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 夏の嵐

 4

 密室に二人きり。目をそらしたままの吾妻と、何も言えず彼を見つめる自分。このままではいけないとわかっていても、采子は驚きと緊張で動けずにいた。
 二人の間に男女の色が滲む。間近で対峙するのが良くないことはわかっていた。しかし、あからさまに拒絶して、ぎこちなくなるのは避けたかった。
 これまでの態度から見て、全く性格の合わない吾妻が、自分に好意を寄せているとは考えにくい。この場所と雰囲気に流されているだけだと判断した采子は、気まずくならないように回避する方法を探した。
 采子はそっと視線を外し、静かに身を引く。
 細かいところに気がつく彼なら、消極的な態度を見せることで、何も言わずとも理解してくれるだろう。
 ほんの数十センチだが、吾妻から離れたことにほっとする。無意識に肩の力を抜いた采子は、次の瞬間、身を乗り出した彼に手を取られた。
「えっ、あ、吾妻くん……?」
 痛いと感じるほど強く采子の手を握った吾妻は、うつむいたまま自嘲気味に口の端を上げた。
「すみません、白々しいことを言いました……後戻りなんて、最初からできないのに」
 反射的にぶるりと震える。鼓動が激しさを増すのと共に、背中を怖気が駆け上がった。
 椅子から引き上げられ、そのままベッドの方向に押された。着慣れない浴衣に足を取られた采子は、横向きに倒れこんだ。
 柔らかいスプリングのせいで、身体が跳ねる。纏わりつく浴衣に四苦八苦しているうちに、上からうつ伏せに押さえつけられた。
「うそ、ちょっと!? 吾妻くん!」
 両手首が押さえられているのを確認した采子は驚き、声を上げた。彼が馬乗りになっていることは、見えなくても気配と息遣いでわかった。
 ぐっと両手に重さがかかる。前のめりに身体を倒した吾妻は、采子のうなじに顔を寄せた。
「……いい香りがしますね」
 熱っぽい彼の声音に身体の奥が震えた。
「や、めて。離して。……吾妻くん、酔ってるの?」
「全然。俺がザルだってことは、三浦さんなら知っているでしょう」
 低く笑う声に併せて、柔らかいものが首のうしろに触れる。口づけられていると気づいた采子は声を殺し、ぎゅっと目をつぶった。
「っ!」
 まるで形を確かめるように、彼の唇が首筋を上から下へ辿る。触れられた場所から広がる甘さに、采子は全身が痺れているような錯覚を覚えた。
「このまま抱いたら、振り向いてくれますか?」
 独り言のように、ぽつりとこぼれた呟き。
 言葉の意味に驚き振り返った瞬間、待ち構えていた吾妻に唇を奪われた。
 重なる温もりに目を見開く。キスされているのだと認識した采子は、思いきり顔を背け枕に押しつけた。
「な、なんでっ!?」
 枕に顔を埋めたまま叫ぶ。キスをするのが初めてというわけでもないのに、何故か心が痛んだ。
 背中に密やかな吐息を感じる。
「……好きだから、三浦さんのことが」
「そんなの、嘘」
 心に溢れた喜びを采子は慌てて否定した。
「どうして嘘だと思うんです?」
「だって私……いいかげんだし、面倒くさがりだし。吾妻くん、それでいつもイライラしてるじゃないの」
 まさに身から出た錆なのだが、愛される要素が全くないことに落ち込む。あんなに迷惑をかけた自分を、彼が愛してくれているとは到底思えなかった。
 采子の言い方が可笑しかったのか、吾妻はふっと笑い、押さえつけていた手をそっと除けた。
「確かに最初は苦手でした。仕事中はきちんとしているのに、他がだらしない。頑固で生活を変えようとしないし、次々と男を変えて危なっかしいし」
「……」
 吾妻の指摘に返す言葉もない。ますます落ち込んだ采子は、せめて傷ついた顔を見せまいと、うつ伏せたまま動かなかった。
