お人好しな彼と彼女
後編
駿太と初めて会ったのは、高校のクラスメイトとしてだった。
はっきり言って見た目にもパッとしない、人が良いだけの駿太は実に目立たない存在で、同じクラスになるまで名前も知らなかった。
……まぁ知った後も、ただ同じ教室にいるってだけで何も変わらなかったけど。
その認識が変わったのは、いつだったかの放課後。
部活帰りの私は忘れ物をして教室に戻り、駿太が告白をしているのを目撃した。相手は同学年の中でも飛び抜けて可愛いと評判だった子。
見た目だけで判断するのは乱暴かも知れないけど、地味顔の駿太と、彼女では全く釣り合ってない。失礼を承知で、無理だろうと思った。
案の定、駿太はその場で振られた。別に好きな人がいるから考えられないとか、そんな理由だったと思う。
当時の私は、若さゆえというか、他人の痛みに気付こうとしない斜に構えた嫌な子供で、駿太の事もバカじゃないかと思った。
どういう経緯で彼女を好きになったのかは知らないけれど、傍目に接点も無く、モテる要素なんてこれっぽちも無い駿太が、振り向いて貰える可能性なんて完全にゼロだ。黙って想うだけならまだしも、自分から告白して破滅するなんて理解に苦しむ。
何だか馬鹿馬鹿しくなってしまった私は、結局、忘れた物をそのままにして帰宅した。
それからの駿太は少し変わった。休み時間に教室にいる事がほとんど無くなり、こそこそ何かをしていた。
選択授業での移動時に、断られた筈の彼女と話しているのを何度か目撃した私は、今更アプローチに出たらしい駿太に正直呆れていた。
やがて夏休みが過ぎ、迎えた2学期。例の彼女に恋人ができた。もちろん相手は駿太じゃない。
結局、女々しく恥を晒しただけじゃないかと、内心で小馬鹿にしていた私は、二人を取り持ったのが駿太だと聞き、衝撃を受けた。
駿太は……ただ彼女の為だけに、自分の想いを諦め、応援していた。
他のクラスメイトから「キューピッドだ」といじられ苦笑いする駿太に、私は泣きそうになった。
どうしてそんな事ができるのか。なぜ笑っていられるのか。告白した時の駿太は、子供の私にだって判るくらい真剣だったのに……。
その日、私は部活をさぼって駿太と一緒に下校した。
仲が良い訳でも無い私の唐突な誘いに、駿太は驚いていたけれど、偶然全てを見てしまった事を告げると、困ったように微笑んだ。
共通の話題も無い私たちは、ただ夕日の中をとぼとぼ歩く。すぐ後ろにいる彼が声も出さずに泣いていた事には気付いていたけれど、最後まで振り返らなかった。
雑炊の出汁が立てる湯気を見ながら、ぼんやりと昔の事を思い出す。
青春してたよねえ……。
なんて思うのは、歳を取った証拠なのかも知れない。
あの後、本当にほんの一瞬だけ駿太の事を好きだったりしたんだけど、友達付き合いを続けるうちにどうでも良くなってしまい、今に至る。
結局のところ「いい人」止まりで恋愛対象として見ていないのは、私もなんだ。男としてじゃなくて、人間として尊敬してる。そんな感じ。
「あ、何か良い匂いする……」
風呂場のドアから頭だけ出した駿太が鼻をひくひくさせた。
単身者用アパートで脱衣所が無いから気を使ったのだろうけど、濡れた髪からぼたぼた水が落ちている。せっかく拭いた床がびしょ濡れだった。
「食欲出てきたのは良い事だけど、ちゃんと髪拭いてから出てよ。掃除した意味無いじゃない」
半眼で一瞥してやると、駿太は気まずそうに目を逸らして、また風呂場に引っ込んだ。
「ごめん。でも……瑠璃ってこういうの全然動じないのな」
湿気の充満している風呂場から、駿太の声が響く。
「お生憎様。男の裸なんて見慣れてますからね」
わざと軽口っぽく言ってやった。今でも全然モテてない駿太は、あてつけられたと思ってムッとしているだろう。
実際、男性経験が無い訳じゃないけれど、元彼と呼べるのは1人だけだ。
男の裸に見慣れているのは、単に実家が男系家族だから。父に兄に、弟2人。パンツ一丁でうろうろされるのが当たり前な日常で、いちいち「キャ!」なんて言っていられない。
言われた通りに髪を拭いたらしい駿太が、また顔だけを出した。
「瑠璃は平気でも、俺が恥ずかしいから、あっち向いてて」
湯上りだからか妙に赤い顔に笑ってしまった。
「はいはい」
