『平和新聞ながさき版』コラム

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(2015年12月25日)
「さざれ石(細石)」は、もともと小さい石をさすが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、一つの大きな岩の塊に変化したものもさす。この「さざれ石」は「君が代」の歌詞にある▼長崎市の諏訪神社のホームページには、長坂を上った中庭の右手に新しく設置されたさざれ石をさして、以下の内容の記載がある。「さざれ石は、私たち国民一人ひとりをさしていて、一人の力は微力であるが、国民が力を合わせることで、大きな力(大きな巌)となることを表しています」▼何となく、安倍首相の言う「1億総活躍社会」を連想してしまう。「私は活躍なんてしたくないよ」という思いも無下に「1億総活躍社会」。さざれ石の一つとなり、「大きな巌となれ」と強制する▼もともと、国民主権、民主主義の社会体制では「一人ひとりが主人公」が基本。私たち一人ひとりは、さざれ石の一部ではない。すべての個人を尊重する社会が憲法の保障する私たちの権利である。(む)
(2015年12月15日)
いつも日曜朝に息子と観ている仮面ライダー。9月末で平成シリーズ16作目の『仮面ライダードライブ』が終わった。最終回に近づくとある事実が明らかになった▼仮面ライダーの宿敵「蛮野博士」の目的は全人類をナンバー化して支配下におくことだった。マイナンバー制度に警鐘を鳴らすストーリーは石ノ森仮面ライダー漫画のオマージュ。元祖は「10月計画」として日本政府が国民ナンバー制を企てているという内容だ▼仮面ライダードライブが最終話を迎えて10月、現実世界ではマイナンバー制度が始まった。預貯金情報や通院履歴、あらゆる個人情報を紐付けして国民が管理されるようになる。図書閲覧履歴などで思想を把握することもできる。徴兵制や強制労働の下準備に最適だ▼牛肉の個体識別番号のように生まれて死ぬまでの「私」がデータ化されるのだ。名前が無くなり番号で呼ばれる未来は恐ろしい。黒幕の野望に気付き、それを壊していく勇気が必要。国民一人ひとりが仮面ライダーになることが必要だ。(み)
(2015年11月25日)
フランスでは「テロによる自爆犯」のことを「カミカズ」と呼ぶそうだ。フランス語風に発音した言葉で、日本の「神風(カミカゼ)」のこと▼「神風」は、鎌倉時代中期の元寇の際、台風の暴風雨によって、元軍が撤退を余儀なくされた、という伝説から言われる。伝説というのは、元軍がすでに撤退している際に暴風雨に遭い、損害を被っただけで、勝敗には関係が無かった…というのが事実だからだ▼太平洋戦争末期、日本は「神風」を信じた。「神風特攻隊」のことをもじって、海外では「自爆テロ」を「カミカゼ」と言うらしい▼フランスのパリで11月13日夜、百三十人以上が死亡する同時テロがあった。仏大統領は「ISの犯行」と言明した▼日本も例外ではない。誰かに味方するということは、誰かの敵になるということだ。戦争法でアメリカの支援を緊密にすれば、その分、アメリカに敵対する組織の恨みを買う。日本がテロの標的になれば、多くの悲劇を生むだろう。日本に神風が吹かないことを祈る。(む)
(2015年11月15日)
物事の価値というのは、それが無くなってから、初めて気付くことが多い。例えば、「人の死」がそうだ。亡くなった途端、その人の価値を再認識させられる▼想像してみよう。「空気」「水」なんかが無くなったら、大変だ! それだけ、自然に存在するものには、「もし無くなったら?」という想像力が必要だ▼「平和」はどうか? 今、日本は平和と言えるだろう。テロによる無差別爆撃も起こらず、一般人が戦争に駆り出される危険も無い。平和とは、空気や水のように自然にそこに存在する▼だからこそ、想像しよう。「もし、平和でなくなったら?」。大変だ! 戦争が起こる。爆撃が起こる。火の手が上がる。人が死ぬ…▼最低限の想像力で十分だ。私たちは、「人が死ぬ」ということに、もっと実感を持った方がいい。戦争法は、いつでも、どこでも、切れ目なく世界の戦場へ行ける。人の死に、密接に関わる法律。憲法違反であり、廃止しかない▼人の死は、いつだって悲劇。戦争はたくさんの悲劇を生む、現実だ。(む)
