軍隊は人間の命を何とも思わない 10月13日、ながさき平和委員会は10月例会として特攻艇「震洋」の訓練所があった東彼杵郡川棚町の戦争遺跡探訪を行ないました。お話と案内は当時、訓練所の近くに住んでいた田崎忠男さんです。午前中は田崎さんの住む新谷(しんがや)郷の公民館でお話を伺い、午後からは特攻兵器で犠牲となった三千数百名の名前を刻んだ「特攻殉国の碑」、大正時代に建てられた片島魚雷発射試験場の廃虚、旧宮村国民学校の子どもたちが二年がかりで掘った巨大な防空壕「無窮洞」などを見学しました。 ◇ ◇ ◇ ◇ 1943年(昭和18年)の終わり頃、横須賀の水雷学校の分校として、川棚に臨時魚雷艇訓練所ができるということで田崎さんの家は強制移転となりました。田崎さんはそのとき旧制大村中学の1年生。移転となったのは新谷郷と西小串郷で計25世帯。当時は近くに朝鮮飯場があって、彼らと海軍のやや年配の人たちがこの地に訓練所を拓きました。 翌44年(昭和19年)2月には魚雷艇がやってきました。ところが5月になると震洋(通称マルヨン艇;○の中に漢数字の四)と、17〜23歳くらいの海軍の若人がたくさん入ってくるようになり、実は特攻艇の訓練所であることに田崎さんは気付きました。 川棚が特攻艇の訓練所として選ばれたのは次のような理由からだといいます。
また早岐駅−川棚駅間は列車のよろい戸を閉めさせられたといいます。当時、国鉄の沿線には針尾海兵団と海軍兵学校針尾分校(現ハウステンボス)、震洋の訓練所(小串)、海軍分工廠(川棚)があり、列車からは丸見えになってしまうからでした。 海軍は9種類の水上特攻兵器(マル一からマル九)を造らせていましたが昭和19年4月には、そのうちマル四(震洋)とマル六(回天)を選定しました。震洋艇は先端には250キログラムの爆薬を積んで体当たりする、後進機能のないベニヤ製の小型ボートでした。時速は50キロ程で一人乗りの1型と二人乗りの5型があり、「青い棺桶」とも呼ばれていたそうです。 震洋は三菱長崎造船所(兵器製作所)で月産100艘、日本造船鶴見工場で100艘、他の7工場で400艘を目標に建造されました。三菱兵器製作所ではさらに改良型を研究し、時速80キロを出せるロケットエンジンを搭載した6型の試運転が川棚で行われましたが火災によって失敗しています。田崎さんの親類がこの開発に携わっていて、当時の状況なども話してくれました。 震洋を最後の特攻水上兵器とした理由は、神風特攻隊の飛行機が底をつくなか、低経費、短時間でつくれる兵器だったからでした。しかも訓練期間も2〜3ヶ月と短くて済みました。最初の頃は巡洋艦や駆逐艦を撃沈、輸送船を炎上させたこともありました。しかし、この「自爆テロ」は周囲に網を配置したり、木材を浮かべるだけで防げるため、すぐに効果が上がらなくなりました。また訓練を受けた若者が輸送船で前線基地へ送られる途中で潜水艦に撃沈させられるという事態も起こりました。 そして米軍の日本への上陸も時間の問題とされるころ、九州一円や四国の太平洋側の、震洋を隠せる場所に基地がつくられるようになりました。昼間は島影に隠れ、夜間、沖合に停泊する敵軍艦を1部隊50艘で攻撃するというものです。いくらかは命中するだろうし、例え失敗しても敵に動揺を与えられると考えたようです。 当初は体当たりする前に脱出する訓練もされていたようですが、バックができずにただ突っ込んでいくボートでした。田崎さんは訓練中に亡くなったり、鉄道や井戸に飛び込んで自殺した隊員も見たといいます。 川棚の訓練所には、「回天」はなく、その講義だけが行われたそうです。また浅瀬に簡易潜水服を着て待機し、敵の上陸用舟艇を棒機雷で爆破する「伏竜」部隊の訓練も行われていました。幸い、伏竜の出撃前に終戦となり、実戦での犠牲者なかったといいます。田崎さんは戦後、伏竜部隊の近くで近所の人が見つけたという、鉛の「ぞうり」を見せてくれました(写真)。重さは1つで5キロ以上あります。震洋や回天もそうですが、こんなものを履き、機雷を持って水中で待機して攻撃する発想、そして実際に訓練を行うなど、狂気の沙汰としか思えません。 田崎さんは、軍部は若者たちを人間として見ていなかった、人の命を何とも思っていなかったと何度も繰り返しました。 ◇ ◇ ◇ ◇ 午後からは田崎さんの案内で近隣に残る戦争遺跡を見学しました。ここをクリック (2008年10月13日) |
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