夏の嵐
２
同僚との電話を切った采子は、力なくうなだれ、ベンチに戻った。
雨足はひどくなる一方で、改札の向こうからは雨粒がアスファルトに叩きつけられる音と共に、湿った風が吹き込んでいた。
「どうしよ、これ……」
采子はぼんやりと窓の外を眺め、誰にともなく呟く。
同僚の言うとおり、この雨が台風によるものならば短い時間で止むはずはない。結論としては、電車を待って自宅へ戻るしかないのだが、肝心の電車がきちんと到着するのかも定かではなかった。
激しい風と雨の音に、大雑把で楽観的な采子も不安になってきた。
いつだったかかなり前に、吾妻から「直接関係がなくても、時事ニュースと天気予報くらいはチェックした方がいいですよ」と窘められたのを思い出す。今この場に彼がいたら、それみたことかと呆れ顔をされるに違いない。
采子は吾妻の呆気に取られた表情を思い出し、思わず吹き出した。
全く状況が変わらないのに、生意気な彼のことを考えるだけで、何故か少し心が軽くなった。
（それにしても、吾妻くんはなんで会社を休んだんだろう……）
仕事を押しつけずに済んだのは良かったのかもしれないが、彼の体調が気にかかった。
少しの間、吾妻のことを考える。
常々、年下のくせに偉そうで面倒くさい男だと思い、仕事以外では適当にあしらっていた。
しかし、今にして思えば、彼はいつも采子のために小言を並べていたのではなかったか……。まめな性格についていけないと思いながら、そのおかげでミスを修正できたこともあったはずだ。
もちろん単純に采子のことを嫌っている可能性だってあるし、深読みしすぎなのかもしれない。それでも采子には、本来の彼が親切な人間のように思えた。
降り続ける雨を見ながら吾妻への感謝と、だらしない自身の反省をする。
（帰って休暇を取り消そう。明日、職場に行ったら吾妻くんにお礼を言おう）
そして……あてつけのように仕事を放り出したことを謝罪しようと思った。
采子はサッと立ち上がると、風に煽られ震えている窓に近づく。
さっきまでは自分が無事に帰れるか不安でしかたなかったのに、今は吾妻を心配する気持ちが強くなっていた。
ふいに窓の外が光ったような気がした。
雷かと思い目を凝らすと、光は雲間からではなく、雨の向こうにちらちらと見えている。等間隔に並んだ二つの輝き。揺れながら近づいてくる動きで、それが車のヘッドライトだと気づいた。
乗っている人も行き先もわからないが、助けてくれるかもしれない。采子はバッグを掴むと、自分の存在を知らせるために、急いで改札にまわった。
駅舎のひさしが長く突き出ているものの、雨と風の勢いが強すぎてあちこちから飛沫が上がっている。視界を確保しようと采子が額に手をかざした時、駅前まで来た黒のセダンが水溜りを撥ね飛ばしながら停車した。
間髪を容れずに運転席のドアが勢いよく開かれる。降りてきた人を見た采子は、ここにいるはずのない彼の姿に目を見開いた。
いつもより乱れた黒髪に、ブラックメタルの眼鏡。フレッシュすぎると笑い者にしたこともある黒無地のスリムスーツ。見慣れたしかめっ面。
「あ、吾妻くん……？」
吾妻は濡れないように素早くひさしの下に入ると、驚きで固まっている采子を忌々しげに見下ろした。
「あんた、馬鹿かっ!?」
わけもわからずいきなり怒鳴られ、采子は肩を震わせた。
「台風がくるっていうのに、よく下調べもしないで旅行に出るなんて、危ないと思わないんですか!?」
「え、あ……ご、ごめん、なさい……」
状況が呑み込めないまま反射的に謝る。駅に閉じ込められたのは、ほとんど無計画で飛び出した自分が悪いのだが、何故それを今ここで吾妻に謝っているのかわからない。混乱し茫然とした采子は、ただまばたきをくり返した。
ぼんやりしている采子を、歯噛みする音が聞こえそうなほどきつく睨んだ吾妻は、次の瞬間がっくりとうなだれた。続けて肩を落とし、長い溜息をつく。
