「自衛権=正当防衛」と解釈すると、集団的「自衛権」とは果たして成り立つのだろうか? このように問いかけに、みんなが考え込みました。
ケンポーとアンポを考える連続講座の第2回が5月31日、「憲法九条vs集団的『自衛権』」と題してありました。
日米安保条約上の同盟国=アメリカは、いつも正しい行為・行動をしている訳ではないため、アメリカの間違った選択によってアメリカが攻撃を受けた際、日本はその第三国を攻撃するのは果たして正当防衛に当たるのか? 日米安保条約第5条を引き合いに出して、説明されると、その場にいたみんなが考え込みました。
国連でも、例外的措置として「集団安全保障」の概念があるため、「集団的『自衛権』が国連憲章にも盛り込まれているから「我が同盟国間も」といった正当化の論理が成り立ってしまう余地のあることに疑問が投げかけられました。
アメリカ発の憲法九条改憲策動が起こった経緯を説明。日本がアメリカの思惑に振り回されている実態を明らかにし、日本を戦争のできる国にしたいのは「アメリカ」自身であることを日本の日米軍事同盟における役割をもって解説しました。
現行憲法の基になっている帝国憲法改正案の第九条を読み上げ、戦力不保持が厳格に定められていたことを指摘。憲法本来の意義について考えさせられました。「憲法の文面だけを見てああだこうだと解釈する者が多いが、元々の『憲法の精神』をもっと考える必要があるのではないか?」といった意見が出されました。
今、改憲論者が巷にあふれているような報道がなされていますが、そのほとんどが「釈迦の手の平で踊らされている」のではないか? と感じました。すべてがアメリカの手の平に乗せられています。正しい世論をつくらなければ、日本がアメリカと一緒に戦争のできる国にされかねません。
戦争の発端は、いつも政治の歪みから生じます。憲法九条は、政治が戦争に向かう入り口でストップをかけています。ある友人の言葉が思い出されました。「『戦争』の対義語は何か? 誰もが『平和』と答えるが、私は『政治』だと思う」と。戦争を始めるのも政治ならば、外交によって戦争を食い止めるのも政治。そして、時の権力者を縛るものが憲法だということを実感しました。
「憲法を守る」ことは「憲法に守られているものを守る」こと。改憲論の大元に誰がいるのかを考えると、憲法を守らなければ!との思いが強くなっていきます。
(2013年6月1日)