(2015年10月25日)
【レッテル】=ある人や物事に対する特定の評価こと。オランダ語の「letter」で、もともとは商品に貼る商品名や内容、容量などを書いた小札のことだ▼「レッテルを貼る」は、「卑怯者のレッテルを貼る」など、あまり好意的な使われ方はしない。レッテルとは、その対象を単純化・矮小化するときに、よく使われる▼安倍首相は「『戦争法案』のレッテルを剥がす」と息巻いている。しかし、そのレッテル、剥がしても剥がしても同じレッテルが玉ねぎのように繰り返し出てくるのではないか▼そもそも、間違ったレッテルを貼っているのはどっち? 戦争法について、「説明不十分」と多くの国民が声を上げている。国民に真実を知らせない法案であれば、やはり怪しいレッテルがたくさん貼ってあるのだろう▼レッテルを貼り間違えれば、これは良薬? 劇薬? どっちだったっけ? となる。そして、戦争法は、やっぱり劇薬。国民を「戦争」という危険にさらす▼「戦争法案」は的確な単語。レッテルは正しく貼りましょう。(む)
(2015年10月5日)
「ご都合主義」ということば。広辞苑では「その時々の都合で行動すること」とある。さげすみの意味で使われるのが通常だが、あまり気にならない人もいるらしい▼戦争法の審議で圧倒的な憲法学者に「違憲立法」と言われた安倍首相、答弁に窮して無関係の「砂川判決」を持ち出し、「憲法の是非は最高裁が決める」とこじつけた。当の最高裁の元判事からまで「違憲」とダメだしされたら、「あの人は過去の人」ときた。お笑いの世界ならともかく、国の最高法規を論議する国会での現実の光景なのだから、世界の民主主義のレベルから見れば噴飯ものだ▼国の民主主義レベルの三流ぶりをさらけ出した日本。しかし、一方で少なくない国民が、「憲法とは何か」を考え、世界で名だたる日本国憲法の示す「平和とは何か」「民主主義とは何か」を自分に問いかけた。そのことを学び、その大切さを知った意味は大きい。国民無視の暴走でごり押しされた戦争法、すでに国民の力で拒否できる道も学んでいる(☆)
(2015年9月25日)
長い間、労働運動や平和運動、原水協を支えてこられた大塚孝裕さんが亡くなられた。心からご冥福をお祈りします▼三菱長船の第一組合で激烈な組合潰しとたたかい、長崎地区労の役員や県労連の労働相談センター所長も務められた。常に笑顔を絶やさず、大局的な視点で物事を判断し、私達後輩にアドバイスしてくださった。大塚さんの尽力もあり、近年、長崎地区労と県労連というナショナルセンターの枠を超えた共同行動が実現した▼一致点での共闘は発展し、戦争法案の強行採決を前後にした9月16日~19日には、4日連続で共同の集会が開催され、連日700人以上が参加して戦争法案反対の声を上げ続けた。特筆すべきは、戦争法が成立した後の19日にも、共同集会で750人が参加したことだ。これまで各種の課題で共同行動に取り組んできたが、法案が通ってしまった後にも継続したことは今回が初めてではなかったか▼大塚さんが種を蒔いた地区労・県労連の共同行動の発展、そして新たなNーDOVEの広がりは、真の立憲主義、民主主義を築く大きな力となるはずだ。(彰)
(2015年9月15日)
