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決意新たに提訴10周年の集い


 松谷英子さんが、厚生大臣を被告とする訴状を長崎地裁へ提出したのは、1998年9月26日。それからちょうど10年にあたる、ことし9月26日、「松谷訴訟提訴10周年、最高裁での勝利をめざすつどい」が開かれました。
 冒頭の挨拶に立った弁護団長の横山茂樹弁護士は、10年を経過してもなお決着を見ない現実にふれ、「厚生省の責任であることは明らかであると同時に、厚生省の被爆者切り捨て政策にきちんと対応できない司法のあり方にも問題がある。」と指摘しました。そして「裁判官に面接することもできない閉鎖的な最高裁だけに、これからのたたかいでは、問題の重要性を裁判官ひとり一人に十分認識させるとりくみが大切だ。」と強調して、弁護団の決意を表明しました。
 ついで、立命館大学・国際平和ミュージアム館長の安斎育郎教授が「核をめぐる情勢と松谷訴訟」のテーマで次のような特別報告を行い、裁判の意義を明らかにしました。
 ことし6月17日の参議院で大森内閣法制局長が「核兵器の使用も、自衛のための最小限度のものなら許される」と答弁したことに明らかなように、日米核安保体制の呪縛(じゅばく)のもとに日本は核兵器保有国も同然の核兵器政策をとっている。
 「核抑止力論」に立ち、日本が核兵器の恩恵に浴していると考えている日本政府だから、核兵器の使用が非人道的だとか、被爆者を手厚く保護するなどとかを考えるはずがない。まして爆心地から2キロ以上も離れた所で被爆した松谷さんの障害を原爆症と認定するなど必要もないことだ。それどころかそんなことをしたら原爆が使われたことについて政府が非を認めるようなものだから、屁理屈を立ててでも松谷さんの障害は原爆と関係がないと言い張るのだ。
 だからこそ、松谷訴訟に勝利し、松谷さんの障害が原爆によるものだということを認めさせ、国の責任を明確にすることは、日本政府の核兵器政策を転換させる契機となりうる。

 原告松谷英子さんは、10年間の支援へのお礼を述べ、「厚生省は、間違っていると二度も裁判所から指摘されたのに反省するどころか、戦争の被害は国民は我慢するのが当たり前だ、と開き直って上告したのです。これこそ厚生省の本音だと思いました。だからこそ絶対に負けられないと思ったのです。戦争の被害は我慢するのが当たり前だ、という考えが大手を振ってまかり通るような世の中になったら大変だからです。これから何年かかるかわかりませんが、私は決してくじけません。最後の勝利をめざしてがんばります。」と力強く決意を語りました。


松谷さん、最高裁の門をくぐる


 9月25日、朝8時過ぎより1時間半、最高裁西門前でネットワーク団体の約20名でチラシ配布しました。松谷さんもマイクを握って「私の体ももう限界です。1日も早く上告を棄却してください。」と訴えました。
 このあと10時より書記官要請と署名提出を行ないました。人数が17名と制限されているため、各団体の一代表が参加して「地裁、高裁で原爆症と認めなさいという判決が出たのに、どうして厚生省は認めようとしないのか。早く上告を棄却してください。」「いくら最高裁でまた良い判決をもらうことになっても、被爆者は高齢化しているのだから何年もかかるのでは困る。」など強く要請しました。そして署名と上申書を提出しました。この日の提出は個人署名4万1千筆で累計8万7千筆となりました。
 11時からは東京高裁にある記者団室にて司法担当者に松谷さんとネットワーク団体で会見を行ないました。松谷裁判のこれまでの経過と意義について説明し、裁判への理解と支援を訴えました。

 東京神宮外苑の日本青年館で午後2時より4時半まで「松谷裁判10周年のつどい」が開催され、80人が参加しました。
 はじめに日本生協連の鏡良美組合員活動部長が「裁判10年のつどいをバネに、最高裁での勝利へ」と開会の挨拶を行いました。
 松谷さんは長崎地裁に提訴してから10年を振り返り、支えてくれたお母さんのこと、被爆者をはじめとする全国の人々と分かち合った地裁、高裁の勝利判決を述べ、「厚生省はひどすぎます。戦争被害は我慢するのがあたりまえということがまかり通ってはたまりません。最高裁で勝利する日までがんばります。」と力強く決意を述べ、大きな拍手に包まれました。
 中村尚達弁護団事務局長は「松谷裁判10年の歩み」と題して、裁判の歩みと争点をわかりやすく講演しました。
 報告に立った日本被団協の小西悟事務局次長は「この裁判は核兵器と被爆者行政に対する政府の姿勢を変えさせるたたかいです。」と述べました。
 そのあと、笑劇「マッチャ裁判一国をさばくか最高裁一」では、大魔王のアメリカニウス、そのいいなりになってご機嫌を取る魔女のジャポニヤとその子分のコウセイショウヤなどが登場すると会場は爆笑の渦となりました。
「各地の取り組み」では東京や神奈川、千葉、埼玉から参加した人々やネットワークの団体から署名に積極的に取り組んでいる報告や関東圏での責任を果たそうなど活発な意見が出され熱気あふれる集会となりました。


