夏の嵐 1 いつだったか思い出すのも億劫なくらい昔に使ったきりの旅行バッグを前にして、三浦采子(みうら さいこ)は腕組みをした。 いざ旅行をしようと思い立ったものの、行き慣れていないうえ、元来の大雑把な性格が災いして、何を用意したら良いのかがわからない。 とりあえずいくらかの現金と着替えさえあればどうにかなるだろうと考え、采子は衣類をざっと詰めただけのバッグを取り上げた。 職場に近いという理由で住んでいる安普請のコーポを出た采子は、まだ早朝だというのにうんざりするほどの熱気に包まれ、眉尻を下げる。清々しさのかけらもない温い空気に、息をするのも嫌になった。 采子は小さく息を吐くと、これから始まるバカンスに無理矢理思いを馳せ、駅へ向かって歩き出した。 行き先は高原の避暑地。 暑いこの時期に旅行するのなら海が定番なのだろうが、泳いだあとが面倒すぎる。カップルでごった返すなか、砂だらけの身体を清めるために、空いている海の家を探すなんてまっぴらだった。 それなら、知る人ぞ知る山奥で、のんびり過ごした方が良い。 避暑地と言ったって暑いことに変わりはないのだ。日陰のデッキチェアに寝そべって飲むビールは、さぞおいしいことだろう。 采子は冷えた液体が喉を滑り降りていく感覚を思い出しながら、空に浮かぶ入道雲を見上げた。 普段、出勤する時間よりも早く家を出て、最寄り駅から高原へ向かう特急に乗り込んだ。 朝が早いせいか特に予約をしていなくても車内はガラガラで、人の話し声もしない。始め、車窓の景色を楽しんでいた采子は、いつの間にかうたた寝をしていた。 規則的な音と振動に揺られながら、暗い世界をふらふらと漂う。 今の状況を理解しつつも瞼の上げられない自分は、夢と現の狭間にいるのだと気づいた。 脳裏に一人の男の姿がぼんやりと浮かんでくる。夢とはいえ彼を思い出していることに、采子自身、疑問を感じていた。 いつも通りの昼休み。 昼食を食べ終え、オフィスで同じ課の同僚たちとたわいない世間話をしていた采子は、他人の失恋をまるで自分に起きたことのように憤る目の前の男を、ぼんやりと見つめた。 真正面から采子を睨んでいるのは、二年後輩の吾妻広輝(あがつま ひろき)。入社当初から同じ課に配属され、共に仕事を請け負うことも多いパートナーのような立場の社員だった。 とはいえ、あくまで仕事上の付き合いでしかない。特別に仲が良いわけでもないのに、何故、采子が恋人と別れたことをこんなに気にかけるのか不思議だった。 「……えーと、なんで吾妻くんが怒るのか、わからないんだけど」 「俺は、三浦さんが怒らないことの方が疑問ですけどね!」 あてつけがましく言い放った吾妻は、ムッとしたまま顔を背けた。 「だって、こうなるだろうなって思ってたし……」 采子は特別美人というわけではないが人好きのする顔立ちで、裏表のない性格をしていた。 おかげで気が置けない関係を望む異性に受けが良い。頻繁ではないものの、そういう男性から声をかけられることがあった。 恋愛は面倒事が嫌いな采子にとって苦手分野だったが、独り寝の寂しさを感じる夜もある。先を考えれば、恋人がいないよりはいた方が良い。結果、フリーの時に声をかけてきた男性と、深く考えずに付き合っていた。 采子の表面だけを見て声をかけてくる男性もまた、似たようなものなのだろう。 付き合い始めの盲目なうちは良いのだが、時が経つにつれ、こだわりのなさすぎる采子の性格に呆れたり、大雑把で面倒くさがりなところに幻滅したりして、段々と疎遠になっていく。最終的には自然消滅か、相手の心変わりに落ち着くというのがいつものパターンだった。 今回もご多分に漏れず、恋人の浮気発覚と同時にふられたわけだが、既に何週間も連絡を取り合っていなかったのだから、どうということもなかった……のに……。 「思っていても、向こうが悪いでしょう。ちゃんと別れてもいないのに別の女をつくるとか、最低な野郎だと思わないんですか!?」 他人事に対して本気で苛立っているらしい吾妻に、内心で首をひねる。ふられた采子が傷ついていないのに、どうしてこんなに怒るのか。 「でも、私からも連絡してなかったし、もう別れたつもりだったんじゃないの」 時間的にも精神的にも、そろそろ話を切り上げたくなった采子は、投げ遣りに答えた。 