改憲や安保法制には触れずに得た議席で、安倍自民と公明党はどこまで暴走するつもりでしょうか▼最近、自公の議員を見ると浮かぶのが、童話「裸の王様」です。「馬鹿や自分にふさわしくない仕事をしている人には見えない布地でつくった服」を見えないと言えずに王が着てパレードに臨み、家来も見物人も「馬鹿と思われてはいけない」と衣装を誉めるなか、一人の子どもが「王様は裸だよ」と叫び、ついに皆が「王様は裸だ」と叫ぶ、というあの話です▼自民党内では「安保法制に反対する人は利己的だ」と言われていたのでしょうか?武藤議員。国会の審議がすすむなか、憲法学者が「安保法制は違憲だ」と声を上げるや、若者を先頭に国民多数が「今国会での成立に反対」と叫んでいます▼童話では「王様は裸だ」と指摘されても、パレードは続きますが、安保法制を成立させるわけにはいきません。シベリア抑留を体験した元兵士の「戦争を知らない人が戦争をしたがる」の言葉を真摯に受けとめる時です。(香)
(2015年8月25日)
86歳になる被爆者・谷口稜曄さんの「平和の誓い」を改めて耳にし、涙が溢れた。5年前のNPT再検討会議で、「私の被爆した身体は見世物ではない。しかししっかりみてください」と訴えた谷口さん。被爆70年目の8月9日、長崎市の平和式典では自ら目にした被爆の惨状と地獄絵を告発した▼「1年9カ月のうつ伏せの生活で深くえぐり取られた肋骨の間から心臓の動きが見えるのです」と自らの苦しみも語り、12年間放置されてきた被爆者の実態を訴えた。そして「戦争と原爆被害の生き証人としてその実相を語り続ける」と結んだ▼多くの被爆者の70年間の想いを語らずにはいられない谷口さんの決意が、被爆2世の筆者の胸に突き刺さるように響いた。「被爆の実相は私たちが伝承しなければ」とTVに登場した高校生はいう、「被爆者自身に、いつまでもこんなつらい話を続けさせてはいけない」と▼戦争と被爆から70年を経たいま、「一日も早い核兵器廃絶」への決意を世界中の声にして被爆者の想いに応えなければ。(☆)
(2015年8月5日)
保育雑誌の中のコラムで、衝撃的な一節を目にした。「思春期になれば自分を客観視して絶望して、自ら命を絶つことだってできるようになってしまう、それも発達の姿」?衝撃を受けるとともに、「確かに」と納得もし、それ故に、親として大人として、子どもたちに人としての豊かな育ちを保障する責任を強く感じた▼戦争法案への反対行動を起こしているSEALD'sに対し、戦争に行きたくないという当たり前の主張を、「自己中心、極端な利己主義」と批判した自民党国会議員が問題になっている。法案の中身だけでなく、推進しているメンバーの思想や言動を知れば知るほど、戦争法案がなんと恐ろしいものか理解できる。絶対に阻止しないといけない▼さて、冒頭紹介のコラムは、子どもの発達について更に次のように記している。「どんな子でも必ずなかまを求める」「必ず友だちへとそのまなざしが、その体が向かう」。これは大人にとっても同じ。戦争法案反対、平和を願う若者たちにとっての「なかま」としてもっと平和委員会を発展させたいと思う。(彰)
(2015年7月15日)
中国の後漢末期、悪い官吏がはびこり政治は腐敗し、各地で黄巾の乱という内乱が起こる。国土は荒れ、人心は荒む。そこへ登場したのが、劉備、関羽、張飛などといった英雄・豪傑。羅貫中の「三国志演義」の滑り出しだ▼劉備は人徳が高く、高潔な理想家だが頼りない人物で、吉川英治の『三国志』では腹心の関羽・張飛も呆れたりする▼反面、敵の曹操はどうか? 知勇兼備で戦に強く、よく人を騙す。朝廷を乗っ取り、政治を我が物にした挙句、息子の曹丕は帝位を迫り、後漢(国)を滅ぼす。『十八史略』など読めば、歴史とは「国家の興亡」と分かるが、何ともえげつない▼今の時代、三国志とよく似ている。国民の声を聞かない政治家が跳梁跋扈し、正義正道が通らない。巷間では「戦争は起こらない」との声もあるが、憲法9条を蹂躙し、「戦争法案」を通してしまえば、時すでに遅し。戦前は目の前、戦場はすぐ傍、死ぬのは若者だ。言えるうちに、声を大にして言おう。「若者を戦場に送るな!」と。(む)
(2015年7月5日)