98長崎県母親大会


 9月23日、秋晴れの一日、長崎大学経済学部キャンパスにおいて600人の参加者を迎えて「98長崎県母親大会」が開催されました。実行委員会参加団体として、支援する会事務局も運営に協力、参加しました。
 午前中は「平和に生きる」分科会(22名参加)の運営を担当。新ガイドラインのもとで米軍や自衛隊基地が強化・拡大されている県内の実態が交流されました。松谷訴訟での国の姿勢にも現れているように、戦争被害への反省のない国は、被爆者はじめ戦争被害者への国家補償を拒否する一方で、「在日米軍家族への冷暖房費まで思いやり予算で出している」、「『周辺事態』が起こったら大村市民病院へ負傷者を運ぶ計画が想定されている」など、次々に報告され、それぞれの運動の強めて、アメリカの「核の傘」に頼った日本の「平和政策」の転換を求めていこうと討論が深められました。
 午後からは、うたごえの合唱、いもづる団の平和コントが拍手喝采を浴び、「人として平和に生きる」と題して増田れい子さんの記念講演が行われました。
 来崎した増田れい子さんからは「松谷英子さんは原爆の生き証人です」とメッセージを寄せて頂き、次回リーフの支援者に名前を出す約束をして頂きました。


久保山愛吉氏追悼のつどい


 「久保山愛吉氏追悼のつどい」に参加する為、9月22日、近畿地方を縦断する台風7号を飛び越え東京経由で予定の時間を大幅に遅れて静岡入りしました。強風の為、飛行機は大揺れ、新幹線は大混乱。お迎えの皆さんをお待たせしました。当日の23日も台風の余波の為か、小雨模様。焼津駅前から松谷さんは安斎先生に車イスを押してもらい、菩提寺の弘徳院まで献花墓参行進をしました。松谷さんも参加者とともに墓前に手を合わせ平和を誓いました。
 午後からは追悼のつどいが焼津市内の会場で開かれ、静岡県内の平和、反核を願う方々、約200名が参加しました。松谷さんは自らの被爆体験を語り、核兵器の被害は私たちを最後にと訴えました。またこのつどいには松谷弁護団の内藤弁護士も参加し「松谷訴訟からビキニ水爆被災者への援護について考える」と問題提起しました。

松谷さん、京都へ


 この9月、原爆や戦争のことを俳句に託し語り継いでいこうと開かれている第32回原爆忌全国俳句大会に招かれ、会場である京都立命館大学・平和ミュージアムに行ってきました。
 俳句大会に先立ち5日の夕方から平和ミュージアム近くの末川記念会館にて「松谷英子さんと語るつどい」が開かれました。このつどいには京都の被爆者友の会の皆さん、京都訴訟原告Aさん、弁護団の尾藤弁護士、新婦人の皆さん、府生協連、原水協の皆さん、立命館大学教職組の皆さんら25名の参加がありました。
 立命館大学教職組の皆さんは今年の世界大会に参加したメンバーを中心に集めた117筆の署名を、また新婦人の皆さんからも署名と寄せ書きを頂きました。松谷さんの切々とした訴えに目頭を押さえる方も多く、皆さん、直接松谷さんに接し松谷さんの人柄に触れ裁判を理解し、さらに大きく支援する気持ちになったと感想を話されました。
 6日の『俳句大会』は関西各方面から約100名の参加がありました。献句のあと松谷さんが被爆体験を語り、支援する会から牧山次長が訴え、安斎先生がまとめをするという形で講演をしました。大会終了後「最高裁での勝利を心よりお祈りしています。」と数名の方が入会、励まして頂きました。
 夜は「下京平和まつり」に呼ばれ支援の訴えをしました。署名コーナーに松谷訴訟支 援する会の署名用紙やカンパ箱がおかれており、その日一日で集められた署名や募金が 早速松谷さんに手渡されました。


署名用紙はここをクリック


不当な厚生省の上告に対し、怒りをもって抗議し、ファックスまたは葉書で上告取り下げを要求しましょう。
宛先: 厚生大臣 宮下創平
    東京都千代田区霞ヶ関1-2-2
      03(3502)3090


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