『平和新聞ながさき版』コラム
(2011年12月25日) 息子が生まれたとき病室で会った妻の顔には無数の赤いブツブツがあった。出産の際に息んで毛細血管が切れた、と。母は強し!を実感した。以来、妻を「母さん」と呼ぶようになった。あなたの母親ではない、と叱られるのは承知の上だ▼息子は5歳のとき転んで頭を5針縫う怪我をした。病院で血を流し泣き叫ぶ息子を前にうろたえる私を尻目に、母さんは息子の頭を両手で押さえ医師に向かい、早く麻酔して、縫ってくださいと怒鳴った▼「明日への伝言」の上映会に、小学生になった息子も連れて行った。「戦争が起きたら、どうすると」「僕も死ぬと」とおびえる息子に、「そうならんごと母さんたちが頑張っとるけん大丈夫」と落ち着かせた。網の目平和行進出発の挨拶で「6年間育ててきた子どもをむざむざ戦争で殺されてたまるもんですか」と、母さんは話した▼3・11以降、「~母・祖母・おみな牢に満つるとも」の歌のように「母さん」たちの子どもの命を守る覚悟に男は及びもつかないと、思うことが多い。(??) |
(2011年12月15日) 被爆者健康手帳のことはみんな知っていても、被爆体験者精神医療受給者証のことを知っている人が、長崎の人でもどれくらいおられるだろうか?▼長崎の原爆被爆地域は、南北12kmに対して東西は7kmまでとされている。8月9日被爆し、長く苦しんでいるにもかかわらず、東西7km~12km地点で被爆した方々は「被爆体験者」とされ、「放射能の影響はない」と決めつけられている▼紫の被爆者健康手帳と違い、医療費の助成は被爆体験に基づく精神疾患との合併症に限定され、がんは対象外。健康管理手当もない。この被爆地長崎で、同じ被爆者でも「7km地点」の数字だけで線引きされている矛盾がある▼国が「放射能の影響はない」としている地域の被爆者も、急性症状や今なお多くの健康障害に苦しんでいる。同じように数字だけで被害を線引きされようとしている福島原発事故でもこの矛盾を繰り返さないためにも、長崎での被爆地域拡大運動をさらに大きくしていきたいと思う。(Er) |
(2011年11月25日) TPPへの参加交渉など、野田首相がオバマ大統領との間で表明した5つの公約に『武器輸出三原則の緩和』がある。メディアでは大きく取りざたされていないが、私たちはよく知る必要のある問題である。太平洋戦争の反省から、二度と戦争をしないと憲法上で謳っているにも関わらず、戦争の道具となる「武器」を国内で製造している▼武器輸出三原則は原則として全ての武器・関連技術の輸出を禁止しているが、その歴史のなかであいまい且つ都合よく改訂が繰り返されてきた。三木内閣時の追加項目には『武器』を「そのもの自体が直接人の殺傷又は武力闘争の手段として物の破壊を目的として行動する」と定義している。憲法九条を有する国が言う言葉とは思えない恐ろしい表現だ▼この度の見直しでは、武器の共同開発・生産を可能にすることが目的であるという。「輸出」を慎むように定められたものであるが、開発の是非については問われていない。開発ありきの原則である点が危険をはらんでいるように思えて仕方ない。(み) |
(2011年11月15日) 『私には耐えられません。あなたは仕方ないーーですまされますか?私はもはやそのための努力をしないではいられません。私が世界中の原発を止める力になりえないでしょうか?』 11・13さよなら原発1万人集会の呼びかけ人の一人、甘蔗珠恵子さんのことばに、今、改めて奮い立たされる(『まだ、まにあうのなら』より)▼原発事故から8ヵ月経ち、私たちが何よりも見つめなければいけないのは、放射能が人々から奪ったものの大きさではないかと思う。原発事故は人々の生活、家族、希望、未来…そして何よりも大切な「絆」を奪った。「絆」よりも得難いものがこの世にあるだろうか?「仕方ない」ですまされるだろうか?▼そして原発が一基でもある以上、危険が内包している現状に声を上げずにはいられない。私は一人の人間で「一」にしかなりえないが、「ゼロ」ではない一人ひとりが、世界中の原発を止める大きな力になっていくはずだと強く思う。(Er) |