自民党の若手議員らが、作家の百田尚樹氏を講師にした会合で本音をさらけ出した。戦争法案と沖縄新基地建設を押し通したい同党の異常さをさらけ出した▼「マスコミを懲らしめる」(参加議員)、「沖縄の2紙をつぶせ」(百田氏)などと言いたい放題。政治家のイロハどころか、民主主義そのものを敵視するあけすけな言論抑圧発言だ▼問題なのは安倍首相。「遺憾だが正式会合ではない」と居直り、容認する態度だ。いまや戦争法案の審議は八方塞がり、「9条守れ」の世論は広がる一方。国民が本気で怒っているのを直視できず、「決めるときは決める」と、半ばすてばちないらだちが透けて見える。一歩先も見えなくなっているようだ▼本来、150日という会期内の国会論戦に耐えられない法案は廃案が相当。憲法学者の理路整然とした「違憲」表明にも学ばず、かつてない大幅延長を決めたとあっては、およそまともな政治家のやるべきこととは思えない。憲法99条を率先して守るべきなのに、安倍政権の面々は自らその資格を投げ捨てた(☆)
(2015年6月15日)
歴史を学ぶとき、一つの事実に必ず気付く。歴史とは「国家の存亡」の繰り返しであると。世界史にせよ日本史にせよ、歴史は興亡の繰り返しだ。いわゆる、『平家物語』の「盛者必衰の理」のこと▼「戦争は起こらない」とは、秘密保護法、集団的自衛権、戦争法案に反対する宣伝の際、よく聞く言葉だ。「戦争は起こらない」と言う反面、「国防のために軍備は必要である」と言う矛盾。「憲法9条で守る平和」を理想論と一蹴する人間もまた、ご自分の「軍事増強による抑止論」という理想論を振りかざしている▼権力は潰える、国は滅びる。この事実を歴史は示している。戦争がこれから「起こらない」という根拠は、何も無い。根拠の無いところに、みんな信じ切っている。それは、一つの神話でしかない。そう、原発の安全神話と同じ、神話でしかないのだ▼「歴史は繰り返される」という嫌な言葉が脳裏をよぎる。歴史を繰り返さないため、子どもたちに明るい未来を残すため、憲法9条を守らなければ。(む)
(2015年5月25日)
「アベちゃん」とは、阿部、安倍、安部、阿倍といった「あべ」姓の一般的な愛称だ。私の友人にも「アベちゃん」はいたし、あなたの周りにも「アベちゃん」はいると思う▼私の友人の「アベちゃん」は、至って普通の人物だった。自衛隊を「我が軍」と呼んだり、憲法9条もないがしろにしたりせず、「戦争法案」を閣議決定したり、それを国会で通そうとしたりすることもなかった。そして、多くの「アベちゃん」はそういったことに無縁だろう▼安倍晋三首相は、日本をどこに向かわせようとしているのか? 自衛隊をいつでもどこでも海外で戦争できるものにしようとしている。それも、「平和」の名の下に、だ▼こんな冗談がある。「嘘を吐くと、地獄の閻魔様から舌を抜かれる。だから、私の二枚あった舌は、一枚になってしまったんだよ、ほら」▼二枚舌。戦争を「平和」と呼び換える卑劣さ。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を持ち出すまでもない。「戦争は平和ではない」それは確かな事実だ。(む)
(2015年5月15日)
「初めの一歩」とは何事にもある。小説などをつくる際、「起承転結」と呼ばれる形式があるが、作家によって形を崩すことはあっても、結局のところ、「起承転結」が必ず存在する形に収まってしまうものだ。「起」こりがあって、「承」けがあり、「結」末がある▼どんな出来事にも発端はある。そして、発端はいつも小さな出来事だったりする。小さな出来事が、大きな事態に発展するのは、当然のこと。しかし、物事が小さいときに、大事故につながる意識する人は意外と少ない▼「ハインリッヒの法則」というものがある。大惨事の裏には、約三百件もの「ヒヤリ・ハット」を含む小規模な事故が存在する?というもの▼戦争も同じではないか。何百・何千・何万もの「ヒヤリ・ハット」を繰り返し、戦争に至らないで済んでいる。しかし、一歩間違えば…奈落の底、地獄だ▼災害や戦争が大きく育たない小さな芽のうちに、摘むべきだ。どんな些細なことでも、戦争につながる道には、反対していきたい。(む)
