物事を冷静に理性的に見る目を
戦争・被爆体験を聞く例会

 12月11日、ながさき平和委員会の12月例会が開かれ、青春時代を戦争のまっただ中で過ごした藤原重郎さんからお話をうかがいました。

 藤原重郎さんは1926年(大正15年)7月の生まれ。子どもの頃は日本が謀略によって侵略戦争に突入する時代だった。31年の満州事変は関東軍の南満州の鉄道爆破という自作自演、翌年の上海事変は中国人の殺し屋を雇って日本人僧侶を殺させた謀略事件で始まった。37年(小学校5年の時)、ひとり日本の兵士がいなくなったとして「敵襲」だと召集をかけて中国軍を攻撃し、日中戦争(支那事変)を起こした。それを走りに、日本人310万人が死に、2000万人のアジアの人々を犠牲にした。

 日本人は一人殺されるとカーッとなって戦争を始めた。まだその夢を見ている人たちがいる。拉致問題、ミサイル、核実験と「北朝鮮脅威」を煽り立てられる中で見境がなくなっている。いつの世もそれにつけ込んで儲けるやつらがいる。守屋・防衛省事務次官たちもそうだった。物事を冷静に見ることがいつの時代にも必要だ。

 藤原さんの家は木鉢郷にあり、6年生の時に長崎市に編入となった。父親は小学校の校長をしていたが、中国に日本語教師として赴任した。
 旧制長崎中学校に入学し、その2年目に母親が結核で亡くなり、6人兄弟姉妹のうち、姉と藤原さんが桶屋町に下宿、妹2人は大分の叔父に、弟2人も別の叔父に預けられた。
 みるみる物資が欠乏していった。戦争はかわいそうだとか、恐いとか言うけれども、一番きついのは食糧のないことだ。

 藤原さんは母の看病をしていたときに結核がうつり、病気静養のために父のいる中国・杭州に渡る。移動していた日本軍が戻ってきたとき、西湖のまわりにはムシロを下げた小屋が20ほどできていた。兵隊に聞くと「中に縛られた女がいる」と答えた。これが慰安所だった。それを聞いたときがっくりきて、日本の軍隊の汚らしさを知った。

 42年、病気が落ち着いたので帰国して中学に復学して寮生活になる。結果的に4年生を2回やることになった。
 43年6月には米軍機が長崎にやって来るようになった。爆弾は主に稲佐山に落とされた。軍艦を造っている三菱造船所を守るための高射砲があったからだ。この年、航空母艦を護衛する大型巡洋艦が進水するというので、長崎市内の中学生と女学生が大動員され三菱電機前の海の通りに並ばされた。皇族上がりの海軍中佐が来るということだけで。

 寮生活の中で藤原さんはいろいろと疑問を持つようになる。「『公民』で国が成り立つには国土・国民・主権者が必要と習った。だが『1億総特攻』をやったら国民全部が死んで日本は滅びてしまう。誰が考えてもおかしい」と論争になった。
 当時購読していた『航空朝日』という雑誌には「航空戦の結末は航空機の数で決まる」と書いてあり、精神主義では物資に勝るアメリカに勝てないのではと感じた。
 新聞は米英の200機によるドイツ攻撃を「盲爆」と書き、ドイツの20機によるロンドン攻撃を「猛爆」と書いていたのに驚いた。字を変えて書くと錯覚が起きてだまされる。

 学徒動員中は三菱長崎造船所の幸町工場の仕事がきつくてストライキを行なったこともある。また軍事教練では石をぶつけられたので、銃口を土盛りに突っ込んで帰り、0点となった。そこで中学卒業後は陸軍ではなく、海軍を志願してテストを受け、佐世保海兵団の特別幹部候補生となった。終戦の3ヶ月前である。その後、藤沢市の海軍電測学校(レーダー技術者の養成)に配属となった。

 そこの分隊の班長がわけがわからないやつでよく殴られた。「飯の次ぎ方を知らん」と因縁をつけられたので班のメンバーと相談して、ひとつへこませてやろうということで「ストライキ」を決行した。「自分たちが悪かった。罰を受けます」と言って、弾除けにもなる分厚い机をみんなで持つ「テーブル支え」を二交代で張って続けた。逆手をとって罰直を受けているとしたので班長は怒りようがない。場所が「占拠」されているので授業はできなかった。翌日から班長は部下の掌握ができないとして班長なかまにも相手にされなくなった。
 2週間ほどして終戦となり、事無きを得たという。

 もし日本がアメリカの尻馬に乗って戦争をやったら自給率40%では持ちこたえられない。日本人はもっと理性的になるべきだ。感情で物事を処理してはいけない、と藤原さんは結んだ。