相浦駐屯地 | 陸上自衛隊:佐世保市大潟町 |
土地927,162m2: 建物50,481m2 |
【前史】
戦前、相浦には旧海軍第二海兵団がおかれていたが、戦後は連合軍に接収され、主に陸軍が使用していた。朝鮮戦争の際には米軍の集結地、訓練地となっていたが、休戦後は米兵の数も激減し、1955年に返還された。同年、針尾駐屯地にあった第8新隊員教育隊が移駐して相浦駐屯地が発足した。その後、通信関係実戦部隊が熊本県の健軍駐屯地に移駐、福岡駐屯地から第5陸曹教育隊が移駐、69年に別府から第3教育団本部が移駐、71年に車両教育隊、72年に上級陸曹教育隊も編成となり、全九州の陸上自衛隊の教育部隊の中心となった。
相浦駐屯地の全景
陸上自衛隊相浦駐屯地には西部方面隊混声団(第118教育隊、車両教育隊、第5陸曹教育隊)がおかれている。この部隊は新隊員、車両、陸曹等の教育部隊で、年間約3,000名が九州・沖縄から教育入隊する。また針尾島には相浦早岐基本射撃場を有し、年間70日ほど小火器射撃訓練を行っている。
第3教育団本部
【西部方面普通科連隊の創設】
2002年3月に西部方面総監直轄の西部方面普通科連隊が創設された。定員は660人で通常の普通科連隊(約1,000人)に比べてコンパクト化されている。これは国境をにらんだ有事即応部隊でヘリコプターでの移動を念頭に小銃や迫撃砲など軽装備での機動力を特徴としている。半数がレンジャー資格(山中での生存自活能力や対ゲリラ作戦などを中心とする過酷な教程修了者)を持ち、全員がヘリコプターからロープ1本で降下するリペリングができるという。03年6月には5階建の専用隊舎や倉庫、2基のレンジャー訓練塔(高さ15mと7m)が完成した。
「生存型自立訓練」や橋頭堡を確保して本隊を待つという任務、どの部隊とも合流するなど、“海兵隊”的性格が明らかなっている。部隊創設後4ヶ月で3人の自殺者を出すなど、その訓練内容も問題視されている。訓練の模様の一部はテレビでも報道されたが、プール内での訓練については非公開だった。
陸自内での組織再編にともなって03年3月、第301普通科直接支援隊が新編となった。これは火器・車両・誘導武器・施設機材・通信電気機材の整備を担当し、物的戦闘力の維持向上を任務とする普通科連隊の直接支援部隊である。
西部方面普通科連隊の隊舎
訓練用レンジャー塔
訓練用の室内プール
発足後、普通科連隊は市街地で軍事パレードを始め、その内容が年々エスカレートしている。当初は「過激すぎる」との批判を受けて、武器は携行せずに迷彩服のままアーケード街をパレード。03年は「自衛隊の普通の姿を見てもらいたい」と、佐世保では初めて武器を携行してのパレード。時間はわずか10分間だが国道の一部を通行止めにした。04年はさらに海上自衛隊の音楽隊を先導させた。05年は再び、アーケードで、しかもマシンガンのような「小銃」と機関拳銃を携行して行なった。実弾は入れてはいないというが、市民への配慮もかなぐり捨ててしまった。佐世保市も「市民の理解も広がっている」とアーケード内に部隊の観閲台設置を許可するにいたった。
普通科連隊は06年からは渡米して米海兵隊から直接、強襲揚陸の手ほどきをうけている。また海の日米共同訓練の一環として行われた硫黄島周辺での「尖閣列島有事」を想定した訓練では、佐世保から海自輸送艦で移動して実戦的な訓練を行っている。
また米軍のイラク戦争支援のために第7次群として西部方面普通科連隊を中心に相浦駐屯地からは32人が、警備を任務として派兵された。続く第8次群でも数名が派兵された。
【水陸機動団の創設】
現在、この部隊を中軸にして水陸機動団(日本版海兵隊;2,100人)の編成作業が進められている。相浦駐屯地には司令部と2つの水陸機動連隊など(約1,700人)が置かれる。
13年3月、相浦駐屯地に西部方面混成団が発足した。九州・沖縄の新隊員、車両、陸曹等の教育を担当する相浦の第3教育団と福岡駐屯地の第19普通科連隊を統合し、有事や災害などの際に任務に就く即応予備自衛官を一元的に管理・教育するというもの。だが水陸機動団発足に伴い、16年3月に車両教育隊が大村の竹松駐屯地に移駐し、残りは18年3月までに福岡県久留米駐屯地に移駐する。