(2015年4月25日)
空前の妖怪ブーム。息子に求められ、『妖怪大戦争』という映画をDVDで観る。無論、娯楽映画なのだが、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげる本人が妖怪の首領として登場し、「勝ち戦のようです」と伝える妖怪に対し、こう述べる。「戦争はいかん。腹が減るだけです」▼戦争はいけない。感覚的には分かるが、具体的にはどうか? 水木氏は先の戦争で、南国で取り残され、ジャングルをさ迷い、左腕を失っている。そういった経験から、「戦争はいかん」の言葉が出るのは自然なことだと感じる▼戦争体験者が少なくなり、話が聞けない。しかし、軍靴の音は間近に迫っている。こういったときに、何ができるのか? 「それは、学習と行動」という、もどかしい答えが出る▼けれども、必要なのは学習だろう。人の体験を聞くことは、その人の生の歴史を学ぶことで、戦争を知らない世代でも戦争を空しいと強く感じることができれば、それが9条の礎になる。「戦争反対」の声をもっと広く届けたい。(む)
(2015年4月15日)
菅官房長官が世論に押されて沖縄県の翁長知事と会談した。知事の発言を読み、歴史の重みを背負った沖縄県民の深い意思と「沖縄の心」に胸を打たれた▼「沖縄は自ら基地を提供したことは一度もない」「(その基地が今)世界一危険になったから新基地を負担せよという話は、政治の堕落そのもの」と批判し、ことの本質を浮き彫りにした。さらに、「『粛々』という上から目線の表現が県民の怒りを増幅している」と、脅しに屈しない県民の強い意思を代弁した▼官房長官は「粛々」という言葉は今後使わないといったが、舌の根も乾かぬうちに安倍首相は同じ言葉を繰り返し、中谷防衛相は「『堅実』に工事をすすめる」と言い変えた。正面から返す言葉すら見つけられず、県民の心を逆なでするしかなかったようだ▼県民の圧倒的意思に従うのは法治国家としてのイロハ。それすら理解できず、日米関係を憲法の上に置くしかないのだろう。ご都合主義の強権的手法は「新基地」どころか、逆に「沖縄の心」を国民全体の意思として確実に広げている。(☆)
(2015年3月25日)
「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字にすぎない」とは、ナチスのアイヒマンの言葉。数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送する指揮的役割を果たした人物▼正三角形を頭の中で想像するのは容易い。それは、限りなく正三角形に近いイメージだろう。正四角形、正五角形、正六角形も同様に想像するのは簡単だ▼では、正百角形は? 正千角形ならどうだろう? 正万角形なら…と言い出すとキリが無い。人間の想像力の限界を感じる▼一人の人間の死。受け止める思いは様々だが、自分のこととして感じられる。しかし、何千、何万という死。数字以上の何かがあることは想像できるが、大きな数字に人間の感覚は麻痺する▼戦争で人が死ぬ、ということを正確に理解できるだろうか? 想像には、無論、限界がある▼戦後七十年、この節目に思うことは、戦争は間近に迫っているかも知れない、という政治への恐怖だ。それに反対するためには、想像力が必要だ。人が死ぬという事実に対する最低限の。(む)
(2015年3月15日)