服を取りに行く駿太を視界に入れないようにして、雑炊を仕上げる。ざっと洗ったご飯を入れ、また出汁を暖めてから、溶き卵を落とした。最後に薬味の青葱を入れて完成。私の好みとしては三つ葉を入れたいのだけど、無いから仕方ない。
洗いかごの中に伏せてあったどんぶりを勝手に拝借して、取り分けた。
「できたけど、もう着替えた?」
「うん。いいよ」
一応、駿太に確認してから、テーブルに運ぶ。作ったと言ったって一品だけだから、すぐに用意できてしまった。
雑炊に、買って来たお茶だけという、何とも味気無い食卓。冷蔵庫の余り野菜と卵も入れたから、栄養バランス的には問題無いと思うけど、作れる料理のバリエーションが少ないのがバレバレだった。
「ごめんねー、こんなので」
言い訳がましく言葉を添えると、駿太は雑炊を覗き込んで、ぶんぶんと首を振った。
「いや、全然。凄い美味そう」
湯気の向こうの駿太がふにゃっと笑う。たかが雑炊なのに凄く幸せそうで、つられた私も何だか嬉しくなった。
手抜き料理ではあるけど、まぁ味はそれなりで。駿太は「美味い、美味い」と3杯も食べた。食べる量はやっぱり男なんだな、と今更思ったりした。
「二日酔い明けで、そんなに食べて大丈夫? 後で気持ち悪くなるかもよ」
「そうなったら、また助けてよ」
せっかく心配して言ってあげたのに、駿太は暢気にへらりと笑った。
もちろん冗談だというのは判ってる。しかし、それにしても危機意識が足りないというか……。
頼られるのは嫌じゃないけど、しっかりしろという意味を込めて、軽く小突いてやった。
「そんなの自分で何とかしなさい。私、夜中に呼び出しなんて絶対嫌だからね」
「……はーい」
駿太は小言を言われて拗ねた子供みたいに、わざとらしく口を尖らせた。
これじゃ、本当に母親と息子みたいだ。いい歳して頼りない駿太もだけど、同い年の男を親目線で心配する私もどうかしてる。
私は駿太に気付かれないようにこっそり苦笑してから、食器を片付ける為に立ち上がった。
気付いた駿太が、合わせて腰を浮かせた。
「あ、片付けはいい。俺やるから」
食器を洗ってくれる気はあったらしい。見た感じ体調も戻ったようだし、洗う物と言っても鍋とどんぶりくらいだから置いて行っても構わないだろう。
とりあえず持ち上げた食器を流しに置いた私は、首をまわして時計を確認した。
「じゃ、帰ろうかな。結構な時間だし」
のんびり食べていたせいで、もう9時半過ぎ。明日も休みだからいいと言えば、いいんだけど、遅くなればそれだけ帰るのがだるくなるし、電車も無くなる。だらだらした末、ここで雑魚寝はさすがに遠慮したい。
「それなら、駅まで送っていくよ」
帰ると言った途端、急にしゃきっとした駿太が宣言した。
「え、いいよ。すぐそこだし。危なくないでしょ」
むしろ、さっきまで寝込んでいた駿太の方が危ない気がする。送った帰り足で行き倒れとか、普通にありえそうで心配だ。
そんな私の考えに気付かないらしい駿太は、断ったというのに、きっぱりと首を振った。
「ダメ。送っていく。瑠璃は女の子なんだし」
突然フェミニストぶった事を言い出した駿太に目を見張った私は、踏み出した彼が何かに思い切り躓いたのを見て、更に驚いた。
「ちょっ!」
「うわっ」
情けない声に合わせて、蹴飛ばされた駿太の通勤鞄が床の上をくるくる回る。きちんと閉まっていなかったらしい蓋が開いて、中からバインダーやらペンやらが散乱した。
「何やってんのよ、もう……」
つくづく決まらない駿太に笑いが込み上げる。足元まで飛んできたシステム手帳を拾い上げた私は、挟まれていたらしい紙が斜めに飛び出ているのに気付いて戻そうとした。
「あ! それ見るなっ!」
「え?」
がばっと顔を上げた駿太は一足飛びに近づいて、私の手ごとシステム手帳を掴んだ。乱暴に引かれたせいで、挟んであった紙が床に落ちる。
つい目で追ってしまったそれは、春先に行われた後輩の卒業祝いパーティの時のスナップ写真。
「あれ……これ、こないだの……」
後輩がおふざけで撮ってくれた私と駿太のツーショット。苦笑いな駿太に、酔っ払いな私が腕を組んでピースサインをしている。焼き増しして同じのを持っている私には、見慣れた写真だった。
どうして、これを見ちゃダメ?