(2011年10月25日) 「原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と、会社の屋上に横断幕を掲げたスタジオジブリ。鈴木プロデューサーが、新聞に反原発への思いを語っている▼福島原発事故の半年前、原発施設に「となりのトトロ」の店が出されていることを知り、すぐに撤去させたという。事故後には、宮崎駿監督らがスタッフと犬をつれてデモをしようと相談したと明かしている▼時流に左右されない従業員全員参加による手作りの映画づくりと、安全神話に流されない反原発への基本的考えが、「ジブリの哲学」として貫かれている▼自らのマニフェストさえ貫けず、「復興財源」という冠さえ付ければ何でもアリの現政権。「消費税10%」を声高に叫ぶ一方で、320億円もの国民の税金を、それも毎年政党助成金として分け取り、当然の顔をしている。こうした集団には「政治家」としての哲学もモラルも感じられない。それが一番求められる人たちなのに。哲学なき政治家たちよ!「ジブリの哲学」に学べ。(☆) |
(2011年10月15日) 9月、長崎市立淵中学校の同窓会に出席した。当時、全校生徒1千5百人。学年は50人学級で12学級・5百人を超えていた。団塊の世代だ▼中卒で、てぐり船に乗り組み、20代で家を建てた者がいる。記念写真を撮影したのは家業を継いだ同級生だ。彼の子供が助手をしていた。小1の同級生もいた。小学校入学の集合写真を持っていないと言う。私が持っている写真を複製して送った。彼女は多くを語らなかったが買えなかったのかもしれない。戦後十数年、みんな貧しかった▼同窓会冒頭に前回同窓会以降の物故者の報告と黙祷があった。分かっているだけだが20名ほどであった。傘がないからと、学校を休んだ奴。当時珍しかったプラモデルを夏休みの工作で出したお坊ちゃん。読み上げられる名前と一緒に小学校、中学校時代の顔が浮かぶ▼自分は生き残っていると感じる。戦前だけではなく、すでに戦後もなくなりつつあるのだ。生き残った私たちがしなければいけないこと、できることは何だろう。(??) |
(2011年9月25日) 日々の生活で家庭のゴミについて考えることはあるが、宇宙のゴミについて考える機会は少ないだろう▼スペース・デブリと呼ばれる宇宙ゴミが高度2千km以下の軌道を周回している。天然岩石や鉱物、衛星打ち上げに使われたロケット本体やその部品、宇宙飛行士が作業中に落とした手袋や工具まで様々なデブリが存在する。旧ソ連がスプートニク1号を打ち上げて以来各国で4千回を超える打ち上げがあり、その数倍にも及ぶデブリが発生している▼過去にアメリカが打ち上げた気象衛星が制御不能となり、大気圏を越えて落下するとの予想が上がった。大部分は途中で燃え尽きるが、金属片が散らばり落ちると報じられた。日本時間9月24日の未明から午前にかけて東海地方や南シナ海に落下するとの予測だが、実際の落下地点は不明のようだ▼60年代にはプルトニウム等の核燃料も電池にしたそうだ。原発事故で土壌と海洋は放射能汚染されたが、さらに空からも降ってくるのではたまらない。真相は謎だが地球上だけでなく宇宙までゴミだらけにしてしまった人間の罪は深いと感じた。(み) |
(2011年9月15日) 3・11後初めて開催された今年の原水爆禁止世界大会は、世界の今後の原水禁運動に大きな問題を提起した▼「原発は平和利用」などと建前は取り繕っても、核の被害によって苦しむ人が一人でもいる以上、原発は使うべきでない。原爆でも原発でも、核による被害者を二度と出してはならないと再確認した大会だった▼8月8日の分科会で私は被爆遺構巡りのガイドをおおせつかり、自分なりに調べたことを皆さんにお話しした。浦上天主堂、如己堂、山里小学校、平和公園などを案内し、如己堂で執筆された永井隆博士の『平和塔』の一文を紹介した。「平和を祈る者は、1本の針をも隠し持っていてならぬ。武器を持っていては、もう平和を祈る資格はない」▼戦争を経験し、二度の原爆投下、そして国民の意思とは裏腹につくられた原発の被害に苦しむ私たちが望むものはただ一つ、「平和」である。平和を願うからこそ私たちは、原発も基地も、一切の武器も持ちたくないと改めて思う。(Er) |