昨年6月からドイツ語のプライベートレッスンをしてくれた先生が帰国した▼レッスンの後、私の夫をまじえて彼と政治の話をする機会が持てた。外国人から見る今の日本とはどんなものか興味深い。平和憲法を手放しかかっている日本政府について意見を聞きたかった。しっかりした考えを持つ彼はやはり日本の進もうとしている道に懸念を抱いていた▼私はドイツで徴兵制度がなくなったことを知らなかった。兵役の代わりに社会奉仕活動を選択する若者も多かったらしいのだが、彼曰く「訓練がない時間はネットやテレビゲームばかりだし、本当に税金の無駄使いだったから」なくなったのだという。私も夫も「日本は戦争できる国に向かっている。徴兵制がまた生まれるかもしれないと心配」と伝えた▼事故が起きてもまだ原発を使いたい日本。日本の原発事故を受けて原発をなくすことを決めたドイツ。どちらも様々な考えを持つ人がいるが、まともな判断をできる有権者はどれくらいいるのだろう。別の視点から日本を見ることも大切だと感じた。(み)
(2015年2月25日)
長崎原爆の爆心地に一番近い中学校で、故渡辺千恵子さんの半生を綴った合唱組曲「平和の旅へ」が生徒たち自身の手によって演奏された。全校生徒が参加した「平和の火を受け継ぐ集会」で、3年生190名が披露▼20年前から「平和部」の活動として、広島の中学生とも交流してきた同校。昨年夏、原爆資料館で「平和の旅へ」合唱団の演奏を聴き、『この合唱組曲を後輩たちにも伝えたい』と練習を重ね、父母たちにも聴いてもらったという▼核不拡散条約(NPT)再検討会議を前に、長崎市内で「核兵器廃絶のアピール署名4周年の集い」が開かれた。『核兵器全面禁止へ被爆者とともに』と題した講演があり、被爆者・谷口稜曄さんが決意をのべられた。つめかけた参加者も核兵器廃絶への思いを新たにした▼被爆者の高齢化とともに被爆の実相を語り継ぐ課題が突きつけられている今日。「平和の旅へ」を堂々と演奏してくれ、語ってくれた中学生一人ひとりに最大限の拍手を送りたい。若者たちから力をもらった貴重な一日となった。今年は被爆70年。(☆)
(2015年2月5日)
「歴史修正主義」とは、偽りの歴史を公に向けて発信すること。日本で言えば、先の侵略戦争において慰安婦問題や南京大虐殺などを無かったものとして扱うことだ▼『反三国志』という本がある。中国の三国志時代を脚色しており、劉備が「もしも」天下を取ったら…? という物語になっている。これはフィクションであり、蜀贔屓(ひいき)の三国志ファンにとっては正史と違う結末が面白い▼『反三国志』のような虚構の歴史を楽しむのは、現実の歴史では難しい。歴史とは、一人ひとりの人生が影響を与えてつくるものであり、そこには英雄のような死もあれば、犬死もある。そして、人の死は数字ではない▼歴史修正主義には、過去はあっても未来はない。なぜならば、歴史は連綿と連なるものだからだ。どんなに歴史を偽造・捏造しても、やがては破綻が来ることは目に見えている▼未来は誰のものか? 「未来は青年のもの」という意見がある。ならば、自分たちで動こう。私たちの一挙手一投足が歴史なのだから。(む)
(2015年1月25日)
「日本人として世界に誇れるものは?」この問いにどう答えるだろう。「四季が生み出す美しい自然風景」「繊細な伝統工芸や芸能」…だが、私はこう答える。そして一番は「憲法9条」だ▼最近やたらと「日本人の誇り」なる言葉を目や耳にする。『~で活躍する日本人』といったテレビ番組ではアイデンティティを再確認するかのような動きがあるが民族意識を強めたい傾向が気になる▼某サイトで「大東亜戦争の本当の歴史を知って日本人の誇りを取り戻そう」という旨の動画さえ紹介された。多くの感動コメントが寄せられていた。あの戦いは侵略ではなくアジア諸国民解放のためのものだったといった内容に涙した人がいるのだと思うとゾッとする▼本当に誇れるものは今まさに変えられようとしている9条なのではないだろうか。メディアはそこに触れず、「戦地で散って行った大和魂」にばかり目を向けさせる。冗談じゃない。どこの世界に自分の子の死を喜んで誇る親がいるのか。子どもを死なせないための平和憲法こそ世界に誇れる宝だ。(み)
 2014年 2015年 2016年