「放って置けば良いのに、目が離せなくて。それで何かの時に少し助けたら、凄く良い笑顔でお礼を言われて……そこで夢見てしまったんです。ずっと俺の隣にいれば良いのにって、そうしたらいつでも助けてあげられるのにって……」
 話すうちに想いが抑えきれなくなったのか、吾妻は再び采子の首元に唇を押し当てた。
「あっ」
 予想外の話と与えられる感覚に采子は仰け反り、頬を染めた。
「でも、言えませんでした。三浦さんからすれば、俺はただの口煩い奴だったし。告白して気まずくなるのが怖かった」
「吾妻くん」
「……三浦さんがここに泊まろうって言ったのは、ただ俺に悪いと思っただけ? それとも、少しは期待していいんですか?」
 うるさく感じるほど強く心臓が鳴っている。彼の触れた場所が、炙られたように熱を持つ。
 采子は目をつぶり、ここに来ると決めた時の気持ちを思い出そうとした。初めて気づいた吾妻の思い遣りに心を動かされたのは事実。しかし……。
「よくわからない……」
「わからない?」
「吾妻くんが私のことを想ってくれていたのは凄く嬉しいよ。でも本当にさっきまで何も気づいてなくて、ちょっと面倒くさい人だと思っていた。失礼なこともいっぱい言った気がするし……それなのにいいのかな、簡単すぎない? あと同じ職場でこういうことになるのも不安だし」
 心の中にある素直な気持ちを口にする。本気の想いを向けてくれた吾妻に対して、適当に取り繕ったような返事はしたくなかった。
「職場恋愛なんて、よくあることでしょう。それに、難しいことを考えるのは三浦さんの性に合わないから、簡単でいいんですよ」
 くすくすと笑う吾妻に、采子はムッとした。
「それ、どういう……」
「俺はあなたのダメなところも全部知っていて、好きだと言っているんです。都合が良くて、お得でしょう」
「そんなことでいいの?」
「俺がいいって言っているんだから、いいんです」
 本当にいいのだろうかと采子はもう一度、逡巡した。
 吾妻は細かくてうるさいこともあるが、面倒見の良い人らしいし、見た目も好みの範疇だ。それに采子のありのままを知っていてなお好きだと言ってくれる。
 一緒にいたら安心できそうだし、今すぐにほだされることはなくても、好きになれると思う。むしろ、もう好きになりかかっている。
 だが采子にとって好都合だと知れば知るほど、彼に申し訳ない気がしてきた。
 それなら生活態度を改めれば良いのだろうが、簡単に変えられないことは自分が一番よくわかっていた。
 采子がはっきりした答えを出すより早く、吾妻は采子の浴衣の襟を広げ肩を露わにする。そこへ直に口をつけると、肩胛骨の上に唇を滑らせ、背中の真ん中を吸い上げた。
 皮膚の攣れるような覚えのある痛みに、采子は身を固くする。
「あ、ん……ちょっと……っ」
「印、つけちゃいました」
 悪いなんて露ほども思っていないらしい吾妻の言葉に、采子は肩の力を抜いた。
「……もう」
 抵抗しない采子に気を良くしたのか、吾妻の手が性急に動き出す。解けかかっていた浴衣の帯紐を取り去ると、裾を大きくめくり上げた。
 エアコンの風が触れたことで、足どころか脇腹までさらされていると気づいた。
「ふうん。結構、可愛いのを着けているんですね……あ、お揃いなんだ」
 浴衣に隠された上半身を覗いた吾妻が、采子のブラとショーツを見比べ、感慨深げに呟く。
「み、見ないでよっ。ていうか電気を消して」
 手が自由になったとはいえ、上から覆いかぶさるように跨がれていては動けない。羞恥に苛まれた采子は、吾妻の腕の中で身じろぎした。
「んー……俺のこと、下の名前で呼んでくれたら消してもいいですよ」
「えっ!?」
「ああ、俺も名前で呼びますから……ね、采子さん?」
