川棚町の戦争遺跡探訪

 10月13日、ながさき平和委員会は10月例会として特攻艇「震洋」の訓練所があった東彼杵郡川棚町の戦争遺跡探訪を行ないました。お話と案内は当時、訓練所の近くに住んでいた田崎忠男さんです。午後からは特攻兵器で犠牲となった三千数百名の名前を刻んだ「特攻殉国の碑」、大正時代に建てられた片島魚雷発射試験場の廃虚、旧宮村国民学校の子どもたちが二年がかりで掘った巨大な防空壕「無窮洞」などを見学しました。

【特攻殉国の碑と訓練所跡地】

 「特攻殉国の碑」は1967年に建立され、様々な特攻兵器で犠牲となった三千数百名の名前を一面に刻んであります。実際には生存が確認され、削られた跡も多々あります。

 終戦の翌日の8月16日、敵機動部隊が土佐沖に来るという誤報で、出撃のための整備中に震洋が発火、爆薬に連鎖して117人が「戦死」するという痛ましい事故の犠牲者も奉られています。

 碑文には「全国から自ら志願して集まった数万の若人を訓練して・・・」「遠く南海の果に若き生命を惜しみなく捧げられた郷等の崇高なる遺業をとこしえに顕彰する」と、侵略戦争での特攻政策を美化する言葉が掘られています。その言葉どおりに、かつては慰霊祭に旧海軍の軍服に短剣を下げて参列する人たちがいたそうです。「これだけは止めて欲しい。戦死した人はそれを見て喜ぶだろうか」と、兄をビルマ戦線で亡くした田崎さんは訴えたそうです。いまではどうにか、帽子だけになっているといいます。

 田崎さんは過去100年を振り返って、戦前は5つの大きな戦争に日本が参加。戦後60年余り、戦争に関わっていない国がないといえるほど、多くの国々は参加した。しかし日本は憲法9条によってなんとかくいとめていると、憲法の大切さを語りました。

 殉国の碑の敷地の一画にある倉庫には震洋5型のミニチュア模型が展示してありました。震洋は戦後、米軍が全部爆破してしまい、オーストラリアの戦争博物館に一体だけ残っているといいます。また入り口に掲げられた「訓練所要図」からは訓練所がかなり大規模なものであることを伺い知ることができます。殉国の碑の正面の海岸からは唯一現存する、震洋の桟橋の礎石の一部が見えました。


震洋が接岸されていた桟橋の礎石

【片島魚雷発射試験場跡】

 1918年(大正7年)、三越郷の片島に魚雷発射試験場が設置されました。佐世保海軍工廠で製造された魚雷を実際に発射し、その進行状況を観測して性能試験を行なうためのものです。1942年(昭和42年)に川棚に海軍分工廠ができると、施設は拡張され、その際に片島は海峡が埋め立てられ、現在のように陸続きとなりました。

 大正時代につくられた建造物ですが、その洋風のつくりはあたりの風景に溶け込んでしまっています。モダンなコンクリートの桟橋の上には魚雷をトロッコに積んで運んだであろうレールの敷かれた跡があり、唯一、魚雷発射場の名残を残すものです。監視所の廃虚付近は格好の釣り場となっていました。


魚雷発射試験場の遠景


朽ち果てた魚雷貯蔵施設


モダンなつくりの桟橋。魚雷はその上に敷かれたレールによって運ばれ、
左の監視所の下から発射されたとみられる。


魚雷貯蔵所から延びる運搬用レールが敷かれた跡

【無窮洞】

 佐世保市の川棚町寄りにある「無窮洞」は1943年から2年間で当時の宮村国民学校の子どもたちが掘った防空壕です。凝灰岩とはいえ、ツルハシやノミだけの手作業で掘ったとはとても考えられない巨大なものです。近くの造り酒屋「梅ケ枝酒造」の長野さん(田崎さんの教え子だそうです)が説明をしてくれました。

 内部はロの字に一回りでき、一番大きな主洞は奥行き19m、幅5mもあります。ちゃんと排水溝が整備されていて、当時は床があったそうです。教壇もあり、地下教室の体もなしていました。台所、便所、上部への避難階段(通風口)などもあります。空襲で4回、600人の生徒が避難したといいます。さすがに酸欠状態になり、唐箕(農機具の一つ)で換気をしたといいます。防空壕といえども「御真影」を置く特別な部屋がつくられていて、天皇の名の下に統制されていた時代というのものをあらためて感じました。

(2008年10月14日)