11月3日、長崎市平和会館で「ながさき9条フェスタ2005秋」が開かれ、約800人が参加し、平和憲法を守る決意をあたらたにしました。
第1部では、憲法条文を長崎弁で唱和したり、ダンスやコーラス、ギターや三味線、太鼓・ジェンベの演奏など13の団体・個人が憲法への思いを表現しました。
第2部では、東京大大学院総合文化研究科の高橋哲哉教授が「靖国と自衛軍−−憲法『改正』の焦点」と題し講演しました。高橋さんは「憲法九条の改悪はそれを支えるための国民の意識づくりを狙った愛国心、そして政教分離原則の改悪をたずさえて私たちの前に現れている」と自民党の新憲法草案の本質を明らかにしました。そして「一人ひとりが憲法の価値に確信を持ち、声を上げてつながり、憲法改悪の流れをくいとめよう」と呼びかけました。(講演概要は下記に)
集会ではまた県内各地の「九条の会」の代表者がそれぞれの取り組みを紹介しました。憲法の学習、戦争・被爆体験を聞く活動のほか、映画「日本国憲法」の上映(城山)、署名宣伝行動(滑石)、街頭リレートークと一言メッセージ冊子・年賀状大作戦(諫早)、うたごえ喫茶や子どもたちと絵を描く(九十九島)、手作りポスター(日見)、メーリングリストの活用(ピース・ギャザリング)など創意に満ちた多彩な活動に大きな拍手が寄せられました。
【講演概要】
自民党の憲法草案に対して朝日新聞は「自衛軍に国際活動容認」、毎日新聞は「前文に『国守る責務』」という見出しを付けて報道した。これは本質をついたものだ。
最大の眼目は九条の変更。第一項の戦争放棄は維持しながらも第二項で自衛軍を保有する。章建てを「戦争放棄」から「安全保障」に変えた。自衛軍は安全確保活動、国際貢献活動、治安維持活動の3つを行うことになる。この「改定九条」をどのように受け止めるべきか?
自民党としても憲法の三大原則(主権在民、基本的人権の尊重、平和主義)は変えられない。戦争放棄を外すと世論の反発を受ける。ただ九条第二項と自衛隊の現実との乖離がある。憲法の文言を変えるだけなら戦争になるわけもなく、現実は何も変わらないと言いたいのだろう。これにどう反論するか?
「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否定」つまり、九条二項を含めて平和主義なのだ。自衛のためには、国際貢献活動のためには、公の秩序を維持するためにはやむを得ないものとして新しい日本軍の軍事活動が行われる。軍の武力行使をしないのすむのであれば憲法を変える必要がない。それを変えたいというのは、それを口実に武力行使を解禁したいからだ。それがねらいだ。
現実との乖離については現実の方を憲法の規範にあわせるべく政治家たちが努力すべきこと。全体状況を見ながら東アジアにおける平和の秩序をどんなに難しくても少しずつつくっていく、そして軍縮を進めて平和を確実なものにしていく、それこそが日本国憲法の拘束もとにある政治家の使命だ。そういう外交努力を行わず、軍の存在を認めていざとなったら軍事力で何とかしようという今の動きは政治家の責任放棄。軍事力で日本の国民の生命を守れるということの方が幻想だ。
近代国家においては、軍隊と軍を動かす法律があっても、それを支持する国民の意識が不可欠である。そうでないと国策として軍事力を遂行できない。ブッシュ政権のイラク戦争も最初は支持が圧倒的だった。そこで重要になってくるのは「愛国心」。これを入れなければ意味がない。
戦前はそれが忠君愛国の「教育勅語」だった。日本の戦争や植民地支配を支えた国民の意識をつくりあげた。戦後はそれが否定され、個人の尊厳、幸福の追求のために国家は平和国家でなければならなかった。そして教育基本法が制定された。それは憲法の理想を実現するための手だてでもあった。これが憲法に先だって変えられようとしている。それが「愛国心」である。