 吾妻は采子の耳たぶに舌を這わせ、語尾にハートがつきそうな甘い調子で名を呼んだ。
 耳へ流れ込む声と吐息に、くらくらする。直接、頭の中を撫でられているように感じて、采子はぶるっと震えた。
「采子さんも言って?」
「や……む、無理」
 彼の下の名を知らないわけはないし、呼び方を変えるなんて簡単なことだと頭では理解している。しかし、それだけのことが恥ずかしい。
 そんな采子の思いなどお見通しなのか、それともどちらでもいいのか、吾妻は耳に口づけたまま喉の奥で低く笑った。
「じゃ、灯りはそのままで」
 楽しそうな吾妻に文句を言う間もなく、ブラのホックが外された。すかさず膨らみと下着の間に彼の指が入り込む。無意識に自分の重さで吾妻の手を潰してしまうと判断した采子は、肘を使って身体を浮かせた。
 結果、楽に手を動かせるようになった吾妻は、掬い上げるようにして膨らみ全体を包み込んだ。
「……触りやすい」
 どこかからかうような吾妻のささやきに、采子は首を左右に振る。とっさにしたことで、誘っているのではないと言い訳したかった。
「あ、違っ……そういう、つもりじゃ……ぁ」
 ちゃんと言えないまま、采子は与えられる感覚に抗えず口をつぐんだ。
 まだ下着が引っかかっているせいで、胸を揺すられるたびに先端が擦れ、むず痒いようなもどかしい痺れが広がっていく。
「気持ち良いですか? 声、聞かせてください」
 吾妻の願いを采子は無言で拒否した。荒い呼吸をくり返しながら、飛び出してしまいそうになる声を必死で呑み込む。
 うつ伏せた采子の背にぴたりと張りついた吾妻は、両方の膨らみの先を親指と中指で摘むと、一番敏感な頂きを人差し指の腹で擦り始めた。
「ああっ! や、あ、ぁ……!」
 いきなり強い刺激にさらされた采子は、切れ切れに声を上げる。
 快感が電流のように全身を流れ、お腹の奥が強張るのを感じた。熱くなった身体がその先を期待していることは、あえて意識しなくてもわかっていた。
 耳元で吾妻がくすっと笑う。
「良い声。下も触ってほしい? そわそわしているみたいですけど」
「あ……んんっ、そん、な……」
「でも、このままじゃ色々できないから、こっちを向いてくださいね」
 興奮と快感にのぼせ朦朧としているうちに、吾妻は容易く采子の身体を反転させる。向かい合う形になった采子が、ぼんやりと彼の顔を見上げると、噛みつくように口づけられた。
「ん、ぅう」
 口を塞がれた苦しさに喘ぐが、その声も吸い取られてしまう。全てが欲しいと言わんばかりの余裕のないキスに、彼の本気を知った。
 そっと腕を伸ばし吾妻の首に絡める。指先に触れた髪を撫でると、僅かに顔を離した吾妻がじっと采子を見下ろした。
「好きです、采子さん」
「吾妻くん……」
 自分に向けられる、熱いまなざし。激しい鼓動で全身が震えている。
 吾妻に促され浴衣から腕を抜くと、続けてブラも外された。采子は灯りがついたままだと思い出し、慌てて胸元を隠そうとしたが、腕を掴まれ除けられてしまった。
「ちゃんと見せてください」
「そんな……は、恥ずかしいし」
 嫌でも彼の視線を意識してしまう。羞恥に耐えられなくなった采子は、吾妻を視界に入れないよう顔を背け、目をつぶった。
「柔らかい……」
 膨らみにふっと風を感じる。そこから吾妻のくぐもった声が聞こえることで、状態が理解できた。
 彼の舌がゆっくりと胸の輪郭をなぞり、最後に辿り着いた先端を口に含んだ。さっき指で苛まれた場所を、優しく舌が撫でさする。
「あ、あぁ……ん、はぁ」
 まるで采子を焦らすように、もどかしい刺激が与えられた。
 吾妻は胸に顔を埋めたまま、空いた手を下へと動かす。腋からお腹、骨盤の上を撫で、ただ一枚残っていた布に手をかけた。
「采子さん、ちょっと腰上げて」
「う、ん……」
