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原告松谷英子さんは、10年間の支援へのお礼を述べ、「厚生省は、間違っていると二度も裁判所から指摘されたのに反省するどころか、戦争の被害は国民は我慢するのが当たり前だ、と開き直って上告したのです。これこそ厚生省の本音だと思いました。だからこそ絶対に負けられないと思ったのです。戦争の被害は我慢するのが当たり前だ、という考えが大手を振ってまかり通るような世の中になったら大変だからです。これから何年かかるかわかりませんが、私は決してくじけません。最後の勝利をめざしてがんばります。」と力強く決意を語りました。
9月25日、朝8時過ぎより1時間半、最高裁西門前でネットワーク団体の約20名でチラシ配布しました。松谷さんもマイクを握って「私の体ももう限界です。1日も早く上告を棄却してください。」と訴えました。
このあと10時より書記官要請と署名提出を行ないました。人数が17名と制限されているため、各団体の一代表が参加して「地裁、高裁で原爆症と認めなさいという判決が出たのに、どうして厚生省は認めようとしないのか。早く上告を棄却してください。」「いくら最高裁でまた良い判決をもらうことになっても、被爆者は高齢化しているのだから何年もかかるのでは困る。」など強く要請しました。そして署名と上申書を提出しました。この日の提出は個人署名4万1千筆で累計8万7千筆となりました。
11時からは東京高裁にある記者団室にて司法担当者に松谷さんとネットワーク団体で会見を行ないました。松谷裁判のこれまでの経過と意義について説明し、裁判への理解と支援を訴えました。
東京神宮外苑の日本青年館で午後2時より4時半まで「松谷裁判10周年のつどい」が開催され、80人が参加しました。
はじめに日本生協連の鏡良美組合員活動部長が「裁判10年のつどいをバネに、最高裁での勝利へ」と開会の挨拶を行いました。
松谷さんは長崎地裁に提訴してから10年を振り返り、支えてくれたお母さんのこと、被爆者をはじめとする全国の人々と分かち合った地裁、高裁の勝利判決を述べ、「厚生省はひどすぎます。戦争被害は我慢するのがあたりまえということがまかり通ってはたまりません。最高裁で勝利する日までがんばります。」と力強く決意を述べ、大きな拍手に包まれました。
中村尚達弁護団事務局長は「松谷裁判10年の歩み」と題して、裁判の歩みと争点をわかりやすく講演しました。
報告に立った日本被団協の小西悟事務局次長は「この裁判は核兵器と被爆者行政に対する政府の姿勢を変えさせるたたかいです。」と述べました。
そのあと、笑劇「マッチャ裁判一国をさばくか最高裁一」では、大魔王のアメリカニウス、そのいいなりになってご機嫌を取る魔女のジャポニヤとその子分のコウセイショウヤなどが登場すると会場は爆笑の渦となりました。
「各地の取り組み」では東京や神奈川、千葉、埼玉から参加した人々やネットワークの団体から署名に積極的に取り組んでいる報告や関東圏での責任を果たそうなど活発な意見が出され熱気あふれる集会となりました。
この9月、原爆や戦争のことを俳句に託し語り継いでいこうと開かれている第32回原爆忌全国俳句大会に招かれ、会場である京都立命館大学・平和ミュージアムに行ってきました。
俳句大会に先立ち5日の夕方から平和ミュージアム近くの末川記念会館にて「松谷英子さんと語るつどい」が開かれました。このつどいには京都の被爆者友の会の皆さん、京都訴訟原告Aさん、弁護団の尾藤弁護士、新婦人の皆さん、府生協連、原水協の皆さん、立命館大学教職組の皆さんら25名の参加がありました。
立命館大学教職組の皆さんは今年の世界大会に参加したメンバーを中心に集めた117筆の署名を、また新婦人の皆さんからも署名と寄せ書きを頂きました。松谷さんの切々とした訴えに目頭を押さえる方も多く、皆さん、直接松谷さんに接し松谷さんの人柄に触れ裁判を理解し、さらに大きく支援する気持ちになったと感想を話されました。
6日の『俳句大会』は関西各方面から約100名の参加がありました。献句のあと松谷さんが被爆体験を語り、支援する会から牧山次長が訴え、安斎先生がまとめをするという形で講演をしました。大会終了後「最高裁での勝利を心よりお祈りしています。」と数名の方が入会、励まして頂きました。
夜は「下京平和まつり」に呼ばれ支援の訴えをしました。署名コーナーに松谷訴訟支 援する会の署名用紙やカンパ箱がおかれており、その日一日で集められた署名や募金が 早速松谷さんに手渡されました。