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BC770年頃、周の東遷


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概略

BC770年  西周の携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。王朝の重臣が携王を立てたことに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(東周初代の王)として立てて対立した。平王は「戎寇(じゅうこう)」を避けるために都を東の洛邑に遷した(東遷)。以降、東周時代の前半を「春秋時代」、後半を「戦国時代」と呼ぶ。
   春秋時代の由来となった『春秋』の記述が始まるのは722年からであり、それまでは史料不足であり不明。
 BC719年  東門の役;鄭は、対立していた宋・衛・陳・蔡に国都の東門を包囲されたが、鄭はその後、周辺諸国との関係修復を図り、BC716年には宋国、ついで陳国と講和を成立させる。しかし、この講和が、宋と衛との関係悪化につながり、BC715年“小伯”斉の僖公が宋と衛との講和を取り持った。斉は同年に「温の会」、ついで「瓦屋(がおく)の盟」を主宰し、東門の怨みを解き、鄭・宋・衛3ヵ国の講和を確定させた。
 BC707年  繻葛の戦い;周の東遷を助けた鄭の桓公の後、武公、荘公と周の卿士(宰相)を勤め、次第に勢力を強めた。これを警戒した周の第2代桓王は荘公を罷免し、虢公(かくこう)を卿士に任命した。荘公は怒って周に朝見しなくなり、懲罰のため周の桓王は自ら軍を率いて鄭に攻め込んだが、周が大敗する。周王の威信は失墜した。
鄭の荘公は、斉の桓公や晋の文公など覇者の魁という意味で「小覇」と呼ばれる。
 BC706年  斉が北戎(ほくじゅう)の侵入を受けると鄭に助けを求め、鄭の太子忽が救援に赴き、北戎を打ち破っている。西周時代は王朝が指令を下していたが、今やそのような能力はなく、諸侯は自分たちで対処しなければならなくった。
 BC678年  晋では、翼の地(山西省翼城県)を本拠とする宗家の文侯の子孫と、曲沃(山西省曲沃県)を本拠とする桓叔の子孫とが対立するようになり、重耳(文公)の祖父にあたる曲沃の武公が翼を滅ぼし、BC678年に周王朝から晋侯として公認された。
 BC664年  桓公は魯国とともに山戎に侵攻された燕国を救援している。また邢(けい)国(現河北省邢台市西南)が狄に攻め込まれると、斉は宋国・曹国とともに出兵し救援している。しかし、狄の攻撃が激しく防ぎきれず、邢国の都を遷し、宋・曹とともに城壁を築いている。
 BC660年  虢公(かくこう)が渭汭(いぜい)(渭河が黄河に入る箇所)で犬戎を破った。(『春秋左氏伝』;東遷以後も犬戎の侵攻があったことがわかる。)
   衛も狄に攻め込まれたが、国君の懿公(いこう)は鶴を好み、軒(太夫以上が乗る車)に乗せるなど珍重していたので、君主の鶴びいきに不満を持っていた国人から「鶴を使え」と出征を拒否され、狄に大敗し、命を落とし、いったん衛は滅んでいる。
 BC658年  衛の難民は懿公の従兄弟にあたる戴公を後継とし、近隣の曹国に避難し、斉の桓公が軍を派遣して曹国の防衛に当たらせている。この年、衛の国都を楚丘(そきゅう、河南省滑県の東)に遷し、城壁を築かせている。
 BC656年  楚が蔡を従え、鄭に侵攻するようになると、BC658年、斉は、蔡と楚に挟まれた江・黄国と同盟し、楚から引き離しを図り、BC656年には、魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹の諸国とともに、まず蔡を討ち、楚に進撃して、召陵の地で楚と講和した(召陵の盟)。
しかし、鄭の荘公の死後、その子太子忽と公子突との間で後継争い、内紛で衰退していく。
 BC651年  一方、斉の小伯としての地位は、僖公からその子襄公、さらにその弟の桓公へと受け継がれていく。管仲・鮑叔が補佐した「春秋五覇」の筆頭斉の桓公である。桓公は、宋・陳・衛・鄭などの諸国と同盟を結び、それを機構化していった。また、桓公は東周第5代恵王の後を太子鄭(襄王)が継ぐはずであったが、恵王は弟の王子帯をかわいがっており、太子鄭は弟に取って代わられるのではないかと不安になった。そこで斉の桓公を頼り、桓公は太子鄭の後ろ盾なって諸侯と盟約を結び、地位を保全した。BC651年、「葵丘(ききゅう)の会」が開かれると、襄王は使者を派遣して桓公に文武の胙(そ)、すなわち文王・武王への祭祀で供え物として用いられた肉を贈り、桓公の覇者としての地位を公認している。太公望呂尚は斉の始祖であり、周を支えた功臣とされているが、桓公の覇権が周に認められるようになってから、遡って作られた神話ではないか。*1
