Title9-3.GIF (2758 バイト) 西周<概説> China

 

<概説>
< 克殷>
 周国の伝説上の始祖は后稷であり、五帝の舜に仕えて、農政に功績があったという。
 古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴に息子が誕生する際、さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。その期待を察した太伯と虞仲は、季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。南方の僻地に赴いた太伯は句呉(呉)と号して国を興し、その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。なお、この南方の僻地は日本だったという伝説もある。
季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。姫昌と同時代の殷の紂王は暴君だったため、諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、姫昌はあくまで紂王の臣下であり続けた。
姫昌の死後、後を継いだ姫発(武王)は、周公旦・太公望・召公奭(せき)ら名臣の補佐のもと、亡き父姫昌を名目上の主導者として、前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。武王は殷の紂王に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。
周王朝の支配領域も殷と同様、畿内(王畿、内服)、と畿外(外服)の概念で統治された。畿内は周原や宗周といった都邑の周辺に広がる区域であり直轄領にあたる。王朝の運営に携わる臣下の采邑が存在する。(*1)
ただし、当時はまだ勢力範囲を「面」として支配することは困難であり、「点」の形で確保した支配領域を「線」でつないでいくことしかできなかった。『詩経』などに「周道」という語が見え、周王朝が交通網を整備していたことがうかがえる。(*1)

<成康の治>
武王は建国後すぐに死去する。後を継いだ成王は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。殷の遺民は後に建設される洛邑(成周)に移された。成長した成王は周公旦・召公奭(せき)を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。

<衰退>
その後は徐々に衰退する。4代目の昭王は南方へ遠征を行ったが失敗し、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。
5代目の穆王以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。
6代共王、7代懿王、8代孝王、そして9代目の夷王までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。しかし、夷王は紀侯靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。
10代厲王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、この故事を由来としている(共和制の語源)。なお、実際は「共に和して」ではなく、「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。
やがて大臣らは太子静(11代宣王)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれた。しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申侯の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(または伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。そこで、次代として携王が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。


<系図>
文王  姓は姫(き)、諱は昌(しょう)。殷の紂王に対する革命戦争(牧野の戦い)の名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。後世、とりわけ儒教においては、武王や周公旦と合わせて、模範的・道徳的な君主(聖王)の代表例として崇敬される。
武王  殷を滅ぼし、周を立てた(殷周革命)。文王の次子。武王は文王の位牌を掲げ、自らを太子発と呼び、この遠征が父の意思によるものであると宣言した。 この時、周軍に瑞兆がいくつも現れ、諸侯が武王の元に馳せ参じ、その数は800に達した。王朝の新体制が固まらないうちに4年で没した。
   周公旦  武王の弟。武王が殷を滅ぼしてのち,魯に封じられたが,封地におもむかず首都鎬京にとどまって武王を助け,次の成王即位後は摂政となった。しかし、これを不満とした管叔、蔡叔(ともに成王の叔父)が禄父(殷の紂王の子)とともに反乱~「三監の乱」を起したが、周公旦によって鎮圧された。その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。
『繋年』によると、禄父にあたる碌子耿(ろくしこう)なる人物を殷都商邑の人々が擁立したことによるものであり、商邑の乱といえる。*1/*2
成王  在位:前1042年 - 前1021年。成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、実際の政務は母の邑姜、叔父の周公旦(魯の開祖)、太公望呂尚(斉の開祖)、召公奭(燕の開祖)らが後見した。また、成王は、「践奄(せんえん)の役」により、殷の故地である山東半島を征伐し、洛邑が建設されたほか、(周公旦の長子伯禽を始祖とする)魯国、(太公望を始祖とする)斉国などを建てて、殷の遺民を統治した。
成王の言葉として、「武王が中国に居住して民を治めることを天に誓った」という文献上「中国」という言葉が初めて出現している。これ以前に使われる東方の地域「東国」、南方の地域「南国」などと対比するかたちで使われた。または、殷の首都圏である王畿を指したとも考えられる。*1
康王  在位:前1020年 - 前996年。康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。
昭王  在位:前995年 - 前977年。南方(楚)へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。
穆王  在位:前976年 - 前922年。王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。
共王  在位:前922年 - 前900年。9代夷王までは、冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。
懿王  在位:前899年 - 前892年。 
孝王  在位:前891年 - 前886年。6代共王の子。
夷王  在位:前885年 - 前878年。夷王は紀侯靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処した。夷王は哀公の異母弟の胡公を後継としたが、不満をもった哀公の異母弟の献公が胡公を滅ぼし勝手に斉の君主となった。その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。
 厲王  在位:前877年 - 前841年。昭王以来途絶えていた戎夷に対する親征を再開し、「軍事王」としてのあり方を復興しようとした。しかし、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在のあいだ、周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。(共和制の語源)。厲王の頃から、西北の異民族の玁狁(けんいん)の侵攻が激しくなった。また、東南の諸侯の動乱もあり、周の正規軍である「六師」が敗北することもあった。
   共和の政  厲王を追放して代わりに立った共伯和は君主が主権を持たない政治を行い、「共和制」の由来となった。
宣王  在位:前827-前782。14年の共和の政の後、やがて大臣らは太子静(11代宣王)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれた。しかし、宣王は魯国の武王の太子括(かつ)を廃し、自分が気に入った弟の戯を太子とするように命じた。武王の死後、戯が懿公として即位したが、これに不満を持った括の子の伯御(はくぎょ)が懿公を攻め滅ぼして魯候となると、宣王が親征して伯御を討ち、懿公の弟を孝公として建てた。斉に動乱を引き起こした祖父夷王を思わせる逸話である。周は再び衰退に向かう。
幽王  在位:前781年 - 前771年。申から迎えていた皇后を廃し褒姒(ほうじ)を皇后としたため、申侯の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。褒姒はなかなか笑わないので、幽王は彼女を笑わせるために、敵の侵攻を諸侯に知らせるための烽火(のろし)を何事もないのに上げさせて諸侯を駆けつけさせるとうことを繰り返し、諸侯を呆れさせた。申侯と犬戎が攻め込んだとき烽火を上げても駆けつける者はなく幽王は殺され、褒姒の子の伯服(または伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)『史記』周本紀。
携王  在位:前770年 - 前760年。携王が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王として立てて対立した。晋の文侯によって殺害される。*1
  平王  在位:前762年 - 前720年。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、即位3年目のBC760年に京師(豊鎬)から洛邑に東遷し、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。周王朝の本拠地でなくなった関中を領有したのは秦国である。


資料   山川出版社『世界史大年表』石橋秀雄 他。
 *1 『戦争の中国古代史』(佐藤信弥 著)講談社現代新書
 *2 『繋年』(けいねん) 清華簡(せいかかん;戦国期の竹簡)
 

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