(2011年8月25日) 原爆の日のテレビ中継でわが耳を疑った。広島(8月6日)と長崎(9日)で菅首相、うわずった声で「究極的な核兵器廃絶・・」と発言したのだ。そういえばこの人、昨年の原爆の日にも「核抑止力は必要」と言い放ち、被爆者から「人間のからだをおもちゃにするもの」と厳しい批判をうけた▼「究極的」とは、核兵器廃絶を永遠の彼方に押しやること。かつて、日本政府が核兵器廃絶の世論の高まりのなかで苦し紛れに使った「国民だまし」の手法だった。いまでは死語に等しく、近年は使われることもなくなった▼核兵器廃絶をめぐる世界の動きは、アピール署名にあるように「核兵器禁止条約」の即時交渉開始と速やかな締結という具体的行動であり、核保有国も無視できない大きな流れになっている▼「やるべき仕事をやって」と辞任を口にしていた同首相、「一日も早い核兵器廃絶こそ私の最後の仕事」と言うべきではなかったか。(☆) |
(2011年8月5日) 「月??早上好!核?射??崎有影???来中国?避.?迎来我家!」。『月お父さんおはよう。放射線は長崎に影響ありますか?中国に避難して私の家に来て、歓迎する』という意味だろう。3月20日に中国の娘の一人が送ってきたメールだ。長崎は大丈夫と返事した▼少年少女平和のつどいが今年で20回目を迎える。子どもたちに何を伝え、どう学んでもらうかに頭を悩ます。実行委員会で意見を交わし考える中で、自分たちも新しい学びがある▼劣化ウラン弾の材料が、原発で使用する核燃料を作る過程で大量に生み出された廃棄物を利用していることを今回知った。劣化ウラン弾が核兵器と同じ非人道的兵器だと理解していたつもりだが、原発と兵器がこうした形でつながっていることは知らなかった▼あふれる原発・放射能情報をきちんと読み解き、正しく恐れることの難しさを感じている。平和のつどいで子どもたちと、そしていつか中国の娘とも被爆遺跡を巡り、核兵器や原発・放射能のことを語り合いたい。(??) |
(2011年7月15日) 2年前の佐賀市でのプルサーマル反対行動に集まった人の殆どが他県民(多くは長崎)であり、市民はパレードに無関心だった。福島の原発事故を受け、玄海原発再稼働を止めさせるために多くの人々が佐賀県庁前に押し寄せたのは「もう無関心ではいられない」と感じる人たちが増えたからではなかろうか▼未だに「脱原発」を豪語できない日本。「ここまで危険な状況になっているのになぜ?」と歯がゆい思いをする日々だ。ドイツやスイスなどヨーロッパの一部では原発から離れようとする国が出てきているというのに▼先日、朝のワイドショーでポスト原子力として「地熱発電」が取り上げられていた。九州電力では大分県の八丁原・大岳発電所がある。地熱発電のCO2排出量は原子力発電の1?時当たり20gに比べて、同13gと少なく、温暖化対策にも有効であるらしい。火山大国であり、全国各地で温泉が湧く日本ならではの地熱発電。国内の発電量の0.2%に過ぎないという事だが、再生可能でクリーンな発電として期待できそうである。(み) |
(2011年6月25日) 先日職場の全国の仲間とともに被ばく問題について学ぶ場があり参加させてもらった。原発に安全は存在しないこと、被ばくの恐怖、そして社会の在り方の根本そのものを考える大きな機会となった。現地の方もみえており、お話しを聞くことができた▼南相馬市のKさんは避難先でお母様が体調を崩され亡くなったとのことだった。「父は若い時に戦争に出て遺骨で帰ってきたので、父の分まで母に元気でいてほしいと思っていた。いい世の中を最期に見せてあげたかった」と語った▼ある医療従事者の方…「私たちフクシマ県民は3・11以降決定的な運命を担わされました。かつてヒロシマ・ナガサキの人々が背負わされたのと同じように・・・私たちはこの愚行を後生に伝えていかなければなりません」▼現地の方々のお話を聞くと、自分が今生きている意味、生きている使命を感じた。他人事ではなく結果論ではなく、自分の果たす役割、使命を持ちながら今後支援に関わっていきたい。(Er) |
(2011年6月15日) 北海道の漁協が被災地漁民に漁船200隻を送り、宮崎の幼稚園からマイクロバスが子どもたちの送迎にと届けられた。中古とはいえ、被災地の苦しみに心をよせた具体的な救援活動に拍手を送りたい▼サッカーや野球など、このところ震災救援チャリティーに取り組むスポーツ界の努力も目立っている。ファンに支えられたスポーツのあり方として、明るく喜ばしい光景だ▼日頃のマラソン中継で目にするのが自動車などを提供するスポンサー企業の協賛だが、名だたる企業が被災地に車を送ったとか、すべての避難所にテレビを寄贈したという話は聞かない。国民に先駆けて、「みなさんの力で蓄えさせていただいた内部留保金の5%を被災地に送ります」といった声もあってよさそうなものだが▼暮らし再生や仕事を求める被災地の声は切迫しているのに、永田町は政権騒ぎと復興財源を逆手に取った論議ばかり。憲法をかざして「大企業に社会的責任を果たしていただきます」といえる気骨ある政治は皆無なのか。(☆) |
