黒焦げの死体に出会ったのが原点
戦争・被爆体験を聞く例会


当時の写真を示しながら被爆体験を語る川口龍也さん

 1月19日、ながさき平和委員会の1月例会が行なわれました。今回は会員の戦争体験・被爆体験を聞く企画の第2回目でお話は川口龍也さん。生まれた時代、被爆体験、被爆者としての思いなどを語ってくれました。

 川口さんは1936年生まれで、その年の2月には「2・26」事件という流血クーデターが起き、戒厳令が敷かれました。1931年には満州事変、37年7月には日中戦争の発端となる蘆溝橋事件が起きています。まさに軍部が力をもちつつ日本が戦争へと突入していく時代でした。

 1941年には国家総動員法の下で、金属類の供出が始まりました。家庭の神仏具、神社仏閣の梵鐘をはじめ、国民学校の二宮尊徳の銅像、市内の上野彦馬などの銅像まで回収されました。食生活は特に厳しくすべて配給制になり、かぼちゃの茎や野草まで食べたそうです。

 川口さんの家は西坂国民学校の近くにあり、原爆投下時は3年生でした。父は小佐々町の海軍基地に徴用にとられ、母と2人の妹と4人暮らしでした。川口さんは近所の友だちと長崎駅の東側にある五社山の神社でセミ捕りに夢中になっているときに被爆しました。爆心地から2.1キロでした。

 「ピカッ」と閃光が走り、米軍の戦闘機と思って子供心に念仏を唱えたといいます。回りにあった石柱は倒れ、眼下の長崎駅の方は真黒で見えませんでした。「グオーッ」という地獄の底からはい上がるような異様な音が聞こえてきたそうです。林の影にいたために直射をまぬがれました。家族も家の中にいて無事でしたが、家はやがて類焼し、近くの畑の防空壕で過ごします。

 近所に住んでいた3歳のいとこは倒れた家の梁の下敷きになって即死。配給をもらいに店先に並んでいた12歳の子は、黒こげになって帰ってきて4日後に亡くなりました。

 8月13日に防空壕を出て、父のいる小佐々町へ向かう途中、大橋の川べりに真っ黒に折り重なった無数の遺体が横たわっていました。いまでもその光景が脳裏に焼き付いていて、何かあると思い出すそうです。

 川口さんはいま、非核の政府を求める県民の会の事務局長として県内自治体の非核宣言制定や核兵器廃絶国際条約締結の意見書採択のために奔走しています。それを後押ししてくれているのが黒焦げとなって死んだ友人や大橋の死体だと話してくれました。