夏の嵐 3 采子がコンビニで聞いたとおり、山道を十分ほど登ったところに、目的のホテルはあった。 高い木々に隠れるようにして建つ三階建てのホテルには、山奥に似つかわしくない派手なネオンと、料金の書かれた大きな看板が設置されている。設備から考えて、観光用でないことは明らかだった。 駐車場入り口の少し手前で車を停めた吾妻は、あからさまに強張った表情で采子を見つめた。 「三浦さん。いくらなんでもここはまずいです」 「……でも、ホテルでしょ。ほら、ちゃんと温泉つきって書いてあるし」 雨に濡れているせいで読みにくいが、看板には確かに「天然温泉の出るお部屋で、あまーいひとときを」と書いてあった。 落ち着き払った采子を、吾妻がじとりと睨む。 「最初から知っていたんですか? ここがラブホだって……」 「うん。コンビニの店員さんから聞いた。この辺で泊まれるところって、ここしかないんだって。中は意外に綺麗で良いって言ってたわよ」 今さら誤魔化しようがないので、采子は素直に答えた。 「あのねえ、そういうことじゃないでしょう!」 イライラした様子の吾妻を、横目で見やる。暗がりでもわかるほどくっきりと刻まれた眉間の皺に、胸の奥が鋭く痛んだ。 「誘っているわけじゃないから安心して。聞いた話だとツインの部屋もあるらしいし、もしそこが空いてなかったら、私はソファで寝るから。同じ部屋にいるのがダメって言うなら、入ったあとに私だけ車に戻っても構わないし……鍵を貸してくれるなら、だけど」 ここに至るまでに考えておいた、いくつかのパターンを挙げると、吾妻はハンドルに腕を乗せて、大きく溜息をついた。 「だから、そんなことじゃなくて。俺が変な気を起こしたら、どうするのかって聞いているんです」 吾妻の言葉に心臓が跳ねる。男というのは、好きじゃない相手でも抱けると聞いたことはあるが、彼もそうなのだろうか。 つい想像してしまった可能性に胸を震わせた采子は、一際強く吹き抜けた風の音にハッとした。 「さすがにそれはありえないでしょ。私、プライベート最悪だしー」 さっきの吾妻の言葉を引き合いに出して、采子はわざと明るく、ふざけた調子で言った。一瞬でも期待したのは、傷心中の人恋しさからだろうと思い込んだ。 ハンドルに身体を寄りかからせた吾妻は、もう一度、深く息を吐いた。 「……そう、ですね」 冷たい彼の声に、采子はビクッと肩を揺らした。 なんとなく怒気を孕んでいるような気がする。もしかして、考えていたことに気づかれたのかもしれない。 吾妻にすれば、こんなにだらしない女と関係を持つなど冗談ではないだろう。僅かでもそうなることを想像した采子は、自分を恥じた。 (これじゃ、まるで私……吾妻くんのことを……) 湧き上がる感情に、采子は慌てて蓋をした。ただでさえ迷惑をかけているのに、これ以上の負担にはなりたくない。たとえ自分に嘘をつくことになっても……。 雨の中を、ゆるゆると車が動き出す。 やがて駐車場のゲートをくぐり抜けても、互いに何も言わなかった。 ホテルは空室だらけだった。幸いと言っていいのかわからないが、こんな天気の日に山奥のラブホへ来る客などいないのだろう。 一番それっぽくないツインの部屋を選んだ二人は、ぎこちない態度のまま交代で風呂に入った。 ここの売りだという天然温泉は名に違わず良質で、大浴場でも露天でもない普通のバスルームなのに、一気に疲れが吹き飛んだ。 つい長風呂をしてしまった采子は、寝心地が悪いことを覚悟して下着をつけると、薄く化粧をして部屋に戻った。 間接照明だけの薄暗い部屋の真ん中には、セミダブルのベッドが二台並んでいた。壁際には大きめのテレビ。曇りガラスの小窓の前には、ちょっと古い感じの応接セットが置いてある。 圧倒的に灯りが足りないことを除けば、普通のビジネスホテルと変わりなかった。 