平和を守るために体験談の継承を 9月25日、ながさき平和委員会の9月例会が開かれ、内田保信さんから戦争・被爆体験をうかがいました。内田さんは長崎に平和委員会がつくられるときに最初から参画した一人で、「平和委員会の例会で話ができることはひじょうにうれしい。こんなしあわせなことはありません」と述べ、被爆体験を語ってくれました。 内田さんは16才の時に被爆しました。当時は学徒動員で戸町トンネルを封鎖した三菱長崎造船所の「工場」で働いていました。つくっていたのは「○四」(まるよん・実際は一文字)艇と呼ばれるベニヤ製の小型特攻艇でした。一人乗りで船の胴体には爆薬を満載し、エンジンを吹かして全速力でアメリカの軍艦に体当たりするものでした。小さいときから戦争で死ぬことはなんとも思わない思想が植え付けられ、特攻兵器をつくることは自分たちの任務と心底思っていたそうです。 工場は軍需生産に支障を来さないよう当番で休みを取ることになっていて、内田さんと友人の中村太郎君はたまたま8月9日が休みでした。二人は家野町の中村君の家でゲタをつくる約束をしていました。午前中はいきなり空襲警報があり、電車が松山で止まってしまいました。米軍の戦闘機には慣れっこになっていたので、内田さんはゲタをつくる時間がなくなるという方が心配でした。電車を降りて、中村君の家まで走り、しばらくは中村君の家の防空壕にいました。その後、警報が解除になり、庭先で庭先でゲタの材料を切っているときに原爆が炸裂しました。爆心地から1400メートルの距離でした。 内田さんはその瞬間、体が浮き上がり、頭頂部をとがった金槌の先で殴られたように感じ、そのまま気絶してしまったそうです。中村君の「助けてくれー」という叫び声で気がつきました。中村君は家の屋根の下敷きになっていましたが、まわりの人は幽霊のようになって通り過ぎていくだけでした。中村君のお母さんと通りがかった青年2人とようやく屋根を持ち上げて中村君を引っ張り出すことができました。防空壕の中に寝かせられた中村君はその日の夜中に「母ちゃん、母ちゃん」と泣きながら死んでいったそうです。中村君はその日の夜中に亡くなり、二人の生死を分けたのは着ていた服ーー中村君はパンツひとつ、内田さんはランニングと長ズボン、でした。 内田さんはその後、中村君の叔父さんに背負われて救援列車に乗って諫早へ。しかし病院は重症患者であふれていました。元気そうにみえた内田さんは小学校に回され、床に敷いた荒むしろの上に寝かされました。火傷の上にまかれた包帯からはまるまると肥えたウジ虫がこぼれ落ちたそうです。その後、病院に移されますが病室にいた50人程の患者で生き残ったのはたった7人でした。内田さんは一命を取り留めましたが、左腕にはケロイドが残りました。 何ヶ月かたって米占領軍が病院を占拠し、内田さんは治りきっていないのに退院させられてしまいました。20歳代には白血球の数が急増して体調不良となったこともありました。妻も被爆者で産まれてくる子どものことも心配でなりませんでした。 内田さんは長崎で初めて被爆報告をしましたが、朝鮮戦争の最中で弾圧されたそうです。「平和委員会が先頭にたって、もう二度と戦争はしないと世界に誓った憲法九条を守り、核兵器をなくし、美しい青い地球をしっかり守り抜いていきましょう」と結びました。 (参加者の感想)
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