突然、脱力した彼の姿に、采子は焦った。どこか調子が悪いのかと心配になり、声をかけようと身を乗り出した時、耳に吐息混じりのささやきが届いた。
「良かった……無事で……」
「っ！」
どういう経緯で吾妻がここにいるのかわからないが、采子を探しにきてくれたらしい。
彼に迷惑をかけてしまったことへの罪悪感と、自身の不甲斐ない行いに対する後悔で采子は身を強張らせた。
事前に旅行先を教えていないうえ、駅に足止めされていたことも伝えていない。何も知らないはずの彼がここに来たことを采子は不思議に思ったが、理由を訊くのは後まわしにして頭を下げた。
「あの……来てくれて、ありがとう」
「いいですよ、俺が勝手にしたことだし。それより車に乗ってください。このままじゃ濡れる」
助手席のドアを開けてくれた吾妻にまた礼を言って、シートに身を置く。冷えた車内の空気に、かすかな彼の香りを感じた。
男の車に乗ったのが初めてというわけでもないのに、何故か妙に緊張する。気を紛らわすために視線を向けたフロントガラスは、まるで滝のように水が流れていた。
（こんな状況だから不安になっているだけ……きっと、そう）
変に落ち着かないのは、まだ混乱から抜けきっていないからだと采子は決めつける。右側を意識しすぎていることには、気づかないふりをした。
高原の駅を離れ数時間。天候悪化のせいで高速道路は通行止めになり、二人が乗る車は一般道の抜け道を慎重に進んでいく。
道路にも地理にも詳しくない采子には、どこをどう走っているのかわからないが、日が暮れても見慣れた景色には出合えなかった。
両側を木々に囲まれた山道の途中。偶然見つけたコンビニで、休憩がてら軽く食事をすることになった。
采子が買い物を済ませて車に戻ると、カーナビと地図を確認するために残っていた吾妻は、倒したシートに身体を預け、顔の上に道路地図を伏せていた。
買い物をしていた僅かの間に眠ってしまったということはないだろうが、彼の疲労がピークに達しているのは間違いなかった。
できるだけそっとドアを開ける。気づかないで休んでいてほしいという采子の願いも空しく、吾妻はパッと起き上がり、顔から地図を除けた。
「……起こしてしまった？」
「いえ。少し目を休めていただけで、眠っていたわけじゃありません」
なんでもないふうに装う彼の笑顔が痛々しい。お前のせいだと罵ってもいいのに、迎えに来た時に怒鳴って以来、吾妻は采子を責めなかった。
「これ、おにぎりとお茶」
「あ、すみません。ありがとうございます」
買って来た物を渡した采子は、彼の感謝に無言で頭を振った。
ペットボトルのお茶をぐっとかたむける横顔が、普段より青白く見える。自分のせいで彼に迷惑をかけていることを改めて感じ、胸が苦しくなった。
「ごめんね、吾妻くん」
「えっ？」
おにぎりのフィルムを剥く手を止めた吾妻が、意外そうに振り向く。
彼の顔を直視できない采子は前を向いたままうつむいた。
「私のせいで、こんなことになって……」
「いや、頼まれてもいないのに来たのは俺だし。それに三浦さんが旅行に出たのって俺のせいでしょう？」
核心をつく質問に、采子は頬を強張らせた。
「それだけじゃないけど……ごめん」
「なんで三浦さんが謝るんですか」
「だって……」
確認しなくても、吾妻がこちらをじっと見つめているのはわかる。雨音だけが響く車内。息苦しさを感じた采子は、彼の視線から逃れるように顔を背け、ギュッと目をつぶった。
「あてつけで休んで、吾妻くんに仕事を押しつけようとしたのよ……本当に、ごめんなさい」
「それ、嫌がらせのつもりで？」
吾妻の低い声に采子は震え上がった。怒られて当然だとわかっていても、彼に軽蔑されるのがつらい。
采子はぐっと奥歯を噛み締めると、首を縦に振った。