終わった恋愛など正直どうでもいい。いちいち振り返る時間が惜しいし、面倒だった。 「ああ、もう!」 吾妻は采子の態度も気に入らないらしく、堪りかねたように頭を掻き毟る。丁寧にセットされていた髪が崩れて広がった。 「ちょっと吾妻くん、髪ぼさぼさになってるよ」 「誰のせいですかっ!」 「えぇー……」 苛立ちまぎれに睨まれた采子は、うんざりと肩を落とした。 以前から、まめで細かく説教くさい奴だと思っていたが、ここまで暑苦しいとは知らなかった。大体、後輩のくせに先輩社員に説教をするなんて、無礼だとは思わないのだろうか。 采子は、生意気な吾妻の態度に物申したかったが、これ以上、話が長引くのを避けるために言葉を呑み込んだ。 「告白されたからって、簡単にほいほい付き合うのが悪いんですよ! 自分を大切にする気がないんですか!?」 「あー、はいはい。わかった、わかった」 本気でうっとうしくなってきた采子は、吾妻の言葉を聞き流した。 「わかってないっ」 まだまだ説教が続きそうな様子にイライラが湧き上がる。やがて采子は、頭のどこかで理性がぶち切れる音を聞いた。 勢い任せに立ち上がり、デスクに思いきり拳を叩きつける。スチール製のシステムデスクが派手な音を立てて軋んだ。 「うるっさい、わかったって言ってる! ちゃんと考えて、反省すればいいんでしょ!?」 フロア全体に響く大声で啖呵を切った采子は、驚きで静まり返ったオフィスの中を、自分のデスクへ向かう。イライラをぶつけるように荒々しく腰を下ろし、やりかけになっていた書類に手をかけた。 全く腹立たしい。どうして家族でも友人でもなく、まして年上でもない男に、私生活のことをねちねち言われなければならないのか。 采子は今にも引きちぎりそうな勢いで書類をめくりながら、何かやり返す方法はないだろうかと考えを巡らせていた。 ふうっと意識が上昇したのに合わせて、采子はゆっくりと瞼を上げた。覚束ない視界の中で何度かまばたきをしてから、自分が電車に乗っていたことを思い出した。 うつらうつらしているだけだと思っていたのに、夢を見るほど眠り込んでいたようだ。 おかしな姿勢で寝ていたせいか背中がひどく凝っている。采子はぐうっと伸びをしてから、窓の外へ視線を向けた。 乗り込んだ駅の周辺から続く住宅街はどこにもなく、一面に緑の木々があるばかりだった。時折、森が切れた向こうに、小高い山と雲のかかった空が見える。もう大分、目的地に近づいているらしい。采子は寝覚めの気だるさを払うように、深く息を吐いた。 吾妻にごちゃごちゃ言われた翌日、采子は有給休暇の申請を出した。期間は次の月曜から丸一週間。 社会人として褒められた行為ではないのだろうが、常々、上司から「有給を消化しろ」と言われていたのと、重要なプロジェクトが入っていなかったこともあって、長期休暇を取ることにした。 もちろん重要な案件がないと言っても、通常の業務はこなさなければならない。采子が休む間は部課全員でフォローしてくれるはずだが、同じ仕事を担うことが多いぶん、他の同僚よりも吾妻の負担が増えることは容易に想像できた。 もし彼が「できない」「助けてくれ」と言ってきたなら、休暇を取り止めるつもりだった。だが、采子が僅かな罪悪感を持って「傷心旅行へいく」と告げた時、吾妻は目も合わせずに「そうですか」と答えただけだった。 窓ガラスに額をつけて電車の揺れを直接感じながら、采子は吾妻のことを考えた。 今にして思えば、何がしたかったのか采子自身よくわからない。嫌がらせとまではいかないが、うざったいことを言う彼へのあてつけの意味も確かにあった。しかし今この時間に、自分のせいで吾妻が困っているのかと思うと、良い気分はしなかった。 (昼休みに会社へ連絡をしてみよう。なんなら休暇を切り上げて出勤してもいいんだし……) おもむろに到着案内が流れ出す。そろそろ見えてくるはずの駅を確認しようと覗いた窓には、細かな雨粒が揺れていた。 電車から降りる少し前に降り出したらしい雨は、采子が改札へ向かう高架通路を歩く僅かの間に、本降りになっていた。 鄙びた風情……と言えば聞こえは良いが、要は古くて狭い木造の駅舎から外の様子を窺う。