻呂に阻止され、薬子は自害、上皇は孤立し、824年(天長元年)崩御。;薬子の変(弘仁の変)。藤原の式家が没落し、嵯峨天皇に重用されて藤原北家が力をつける。 |
811年
(弘仁2年) |
嵯峨天皇の文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)を征夷大将軍とする遠征が行われ、蝦夷平定が再開。岩手県北部から青森県南部にかけての内陸部、また岩手県の三陸海岸沿いの蝦夷を制圧した。 |
814年
(弘仁5年) |
嵯峨天皇は20人以上の妃を迎え、50人以上の子沢山に恵まれた。814年(弘仁5年)から子の中で母親の身分が低い者32名に源朝臣の姓を与えて臣籍降下させた。親王と内親王の人数を減らすことで財政への負担を軽減するだけでなく、天皇の子が公卿に列せられることで、公卿の構成は大きく変化することになる。これが賜姓源氏の初例となり、後代にも続いた。時の天皇号のを冠して、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏などと称し、21代続く。 |
最澄と空海が遣唐使として実践的な仏教を伝える。桓武天皇が最澄を、嵯峨天皇が空海を後押しし、没後、清和天皇が最澄を伝教大師、醍醐天皇が空海を弘法大師とした。奈良時代にはじまった神仏習合は加速し、明治期の神仏分離令まで続く。 |
823年
(弘仁14年) |
越前国から加賀国が分立し、多禰国(種子島と屋久島)が大隅国に編入されると、六十六国二嶋の体制が長期間固定される。(ニ嶋とは、対馬と壱岐) |
842年
(承和9年) |
嵯峨上皇が崩御すると、承和の変が起き、藤原北家が台頭。8歳の清和天皇が即位すると、藤原北家出身の藤原良房が太政大臣とし天皇を後見し、摂政となる。;藤原摂関政治の始まり |
藤原基経(良房の甥)、陽成天皇の摂政となる。藤原北家は、近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の藤原五摂家が権勢を振るった。 |
阿衡の紛議;藤原基経が引退し、混乱。宇多天皇が橘広相を罷免して事態収拾。 |