 今さら抗う気はない。采子がそろそろと腰を浮かすと、吾妻の手によって、ショーツが足首まで引き下ろされた。
 できるだけ見られないように、しっかりと両足を合わせる。そんな采子の努力も空しく、濡れそぼったそこは容易く彼の指を通してしまった。
「良かった、ちゃんと濡れてる」
「い、言わないでよ」
 いちいち確認する吾妻が憎らしい。じとりと睨むと、伸び上がった彼にキスされた。
「采子さんには、もうドロドロに感じてほしいんです。この先ずっと俺じゃなきゃ満足できなくなるくらいに」
 しれっとして凄いことを言う彼に、采子は赤面した。
「な、なにを……あ、やぁ、ん。ああっ」
 采子の言葉を待たずに、秘部へ潜り込んだ指が動き出す。前から後ろ、そして前へ。指が行き来するたびに、敏感な蕾が引っかかり強い快感を生んだ。
 吾妻の指先がそこを優しく撫でるだけで、卑猥な水音が立つ。誤魔化しようもないほどに感じ、濡れていることは明らかだった。
 加速し続ける鼓動のせいで息が上がる。最後を悟り、とっさに吾妻の腕を掴むと、彼は采子の両足を持ち上げ、露わになった付け根に唇を寄せた。
「あ、いやぁっ。止めて、吾妻くん!」
 経験がないわけではないが、そこに口づけられることは刺激が強すぎて苦手だった。采子は足をばたつかせて逃れようとしたものの、吾妻の腕によって防がれた。
 敏感な蕾を吸われ、内側を指で擦られる。彼の指が出入りするたびに、快感で身体が跳ねた。
「あ、ぁ、ダメ……ダメ、や、あっ!」
 何がダメなのか自分でもよくわからない。迫り上がってくる感覚にぎゅっと目をつぶると、瞼から押し出された涙がこぼれ落ちた。
 蠢く指先が、一際強く快感を覚える場所をかすめる。本能に忠実な身体は、隠したい意思とは関係なく大きく震え、采子の状態を吾妻に伝えた。
「ここが良いんですか? 凄く締めつけてくるけど……」
「やだっ、やっ、あぁ!」
 吾妻は采子の抵抗を無視して、弱い箇所を集中的に責め立てた。
 力みすぎたせいで爪先が丸まり、太腿がぶるぶる震える。
「も、ダメ……あがつま、く……」
「良いですよ、イッても」
 許しを与えられた采子は、そっと瞼を開ける。ぼやけた視界の中で彼を見つめると、優しい笑みを返された。
 近づいてきた吾妻の唇が、采子の口を塞ぐ。次の瞬間、中に埋められたままだった指が敏感な場所を掻き混ぜ、強く擦り上げた。
「くっ、ん! んんーっ!」
 膨張した感覚が、一気に弾ける。全身を痙攣させながら硬直した采子は、糸が切れたようにがくんと脱力した。
 達したあとのだるさと酸欠で何も考えられない。瞼を閉じ、荒い呼吸をくり返していた采子は、吾妻の唇が頬に触れたのを感じて薄く目を開けた。
 全く力の入らない足をかかえ上げられる。足首に纏わりついていたはずの下着は、いつの間にか外れていた。
 大きく開かれた足の付け根に、温かい何かがそっと触れる。それが何であるかに気づいた采子は、弱々しく首を左右に振った。
「待って。まだ、無理……もうちょっと……」
 いまだ絶頂の余韻が引かない身体は、じくじくと脈打っていた。
「采子さん、ごめん。俺も限界」
 吾妻の苦しげな言葉に続いて、秘部に当てられていたものがぐっと進んでくる。一気に最奥まで身体を開かれ、采子は目を見開いた。
「あっ! く、うっ……ああぁ」
 中から溢れた雫が進入を助けてくれたものの、指とは比べられないほど大きく熱いそれに貫かれるのは、僅かな痛みを伴った。
 抜き挿しされるたびに起きる痺れが、快感なのか苦痛なのか判断できない。采子は与えられる熱に翻弄され、全身を震わせた。
 間近で息を切らす吾妻が自分の身体で感じているのかと思うと、何故か嬉しさが込み上げる。采子が手を伸べたのに合わせて、彼も抱き締め返してくれた。
「采子さん……」