(2011年5月25日) 書かずにいられない東日本大震災、福島第一原発の事故▼テレビやラジオ、新聞でまともな情報を得るのは難しい。知識人の講演会をインターネットで視聴したり、ツイッターなどで選別しながら正しいと思われる情報を得る日々だ▼情報操作や言葉による風評で多くの子どもたちの健康が危ぶまれる方向に、事態は進んでいる。テレビ等で取りざたされることはないが、ネット上で福島の放射線量を個人的に測定して公開すると手痛い攻撃を受けるようだ。まるで戦時中。人命は二の次であり国民に真実をひた隠しにする▼原発から数十キロ圏内でマスクもさせずに子どもを外で遊ばせている親の映像を見ることもしばしば。同じ親として考えられない光景だが、目に見えない物質の存在を信じ続けるのは難しいのかもしれない。だからこそ国は警鐘を鳴らさなければならない▼5年後10年後に子どもたちや若者の健康被害が増加するだろう。その時に国や原発関係者は責任逃れするのではなかろうか。一連の対応から疑いが深まる。(み) |
(2011年5月15日) 昭和12年 佐世保海兵団入団、軍艦金剛乗組み、第1艦隊編入。13年 南支方面行動。14年 北支方面行動。15年 南支方面行動。16年マレー上陸作戦間接支援(佐伯~馬公~カムラン湾)。▼17年2月 機動部隊編入(カムラン湾~馬公~パラオ~スターリング湾~クリスマス島砲撃~スターリング)。3月 セイロン作戦参加(スターリング~佐世保)。5月 攻略部隊編入、ミッドウェー作戦参加、柱島出撃。6月 北方部隊支援隊編入、アリューシャン作戦参加。9月 支援部隊前進部隊(呉~トラック島)。10月 ガタルカナル作戦参加。挺身攻撃隊編入(トラック~ガダルカナル島砲撃~トラック~佐世保)。18年4月(呉~トラック~横須賀~トラック)。9月(トラック~ブラウン島)。12月 空母翔鶴便乗(トラック~横須賀)、横須賀砲術学校。20年7 月佐世保海兵団→朝鮮海軍航空隊、復員▼父が残した軍歴、恩給申請の備忘録か何かの抜粋だ。聴いたことのない内容も多いが父は8年前に他界した。戦争体験はもう聞けない。(??) |
(2011年4月25日) 平和うぉっちんぐへの原稿依頼のお話を頂くとき、何を書いたらいいのかいつも迷うが、今はやはり東日本大震災で被災された方々へ想いを寄せずにはいられない▼今も余震が続く被災地周辺では「地震で家が全壊し、帰るところが無い」「水道水が危険だから、出産予定日が近いのに妊婦さん自身がミネラルウォーターを買いに行った」「職場も職も失ってしまった」などの実態がある。そして被ばくの恐怖。被災地の方々の不安は計りきれない▼「もしあの時人命より原発優先でなく、一刻も早く原子炉を冷やしておけば…」「もし正しい情報公開が行われていて国の責任で地域の人々を非難させてくれていれば…」「もしも…」をずっと考えてしまう。何よりもし最初から原発が無ければ…▼原発事故はまさに人災だ。自然災害を防ぐことは難しいが、人の力で人災や二次災害を防ぐことはできる。今、「私たち市民が、安全な社会をどうつくっていくのか」が大きく問われている。(Er) |
(2011年4月15日) 花の季節のはずが、瓦礫と放射能に苦しめられる日本列島に急変した。自然に罪はないと思うが、ひと月たってもなお一万数千人の行方不明者。未曾有の被災は現実だ。家がない、仕事がない、学校は、漁業は、農業はと、すべてを失った上に先が見えないはがゆさと悔しさ▼その上を恐怖の人災が襲う。危険を指摘されても「事故は起きない」と胸を張った原発推進の「専門家」たち。「健康に害を与えるレベルではない」の一言がなんと空虚なことか。風にのった放射能はすでに日本列島を周回した。内部被ばくの恐怖に怯えながら生きてきた被爆者はことの重大さを肌で感じている▼被災の中で見えたものもある。東北の中小業者の物づくりなしには何もつくれない大企業。心の傷をおった子どもたちと教師の間を引き裂く宮城県教委の異様な人事異動。ここに至っても「復興財源は消費税増税で」と叫び、「思いやり予算」や政党助成金には指も触れない政治の異常▼忌まわしい戦争の犠牲のうえにつくられた憲法をもつ国、救援・復興、原子力行政見直しにこそそれを活かさなければ。(☆) |