先に風呂を済ませていた吾妻は、ホテルに備えつけの浴衣姿で応接椅子に座り、携帯を弄っていた。采子が上がったのに気づいた彼は顔を上げ、まぶしそうに目を細めた。 「あれ……吾妻くん、眼鏡は?」 風呂上がりの上気した吾妻の顔には、トレードマークとも言える眼鏡がなかった。 一瞬きょとんとした吾妻は、自分の目頭に指を当ててから、小さく「ああ」と呟いた。 「仕事と車を運転する時以外は、眼鏡を外しているんです」 「あ……そうなんだ」 「はい。着けたままだと、なんとなく疲れる感じがして」 また一つ、彼のプライベートを知ってしまった采子は、密かにうろたえる。さっき気づいたかすかな想いが、急速に膨れ上がるのを感じた。 采子は赤くなっているだろう自分の顔を見られないように、ドアの脇の冷蔵庫を覗く。中には定番の銘柄のビールと発泡酒、カップ酒。懐かしいパッケージの缶ジュースに、筒形のケース入りのナッツがあった。 「吾妻くんも何か飲む? 奢るよ」 「あ、じゃあ、三浦さんと同じものを。お金は割り勘でお願いします」 こんなところでもきっちりしている吾妻に苦笑した采子は、ナッツと缶ビールを二本抜き出して窓際へ移動した。 「素直に奢られておけば良いのに。私のせいなんだから」 「それとこれとは別ですし、三浦さんのせいだとも思ってませんよ」 ごく真面目に言いきった吾妻は、運んできたことに対する礼を口にして、ビールを受け取った。 吾妻の向かい側に座った采子はプルタブを引き上げ、缶を少し持ち上げた。それを見た彼も同じように手の中の缶をかざす。巻き込んでおいて図々しいとは思うが、乾杯の真似事のつもりだった。 いつから冷蔵庫に入れられていたのか、少し冷えすぎのビールは湯上りの身体に沁みる。多めに煽って溜息をついた采子は、出掛けにこんなシーンを想像していたと思い出した。 (高原のペンションのテラスで生ビールを飲むつもりだったのに、結局、山奥のラブホで缶ビールとはね……) 全て自分の責任とわかっていても情けない。 一人脱力した采子は、優雅なバカンスを楽しむ自分をもう一度脳裏に描き、そこで忘れていた疑問にぶつかった。 そう、采子はペンションに泊まるつもりだった。それなのに何故、吾妻は駅へ迎えに来たのだろう? いや、そもそも旅行先を教えていないのに、どうしてあそこに現れたのだろう? 距離から考えてもすぐに来られるような場所ではないし、今現在、出張を要するような仕事がない以上、偶然近くにいたとも考えにくい。 ハプニング続きで動転し、最初に聞くべきだった問いが頭から抜け落ちていた。采子はおもむろに顔を上げ、吾妻を見つめた。 「ねえ、今さらなんだけど、どうしてあの駅に私がいるって知ってたの?」 きゅっと眉を上げた吾妻は、驚き混じりの呆れ顔をした。 「……本当に今さらですね」 「だって、色々あって聞き忘れていたし。私あそこへ旅行にいくって教えていた?」 もしかして伝えたことを忘れたのだろうか? まさかと思いつつ深読みする采子に向け、彼は首を横に振った。 「いや、直接は聞いていません。三浦さんのデスクに旅行雑誌が広げてあって、そこのペンションに丸がつけてあったのを覚えていたんです」 「ああ、なるほど。でも、よくそんなの覚えていたわね」 吾妻の記憶力に感心しながらも、無駄とも言える情報まで覚えていることに少し呆れる。 「あの雑誌、誰かが休憩室に置いてそのままになっているやつでしょう? 三浦さんが本屋に行く手間か、自分で調べる手間を惜しんだんだなってバレバレでしたから」 確かに采子がペンションを探した雑誌は、だいぶ前から会社の休憩室に放置されていたものだ。 傷心旅行へいくと啖呵をきった手前、出かけなければならないが、ただ一度の旅行のために雑誌を買うのは勿体ないし、ネットでいちいち好みに合う場所を検索するのも面倒だった。 すっかり行動が読まれていることに、采子は居心地の悪さを覚えた。 