 切なげなまなざしを向けてくる吾妻に、瞳でうなずく。余裕のない彼の様子と、中の圧迫が増したことで、最後が近いのだと知った。
「好きです」
「……うん」
 まだはっきりと言葉にはできないが、今こうしていることで感じる幸せは、確かに愛情なのだろう。
 目を合わせ、采子からキスしたのをきっかけに、また吾妻が動き出した。激しい律動に、舌を絡めながら喉の奥で喘ぐ。やがて彼が息を詰めたのと同時に、采子も声にならない悲鳴を上げ、果てた。

 目覚めた時、采子は見慣れない光景にぽかんとした。
 少しして自分が旅行中だったことを思い出し、続けて昨日の顛末に考えが至る。背中に触れる温もりに気づいて振り返ると、既に起きていたらしい吾妻と目が合った。
「おはようございます」
「お、おはよう……」
 清々しい彼の笑顔に気後れする。
 さりげなく上掛けを引き、顔を隠そうとしたが、先んじて額にキスをされた。
「采子さん、顔真っ赤。恥ずかしいんですか?」
「そ、そりゃ……!」
 男性経験はそれなりにあるが、なんとも思っていなかった……というより、ちょっと嫌っていた男と、突発的に関係を持ったことはない。吾妻にどう接していいのかわからない采子は、頬を染め口篭もった。
「可愛い」
 対して、何も気にせずにこそばゆい言葉を平気で吐く目の前の男を、采子は半眼で睨みつけた。
「吾妻くんは、全然、普通ね」
「普通というか、采子さんの隣にいることが嬉しすぎて、恥ずかしいと思う余裕がありません」
 また、けろりと殺し文句を言われ、采子は言葉に詰まった。
 髪を下ろし眼鏡を外したうえ、睦言をさらっと言ってのける。普段の吾妻からは想像できない姿に、誰か他の人間と対峙しているような気持ちになった。
 そんなことを考えつつ、ぼうっとしていると、吾妻の手が采子の腰を撫で始めた。
「ちょっと、吾妻くん」
「いいじゃないですか、まだ時間はありますよ。本当はもっと色々したかったのに、昨日は一回しかできなかったし」
 不穏な言葉にぎょっとする。具体的にはわからないが、何かひどい目に遭わされそうだ。
 身の危険を察知した采子は、吾妻の胸に手を突き押し返そうとした。
「ダメよ。ほら、仕事があるし。早めに出て家に帰らなきゃいけないし、ねえ?」
「ああ。会社なら今日は台風のせいで管理職以外は自宅待機だそうです。さっき連絡がきました。それから山奥でわかりにくいけど、ここもう隣の市なんで、三十分もあれば帰れますよ」
 笑顔で告げられた真実に、采子は固まった。
「……え……隣、なの?」
「はい。端ですけどね」
「そ、それなら泊まる必要なかったじゃない。なんで先に言わないの!?」
「なんでって、聞かれなかったから」
 聞かずとも普通は教えてくれるだろうと憤る。元々の原因が自分にあることや、迎えに来てもらったことを棚上げして口を尖らせた。
 騙されたようで釈然としない。采子が文句を言おうとしたところで、突然、腕を掴まれ組み敷かれた。
 息がかかるほど顔を近づけた吾妻が、スッと口の端を上げた。
「好きな人にホテルへ誘われて、もうすぐ着くから帰ろうなんて言う奴が、いると思います?」
「な……」
 唖然とした采子に見せつけるように、吾妻はにっこり微笑んだ。
「ま、そういうことで。時間いっぱいまで楽しんでいきましょう」
「うそっ。ちょっと、やだっ!」
 喚く采子を押さえつけた吾妻は、ためらうことなくキスで口を塞ぐ。
 夕べの名残か、それだけで身の内にじんわりと熱が篭もる。抗いきれずに流されていきながら、采子は一抹どころか、大いに不安を覚えていた。
                                          End

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