どんよりと曇った空から落ちてくる大粒の雨に、にわかでは済まない予感がした。 駅から見える範囲に人影はない。細い道路はあるものの、車も停まっていなかった。 駅舎の真向かいにある商店だったらしき建物は、いつから放置されているのか、窓が割れ落ち、入り口に大きなベニヤ板が貼り付けられている。近くにある他の建物も、入口のバリケードが多少違うくらいで同じ有様だ。 脳裏に「ゴーストタウン」という言葉が浮かんだが、これでは幽霊もいないだろうと采子は馬鹿なことを思った。 町がそんな状態だから、当然、駅だって無人で、自動券売機の横にある小窓は、中にカーテンがかけられていた。 采子が目指すペンションは、ここから車で十分ほど走ったところにあるはずなのだが、まさか駅前にタクシーが停まっていないとは想像していなかった。 少しの間、呆然とした采子は、ペンションに向かう他の方法を考えてみた。しかし結局、良い案が浮かばないまま、間近のベンチに座り込んだ。 旅行先を選ぶ時に見た雑誌には、飛び込みの客にも対応してくれるペンションだとあったから、予約をしないでここまできてしまった。この状態で先方に迎えを頼むのは、さすがに図々しすぎるだろう。 自力で向かうとしても、車で片道十分の道を、雨の中、徒歩で行くのは骨が折れる。もちろん雨具もない。戻るにしても、壁にかけてある時刻表を見るかぎり、上下線とも二時間近く待たなければいけないらしい。 「まぁ、しょうがない、か……」 小さく溜息をついた采子は、傍らのバッグから小銭入れを取り出し立ち上がる。駅舎の外にある自販機でコーヒーでも買って、時間を潰すつもりだった。 はたして雨が止むのが先か、電車が来るのが先か。 自動化されていない改札を勝手に通り抜けた采子は、吹き抜ける強い風に髪をなぶられ、顔をしかめた。 待合室のベンチにおさまって一時間。雨風の音を聴くのに飽きた采子は、何度も確認した腕時計をまた覗き込んだ。 昼休みには少し早い時間だが、職場に電話をかけてみようと携帯を取り出す。仕事を押しつけた手前、吾妻に直接かけるわけにはいかないが、仲の良い女子社員に頼んで様子を教えてもらうつもりだった。 携帯の画面を見つめた采子は、バックライトが点灯しないことに首をひねった。何度かボタンを押してみるが無反応。故障したのかと焦り電源ボタンを押してみると「電池残量がありません」という表示のあと、けたたましいアラーム音を立て、また電源が切れた。 「……」 この前いつ充電したのか思い出そうとしたものの、さっぱり記憶にない。恋人と疎遠になってからというもの、かけることもかかってくることもなかったのでこまめに充電をしていなかった。 出先で充電できそうな場所がないこともまずいが、そもそも充電器を家に置いてきてしまった。 采子は携帯を諦め、待合室の隅の公衆電話へ向かう。まだ使えるのか不安なピンク色の電話に百円玉を突っ込んだ。受話器からトーン音が聞こえた瞬間、ほうっと溜息がこぼれた。 財布に入れたまま忘れていた自分の名刺を取り出し、会社の代表番号を押す。繋がった先に名前と部署を告げ、普段から仲良くしている同僚を呼び出してもらった。 「あれー、采子どうしたの? 旅行中じゃなかった?」 少しくぐもってはいるが、聞き慣れた声を耳にした采子は、急激な安堵感に包まれた。たった一時間だというのに、自覚していたよりもずっと強く不安を感じていたらしい。情けない自分に苦笑いする。 「うん。実は雨で駅に足止めされちゃっててさー。そっちはどう? 吾妻くんは困ってない?」 「吾妻くんなら、今日は休んでるわよ」 「えっ、どうして……」 想像もしていなかった事態に、思わず声が漏れた。 「さぁ? 私は理由を聞いてないけど。でも、こんな日だもん。こなくて正解かもね」 同僚の言葉に含みを感じ取った采子は、受話器を持ったまま首をかしげた。 「こんな日? 何かあったの?」 「やだ、采子。天気予報見てないの? 台風が近づいてるって、先週からテレビで言ってたでしょう」 からからと笑う声を遠くに聞きながら、采子はぎょっと目を剥く。外の様子を確認するために慌てて振り返ると、窓ガラスに横殴りの雨と風が叩きつけられていた。 → 2 |