居たたまれない沈黙のなか、もう一度謝ろうと顔を上げた時、右側から押し殺した笑い声が聞こえてきた。驚いた采子が振り向くと、吾妻は顔をそらし、苦しそうに肩を揺らしていた。
「な、なんで笑うのよ」
「ふっ……いや、なんか可愛いなあと思って……」
「か、かわっ……!?」
いきなり「可愛い」などと言われ、采子は返事もできずに頬を染める。
ひとしきり笑い続けた吾妻は、緊張しすぎて固まっている采子の顔を覗き込み、スッと口の端を上げた。
「それくらいじゃ嫌がらせにならないでしょう。今は重要な仕事もないし、日常業務なら俺以外でも務まる」
「う……」
「嫌がらせをしたくても、会社に迷惑はかけたくなかったんですよね？ 俺、三浦さんのそういうところは尊敬しているんですよ。プライベートは最悪だけど」
最後の一言で、頬の熱が一気に冷める。
吾妻の皮肉めいた言葉で我に返った采子は、わざとらしく口を尖らせ、つんとそっぽを向いた。
「最悪ですいませんね」
「だから勿体ないって言ってるんです。責任感があって仕事もできるんだから、自分のことを大事にしてくれる男を探したら良いのに」
助手席の窓を見つめた采子は、これまでに係わった男を思い浮かべた。
毎度、不仲になる主な原因は、恋人のために自分を変えようとしない采子にあったが、今思えば、同じように歩み寄ろうとしなかった男の側にも問題はあったのだろう。
それなりに深く付き合っていても、吾妻と同じくらい自分のことを考えてくれた男がいなかったという事実に、采子は空しさを覚えた。
暗闇のなか、濡れたガラスの内側に映り込む自分と、彼。背後から注がれる優しいまなざしに気づいた采子は、胸のざわめきが大きくなるのを感じた。
おにぎりを食べ終えたらしい吾妻が、最後のお茶を飲んで息を吐く。横目でそっと盗み見ると、彼は眉間に皺を寄せ、首の凝りをほぐすように何度かひねった。
無意識にやっているのだろうが、やはりだいぶ疲れているようだ。
（これ以上、吾妻くんに無理はさせられない……）
采子は心を決めると、顔を上げ真っ直ぐ彼を見つめた。
「吾妻くん、明日は何か予定ある？」
「え？ 明日は普通に仕事ですけど……台風で休みにならなければ」
「それなら、遅れてもいいわね」
本来なら許されることではないが「帰宅困難に陥っているのだからしかたない」と自分に言い訳して、采子は大きくうなずいた。
「今日はどこかに泊まって、明日の朝、帰らない？」
「え……」
眼鏡の奥にある彼の瞳が、驚きで見開かれる。
女として誘っているわけではないと伝えるために、采子はわざとなんでもないふうに装った。
「あ。お金なら私が全部出すから気にしないで」
「いや、そういうことじゃなくて……。それに、泊まれるところなんてないでしょう」
まわりに見える建物はコンビニと点在する古民家だけで、あとは鬱蒼とした木々に覆われている。宿泊施設などありそうにない。
呆れ顔をしている吾妻に向かって、采子は首を横に振った。
「さっきコンビニの店員さんに聞いたのよ。十分くらい行ったところに温泉つきのホテルがあるんだって」
どうにかして吾妻の負担を軽くしたいと考えていた采子は、買い物をした時、このあたりの情報を店員に尋ねていた。
「……」
「どういうところかわからないけど、とりあえず行ってみよう？ どうせ通り道なんだし」
戸惑っているらしい吾妻に言いつのる。やがて彼も根負けしたようにうなずいた。
「わかりました」
サイドブレーキの外れる音と共に、車が動き出す。
結局、采子は彼に「ホテルに温泉がある」ということしか伝えなかった。すぐに知られてしまうことなのに、何故詳しい説明をしなかったのか、自分でもわからない。
ヘッドライトの中で煌く雨粒を見つめながら、采子は自身の心を掴みかねていた。
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