旧海軍針尾無線塔が
解体撤去される?

 旧海軍の戦争遺跡の一つである「針尾無線塔」が解体・撤去されると西日本新聞1月3日付けが報道しています。

 針尾無線塔は旧海軍が1918年(大正7年)から約4年をかけて建設した鉄筋コンクリート製の3本の巨大な塔です。国内では行田無線塔(千葉県船橋市)に次いで2番目につくられた陸上電波塔で、現存するものは針尾だけです。
 高さはそれぞれ135m(1号塔、2号塔)、137m(3号塔)で1辺300mの正三角形なすように配置されています。塔基部直径は約12m、塔頂部直径約3mでコンクリートの厚さは76cm。塔と塔の間には空中線が張られ、中国大陸や南太平洋の軍艦に対して長波による送信が行われていました。

 敷地は約86,000m2で、戦後、海上保安庁に委譲され、1948年5月に佐世保海上保安部針尾送信分室が開設されました。佐世保針尾送信所は現在は、海上保安部佐世保通信所と海上自衛隊佐世保システム通信隊の送信所として共同使用されています。97年3月に新送信所局舎と高さ35mの新送信塔が整備されたため、コンクリート無線塔はもう使われていません。

 現在、敷地のうち海上自衛隊の施設を除いた約57,000m2は放置された状態になっています。不要となった国有施設は更地にする必要があるため、佐世保海上保安部は佐世保市に対して敷地ごとの購入を打診していました。しかし佐世保市は財源不足を理由に敷地を含めた購入は断念していました。海上保安部は06年度以降に予算が確保され次第、解体・撤去に着手する方針だといいます。

 一方、佐世保市は重要文化財の指定を受ければ国も保保存費用を分担することになるため、保存方法を模索していいるとのことです。長崎県教育委員会は98年にまとめた『長崎県の近代化遺産』で、針尾無線塔について「当時の鉄筋コンクリート構造物建設の最高技術を伝える日本でも貴重な構造物」としています。また04年3月の定例会でも重要文化財などの指定について議論されています。「文化財の指定については、対象は主として明治期までである。ただ国も明治期以降については調査を始めている状況にあるので、動向を見極めながら情報提供に努めていきたい。」

 この無線塔は、1941年12月2日、広島湾上の連合艦隊旗艦「長門」の司令部から発信された真珠湾奇襲攻撃の日時を定めた暗号文「新高山登レ 1208」を洋上展開中の日本艦艇に打電したと言われています。ただこれには諸説があります。実際に真珠湾攻撃部隊に打電したのは海軍省構内にあった東京通信隊で、送信はその管制下の行田無線塔(千葉県船橋市)から3つの短波で、依佐美無線塔(愛知県刈谷市)から1つの超長波で行われたことは事実のようです。それが「長門」からの打電を中継して行なったのか、もともと複数のルートがあったのか、逆に東京通信隊のルートを針尾無線塔が中継したのか。

 ことの真相は定かではないようですが、歴史的には戦争を語り継ぐ貴重な遺跡であることにかわりはありません。なんとか保存させたいものです。