改憲の中心は九条であり、それにともなって「愛国心」が必要になる。すでに憲法前文に「国を守る責務」がはいるということになれば教育基本法にも入ることになり、ますます事態は深刻なものとなる。
いざという事態となって軍事力を行使したとする。相手側に死傷者が出たとする。自衛軍の中に死傷者が出るかもしれない。そうなったときに「危険だからやめよう」と国民がみんな考えるようであれば国策は遂行できなくなる。そのとき軍の行動を支持し、協力してくれる国民の意識が必要だ。そのためにこそ「愛国心」を教育基本法や憲法に入れることをねらっている。
つまり自衛軍の武力行使と集団的自衛権の行使の容認と同時に、九条を変えることによって戦争をできる国になり、それを支える国民の意識・精神をつくり、そのための「愛国心」を憲法に入れる、この2つが焦点といえる。
いま靖国問題がクローズアップされている。9月30日、大阪高裁で、小泉首相の靖国参拝に対する違憲判断が下された。その後、小泉首相は初めて平服で「簡略化された」参拝を行った。しかし「公的参拝」は薄まってはいない。アジアの国々が批判にするからでなく、政教分離原則に違反だから問題なのだ。
日本国憲法第二十条は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」としている。
戦前は「国家神道」があった。それは国家宗教ではないが、宗教の自由を侵害し、国民精神のよりどころであった。宗教の自由を保証することは、特定の宗教を持っていない人には無縁のものだろうか?そうではない。
帝国憲法下では、安寧秩序を妨げず臣民の義務に背かない限り信仰の自由が認められていた。しかし天皇主権国家の根拠が天皇崇拝の国家神道だったのである。戦後、国民主権に変わり、「国家」と「神道」が分離された。だから政教分離が憲法の根幹の一つなのである。
自民党改憲案では、原則を否定できないため宗教的活動であっても「社会的儀礼」「習俗的行為」の範囲内であればという、例外規定をつくっている。これは何を狙っているのか?
首相の参拝も戦没者追悼という儀礼、歴代の首相が何度もやってきた伝統的なものと強弁すれば合憲となりうる。そうすれば「私的」にやる必要はなくなる。実は根強く地域には、いわゆる町や村のヤスクニがある。殉職者の護国神社への合祀がある。
旭川市の北海道護国神社では毎年6月の慰霊大祭に現職自衛官幹部が参拝している。出張できているが、当日は休暇で私的参拝という。ここは戦前は目の前に陸軍第7師団が置かれ、北海道出身の戦没者を英霊として奉っている。真っ先にイラク派兵が行われた師団がある場所でもある。
自民党案が通れば、自衛軍の武力行使によって生じた自衛軍の戦死者を靖国神社や護国神社に合祀して、首相や天皇が憲法違反とならずにその功績を讚え参拝することが繰り返され、新たな軍事行動へ国民の精神を動員していくシステムが復活することになる。
いまの歴史的な状況をどこまで自覚できるだろうか?
愛国者であり、キリスト者である内村鑑三は教育勅語に対する「不敬罪」に問われた。その時の心境を「政治的自由、信仰の自由はいかなる国においても厳しい試練なしでは手に入らない」と手紙につづっている。
憲法は主権者が自分たちの国を営むために国家権力をつくり権力者にゆだねるが、それが乱用されることのないようにあらかじめ定めたもの。つまり憲法は私たちがこの国の主権者であるという政治的自由、思想・良心・信教の自由を始めとする様々な自由を国家権力に守らせるものだ。
ひるがえって考えてみるといま問われているのは日本国憲法にもられている民主的な価値、思想信条、宗教の自由それと表裏一体の平和を私たちがどこまで自分にとって大事だと、絶対に譲れないと確信するかだ。
その出発点を確認し一人ひとりが声を上げてつながり行動し、この流れを食い止めよう。そして何よりも重要なポイントは民主的な価値を実現していく、ほんとうにこの国の社会に根差したものにしていく、そんな努力を息長く続けていくことではないか。