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戦争のリアルな史実を後世に

川棚・佐世保の戦争遺構フィールドワーク

 12月6日、ながさき平和委員会は川棚と佐世保の戦争遺構フィールドワークを行いました。参加は長崎と大村から14名で、川棚町の職員さん1人、ボランティアガイドさん2人の案内でまずは川棚海軍工廠の疎開トンネル工場を見学。ここは軍備増強と被害分散で川棚に設置された魚雷製造工場を、戦局の悪化でさらにその一部を疎開させるために崖穴に作られたものです。掘削作業は朝鮮人にやらせ、九州各地から集められた15歳の少年たちを中心に製造に従事させられました。

 片島魚雷発射試験場では大正時代から魚雷の性能試験を行っており合格率は8分の3ほどだったそうです。

 特攻殉国の碑資料館では別のガイドさんの説明を受けました。鉛製サンダルが展示されていました。これは伏龍作戦(本土決戦に向けて棒付きの機雷で上陸艇を破壊する)で海底を歩くためのもので片方5㎏、更に腰にも重りも着けていたそうで、この作戦には長男で孤独に強い者が選ばれたそうです。

 4か所目は予定になかった無窮洞。宮村国民学校が空襲に備え校庭の前にある崖に高等部(中1・2相当)が穴を掘り、掘った岩石を初等部(小4・5)が運搬して作ったものです。7回ほど避難に使っただけで実際に講堂として使われることはなく終戦を迎えました。

 次は浦頭引揚記念資料館・・・(その前に昼食タイム。昼食後は参加者の自己紹介。お互い久し振りだったり初対面の方もおられ交流を深めました。)日本への引揚者は全国で629万人、そのうち5年間で約140万人がこの浦頭に帰国しました。到着した時に栄養失調や病気で亡くなっていた人は3000人超と言われています。

 最後は旧佐世保無線電信所(針尾送信所)。3つの無線塔のうちの1つの内部が見学できるようになっており、また最近電信室の中も見学できるようになりました。この目立ちすぎる無線塔は無傷で残っていますが、当時連合国は通信傍受も暗号解読もしていたようで破壊する必要もなく、また占領後に利用しようと考え温存していたと言われています。

 すべての見学を終えて・・・当時、物資も技術的にも脆弱だった日本で「国を守るため、家族を守るため」と思わされ子どもや老人まで軍事に従事させられ多くの人が怪我をしたり命が奪われました。史実を風化させないために戦跡を残すことは勿論ですが、見学した人が辛くなるほどできるだけ生々しく伝えられるべきだと思いました。

(2020年12月7日)