「わ、悪かったわね。……それにしても、なんで迎えに来たの? もしかしたら雨が降る前にペンションに着いていたかもしれないじゃない」 いくら台風が近づいていたとはいえ、先にペンションへ到着してさえいれば、数日閉じ篭もるはめになるだけで、なんの問題もなかったはずだ。 采子の問いに、吾妻は頬杖をつき短く息を吐いた。 「着いていても同じことですよ。三浦さんが見ていた雑誌は三年前のもので、あのペンションは去年閉鎖されています」 「え、本当に……?」 「飛び込み歓迎だからって、まさか予約をしないで行くとは思いませんでしたよ」 「う……」 言い返す言葉もなく、采子はうなだれた。 「台風も近づいているし、旅行は止めて休暇を家で過ごすんだろうと勝手に考えていたんですけど、今朝起きて妙に不安になったんです。で、携帯も繋がらないから、出勤途中に三浦さんのアパートへ行ってみれば、もういないし」 「え、ウチに来たの!?」 「行きましたよ。ちょうど大家さんが出てきたんで聞いたら、三浦さんは朝早く大きなバッグ持って出かけたって言われて……」 「見られてたわけね」 アパートの隣家に住む大家を思い出した采子は、思いきり顔をしかめた。近所だから見られてもおかしくはないし、見るなとも言わないが、個人情報を簡単に教えるのはいかがなものか。 「それで一度、自分の家に帰って車で追いかけたんですよ。無駄足になれば良いと思いながらね。途中で会社に連絡をしてみたら、三浦さんが駅で立ち往生してるって聞けたんで、そうはならなかったですけど」 采子が昼休みに会社へ電話をしたあと、吾妻が連絡を入れたのだろう。 全ての疑問の答えがわかり納得はできたものの、彼がそこまでしてくれたことに申し訳なくなり、采子はますます縮こまった。 「……本当にごめんなさい」 「だから、いいですって。元は俺が余計なことを言ったせいだし」 「それを言ったら、だらしない私が悪いんじゃない?」 「いや、それも俺の勝手なおせっかいというか。本当は口出しすることじゃないですし」 どちらにどれだけ非があるのかという水掛け論じみた会話を続けるうち、采子はふと新たな疑問を覚えた。 吾妻ははっきり言って重箱の隅を突くような細かい男だが、デリカシーがないわけではない。空気も読めるし、立場をわきまえず何にでも口を出すということもない。それなのに何故、采子の私生活にだけ忠告をしてくるのだろう。 「ねえ、吾妻くんってなんで私に色々言うの?」 「はい?」 「普段の生活のこととか、男のこととか」 「……」 ぐっと言葉に詰まった吾妻は、気まずそうに視線をそらした。 「あ、責めてるんじゃなくてね。そりゃ言われた時はむかついたけど、今は感謝してるの。でもまあ、確かに生活ひどかったもんねえ」 これまでの生活態度を思い返した采子は、苦笑いをした。 正直なところ、吾妻の目にあまるほどひどかった自覚はある。他人の私生活に口出しするのは良くないと理解していても、まめな彼には黙ってはいられなかったのかもしれない。 黙ってしまった吾妻を覗き込んだ采子は、座ったまま深く頭を下げた。 「ありがとう。心配してくれたことも、来てくれたことも」 「……て、下さい」 かすれたささやきが耳に届く。はっきりと聞き取れなかった采子は顔を上げた。 「え、なに?」 「やめて下さい……そういうんじゃないから」 言われた意味がわからず、采子は目をまたたかせた。 はっきりと顔を背けた吾妻は、口に手の甲をつけ、苦しそうに眉を寄せていた。 「どういう意味?」 「……後戻り、できなくなりますよ」 いつもより低い声に息を呑む。 彼の言わんとしていることは理解できないが、本能的にまずいと悟った。 無意識に腰を浮かした采子は、何が恐ろしいのかもわからないのに、ただ逃げなければいけないと感じていた。 2 ← → 4 |