< 克殷>
周国の伝説上の始祖は后稷であり、五帝の舜に仕えて、農政に功績があったという。
古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。南方の僻地に赴いた太伯は句呉(呉)と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。なお、この南方の僻地は日本だったという伝説もある。
季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。
姫昌の死後、後を継いだ姫発(武王)は、周公旦・太公望・召公奭(せき)ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。
周王朝の支配領域も殷と同様、畿内(王畿、内服)、と畿外(外服)の概念で統治された。畿内は周原や宗周といった都邑の周辺に広がる区域であり直轄領にあたる。王朝の運営に携わる臣下の采邑が存在する。(*1)
ただし、当時はまだ勢力範囲を「面」として支配することは困難であり、「点」の形で確保した支配領域を「線」でつないでいくことしかできなかった。『詩経』などに「周道」という語が見え、周王朝が交通網を整備していたことがうかがえる。(*1)
<成康の治>
武王は建国後すぐに死去する。後を継いだ成王は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。殷の遺民は後に建設される洛邑(成周)に移された。成長した成王は周公旦・召公奭(せき)を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。
<衰退>
その後は徐々に衰退する。4代目の昭王は南方へ遠征を行ったが失敗し、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。
5代目の穆王以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。
6代共王、7代懿王、8代孝王、そして9代目の夷王までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。しかし、夷王は紀侯靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。
10代厲王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、この故事を由来としている(共和制の語源)。なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。
やがて大臣らは太子静(11代宣王)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれた。しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申侯の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(または伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。そこで、次代として携王が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。 |