10月5日、原発ゼロをめざす長崎連絡会主催の学習会「飯舘村はいま・・・」が開催され、33名が参加しました。
福島駅前などいたる所に線量計が設置され(文部科学省のWEBページでは福島市周辺だけで391ヶ所のデータが公表されている)、地元の新聞には各地の線量や生鮮食料品の放射線量(取引相場ではない)が毎日大きなスペースを割いて報道されている実態を示し、日常の生活に放射線が入り込んでいることを報告しました。(以下、青字はツイッター記事から引用)
飯舘村役場を訪れました。庁舎周辺だけを除染。線量掲示板は毎時0.7マイクロシーベルトと周囲よりは低い数値。しかし庁舎裏には剥ぎ取った汚染物質を詰めた大きな袋がたくさん野ざらしになっています。空間線量は最大で30マイクロもありました。
30マイクロといえば、事故直後の3月15日の44.7マイクロシーベルト(3月30日発行「広報いいたて」号外1号より)に迫る数値。3月18日には南相馬市と双葉郡の避難民500人を収容(最終的には1600人)、汚染の事実を知らされず、地元の食材を避難民に提供しました。IAEA調査団が避難勧告をしたのは号外1号が発行された3月30日。政府が「計画的避難区域」に指定する方針を決めた4月11日を待たず、村長は乳幼児や妊婦を村外に移動させると決定しました。
一見、人里離れた豊かな自然が広がっているような光景。しかし田んぼや畑が荒れ放題なだけ。村の大半は居住制限区域。カーテンを閉めた家、シャッターを閉じた商店、人の気配のしない街はとても異様でした。許可された企業など550人が被曝を承知で日中活動しているといいます。
例外的に事業継続している事業所の従業員は域外からの通勤。しかし特養老人施設に入所する老人は常時施設内で生活しています。県立病院からも毎日応援に入ることの意味を考えさせられます。
人口6千人余りの飯舘村は住民投票で合併しない道を選択。そして飯舘流のスローライフ振興計画を策定。元々、原発交付金とも縁のない村だった。そこに襲った放射能雲。 村庁舎隣には日本で唯一の村営本屋「ほんの森いいたて」。窓に貼られた「きっといつか再オープンするぞ」と書かれた紙に胸が痛む。
20の地域ごとのコミュニティが確立し、地方自治のお手本だった飯舘村。全村民にテレビ電話機能の付いたタブレット端末を配布し、絆を守ろうと努力しています。数次にわたる「若妻の翼」(海外研修)で女性の社会参加を促進し、震災後は子供たちをドイツに「未来への翼」で送り、再生に向けた挑戦が始まっています。
(2012年10月6日)