 BC642年  斉の桓公の死後、息子たちによる後継者争いがおこり、覇権を維持できなくなる。桓公の息子たちのうち、公子昭(孝公)の後見役となったのが宋の襄公である(春秋五覇のひとり)。宋の襄公は自国に亡命してきた公子昭を擁立し、BC642年に曹・衛・朱とともに斉に攻め入り、公子昭を国君として立てることに成功、以後、襄公は覇者の地位を窺うようになる。
 BC648年  召陵の盟以降も北進を諦めたわけではない楚は、この年、斉に接近し、近隣の黄国を滅ぼす。
 BC638年  泓(おう)の戦い;宋と楚が衝突。襄公は楚軍が泓水を渡り切る前に攻撃を仕掛けるべきであるとの臣下の進言に対し、そんな卑怯な振る舞いはできないとして退け、楚軍が陣を整えるのを待って攻撃を仕掛けたが、敗北する(宋襄の仁)。『左伝』では、補佐役の子魚から「君は未だ戦いを知らず」と呆れらている。しかし、今日では当時の文献から当時の“軍礼”にのっとった振る舞いであるとされている。(その他、弓矢による攻撃は交互に行う、窮地にある敵・脆弱な敵・負傷して戦意のない敵・喪中の敵などへの攻撃を控えたり、武勇にすぐれた敵には敬意を払うなどの規範意識があった。)
   宋の襄公は泓の戦いで受けた矢傷がもとで、翌年に死去。襄公は覇権をつかみ切れなかった。次に覇権を取ったのは、晋の文公(重耳)である。晋は周の武王の子(または弟) 唐叔虞を始祖とする。晋侯蘇(献侯)は、厲王(第10代周王)による親征に参加しており、厲王と親しい関係にあった。“共和の政”の際に、厲王が王位を追われて亡命した彘(てい)も晋の土地であった。東遷期には晋の文侯が平王を支持し、携王を殺害した。晋国は「勤王」の伝統を持っており、これが文公の「尊王攘夷」へと受け継がれた。
 BC636年  晋の文公は五覇のひとりである秦の穆公の支援により晋への帰国を果たし、国君として即位した。(同年に周の襄王が弟の王子帯の反乱によって洛邑を追われ、鄭に出奔している。)BC651年の斉の桓公による周王朝の安定化が続かなかった。
晋の文公は王子帯を討ち、襄王を洛邑に帰還させた。これも文公の「尊王」といえる。
BC632年   城濮(じょうぼく)の戦い;晋の文公は諸国流浪していたときに宋の襄公に厚遇されたが、その宋が楚から攻められ、晋に助けを求めたことから、楚と晋の戦争が始まる。晋は斉・宋・秦と連合し、楚は陳・蔡・鄭と連合。城濮(山東省鄄城県)で対陣し、晋が勝利を収めた。このときも晋が楚軍の渡河のために、三舎(三日分の行軍距離、約36km)軍を退けた。
   晋は周の襄王を践土(河南省原陽県)に迎え、戦果を献上する献捷の儀礼と諸侯との会盟を執り行っている。このとき、晋の文公は周の襄王より侯伯すなわち覇者に任じられた。このときから、BC506年の召陵の会・皐鼬(こゆう)の盟まで、120年間、晋が覇者を継承する。
「春秋の五覇」とは、5人の覇者が存在したから、その呼称があるのではなく、先に「五覇」という呼称が成立し、その5人とは誰か、という議論が生じたものである。
   覇権国が主宰する同盟諸国の協議の場“会盟”は、同盟の維持・更新、離反国への共同制裁、同盟国同士の交戦の禁止や他国からの亡命者の受け入れの禁止など同盟内の平和維持、同盟外からの攻撃に対する共同防衛、同盟国における内紛の調停、同盟国の災害の援助などを目的として行われた。
   周の氏族は姫(き)・子(し)・姜・娰(じ)・姞(きつ)・羋(び)・嬴(えい)といった姓を称していた。周の王室と同じ姫姓を称する晋・魯・衛・鄭・蔡などの諸侯、すなわち周王室から出た諸侯が「兄弟」と位置づけられた。姜姓の斉や子姓の宋などは、外戚を意味する「甥舅(せいきゅう)」と位置づけられた。
   蛮夷戎狄は会盟の場からは排除された。「兄弟甥舅」の諸侯を「中国」あるいは「華夏」と位置づけ、蛮夷戎狄と対峙するものとする「華夷思想」もこの時代に見出せるようになる。*2
   この時代の軍隊の規模は、戦車の台数である「乗」という単位で表現される。次第に歩兵が重視されるようになるが、春秋時代の覇者晋は4千以上の車兵を動員したという。戦国時代には「万乗の国」の規模に近づいていく。西周時代には、周王朝の正規軍として六師と八師が存在した。
   晋国の武公(文公の祖父)の時点では一軍しか存在しなかった。それが、その子献公の時代に献公率いる上軍と、太子申生(文公の兄)が率いる下軍とのニ軍制になる。さらに文公の時代にBC633年に中軍・上軍・下軍の三軍制になる。各軍の将と佐(副将)には郤(げき)氏、狐氏といった世族の出身者が充てられ、彼らの多くは卿も兼ねるようになる。晋における「六卿」の始まりである。政務を担う者が軍務をも担うという政軍一体の体制であり、六卿のうち中軍の将が正卿として政権の首班を担った。
   
 BC506年  召陵の会・皐鼬(こゆう)の盟

 西周王朝<概説と系図>

資料 山川出版社『世界史大年表』石橋秀雄 他。
   *1 『戦争の中国古代史』(佐藤信弥 著)講談社現代新書
   *2 渡邉英幸(中国古代史研究家)による