(2011年3月15日) 2月、九州・沖縄地域で医療に従事する青年職員の交流を図る集会があり、生まれて初めて沖縄を訪れた▼沖縄での開催の目的の一つは、沖縄の歴史に触れ、命を守る医療従事者として私たちがこれから実践していくべき事を考えること。現地の若い職員が中心になってアブチラガマや普天間基地周辺を案内してくれた▼66年前の沖縄の惨状を聞いて、フィールドワーク後のグループディスカッションでは、みんな精神的に疲れ切っていたが、「地域の人が、亡くなってからも敵に攻撃させるために身体を使われていたなんてひどすぎる」「小学校の側にあんな恐ろしい滑走路があるなんて・・・」と、それぞれが思い思いを口にした▼現地のある女性の一言はみんなの心に残った。「観光や旅行や・・・どんな目的で沖縄に来ても、『こんな美しい沖縄になぜこんな恐ろしい基地があるのか』とちょっとでも思ってもらえたら、私たちが現状を訴えていく意味は大きくあると思う」(Er) |
(2011年2月25日) 「朋友?中国人研修・実習生を守る会」の関わりで1月と2月に中国3都市を訪れた。帰国した実習生が相次いで結婚し、お祝いと結婚式出席のためだ。いずれも上海から車で数時間かかる江蘇省の内陸部の街だ▼初めての海外旅行、しかもツアーではないので、反日デモ等の影響を心配する親戚もいたが。中国式結婚式を体験し、実習生の家にも招かれ、集まった親戚や友人から「白酒(50度)」付きで熱烈歓迎を受けた。実習生と久しぶりの再会を喜び、帰国後の彼女たちの暮らしぶりに話がはずんだ▼江蘇省の省都は南京市である。南京大虐殺や尖閣諸島の話が出たときの心づもりはしていた。しかし、友好第一という配慮だったのだろう、話題になることはなかった。もっとも私が話せる中国語は「?好」「謝謝」だけ。実習生たちは多少日本語が話せるが、その他の人とは漢字の筆談でやりとりした▼招かれた実習生の家で別れ際に叔父さんが満面の笑顔で、私が渡した名刺の裏に「我?是好朋友」と、書いてくれた。(??) |
(2011年2月5日) 菅政権の国民離れが目に余る。普天間問題など公約違反も許しがたいが、権力の座に居座る目的だけの手段を選ばぬ強権ぶりだ▼突然、米国発のTPP参加問題を持ち出し、与謝野氏に「三顧の礼」を尽くして消費増税シフトを敷く。加えて、比例定数を80削減し、ほとんど小選挙区制のもとで次の総選挙をやろうとする悪知恵。自分だけは4割の得票で8割近い議席を独占(前回総選挙で試算)しようという企みだ▼本気で「身を削る」というなら、政党助成金(民主党は168億円)をなぜ仕分けの対象にしないのか。自らの活動資金は自らの努力でねん出すべきが当然ではないか。少数政党を締め出す衆院比例定数削減は、結局国民の多様な声を政策の差異のない大政党の枠に押し込もうとするものでしかない▼4月はいっせい地方選挙。合併で議員定数が大幅削減された自治体も目立つ。上脇博之氏の研究によれば、6年間に市町村議定数が4割も減ったという。はたして政治はその分よくなったのか、しっかり見極めたい。(☆) |
(2011年1月25日) 新しい年がスタートして早一ヶ月…。月日がたつのはあっという間だなぁ。私が平和活動に参加するようになって3年目になる。その始まり・原点は、勤め先の病院でのある患者さんとのやりとりだった▼その女性はエレベーターの前で何かを考えるように立っていた。あいさつとともに声をかけると、「一緒にエレベーターに乗ってほしい」とのこと。不思議に思いながらも一緒に乗ると、「ごめんね、一人で乗ると、原爆が落ちて防空壕で怖い思いをした時のことを思い出して…」とポツリと本当に小さな声でおっしゃった▼それまで私は、何となく署名をとって漠然と行動していたが、その時初めて「被爆者の方々は今もこんなに苦しんでいる。被爆は決して65年前の話ではない。現在の、そして私たちの問題なのだ」と気づかされた▼私の小学生の頃の作文の中に「被爆した方々の思いを受け継ぎ、私たちが世界の平和の架け橋になりたい」という一文を見つけた。子どもの頃からのその夢に、11年、さらに近づきたいと思う。(Er) |