酔っ払いといっても、醜態を晒している訳でも無い。まぁ他人からすれば面白くも何とも無い写真だけど、見られて困る事も無いと思う。
「ねえ、何でこれ……」
見上げた駿太は表情が強張り、耳まで真っ赤だった。
「聞くなよ!」
言うなり、抱き締められる。思ったより大きな駿太の身体に、私は持ったままの手帳ごと包まれた。
頬の辺りに駿太の鼓動を感じる。すっごいドキドキしていて有り得ないくらい速い。状況がよく判らず、ぼうっとした私の目に、黒い手帳が映った。
多分、仕事用のシステム手帳。アルバムじゃないそれに挟んであった写真。写っているのは駿太と、私……それは……。
「ねー、駿太?」
「だから、聞くなってば」
聞くなと言いながら、背中にまわされた腕がぎゅうぎゅう私を締め付ける。言っている事と、やっている事が伴っていない。
「……だって、聞かなきゃ判らないじゃないの」
この状態で出てくる答えなんて1つしか無いんだろうけど、1番大事なところを察しろなんてあんまりだ。
駿太は更に強く私を抱き締めて、何かに耐えるみたいに低く唸った。
「瑠璃の事、好きなんだよ。悪いか」
恥ずかしさが限界を超えたのか、ぶっきらぼうに言い放って開き直る。やっぱり格好良く決められない辺りが、駿太らしい。
「悪くは無いけど……驚いた」
素直な気持ちを口にした。
もう長い事、友達を続けてきたから、駿太がそんな気持ちでいたなんて考えもしなかった。
駿太はそっと私を離すと、むこうを向いてしゃがみ込み長い溜息をついた。
「あー、もう、最悪……言うつもりじゃなかったのに」
項垂れて頭を抱えた駿太を上から見つめる。女の人みたいに色っぽくは無いけど、太い首と広い肩。今まで意識して見ていなかっただけで、ちゃんとした男の駿太がそこにいた。
抱き締められた時の感触を思い出して、妙に落ち着かない気分になった。
「言うつもり無かったって……一生、隠し続ける気だったの?」
「だって瑠璃、俺の事なんて全然気にしてないし。言ったら断られて、会う事もできなくなるだろ。メールとか電話だって……」
初めて駿太の存在を意識したあの時、振られると判っていて堂々と告白した彼が、今回はくよくよ悩んでいた事に驚いた。
「高校の時は、それでも告ったのに?」
ばっと顔を上げ振り向いた駿太は、私を見上げて思い切り嫌そうな顔をした。
「あの時は結果判ってたし、けじめって言うか、そういうつもりだったから……」
ぼそぼそと吐き出された言い訳は、尻すぼみになって途切れた。
断られると思い込んでいるなら、結論は同じ筈なのに、何が違うのだろう。不思議そうな私の表情を読んだらしい駿太は、また視線を逸らして俯いてしまった。
「瑠璃は違う。何があっても、離れるとか絶対嫌だ」
低い、自分に言い聞かせるみたいな呟き。
どくっと大きく心臓が跳ねた。
あー……どうしよう、これはちょっと嬉しい。かなり遠まわしだけど「特別」って事だよね……。
今まで考えなかった可能性に、ドキドキしてきた。
背中を向けてしゃがんでいる駿太の隣に、同じように座る。触れた彼の膝がびくっと反応した。
「駿太」
間近で名前を呼ぶ。俯いたままの表情は判らないけれど、相変わらず赤く染まった耳が、鼓動に合わせて震えていた。
「しゅーんたー?」
返事が無いから肩を突付くと、ふいっと顔を背けた。
「……聞きたくない」
子供かい!
私は内心でツッコミを入れてから、ふうっと息を吐いて肩の力を抜いた。
「じゃ、言わないから、こっち向いて?」
恐る恐るって感じで、駿太が顔を上げる。上目遣いでこっちを見た彼の頬を両手で包むと、有無を言わさず唇を合わせた。
駿太の唇は、思ったよりしっとりしてて柔らかかった。
触れるだけのキスをして、顔を離すと、細い目を極限まで開いた駿太が瞬きもせずに、どてっと尻餅をついた。顔色が赤を通り越して黒っぽくなってる。
「あ、な、な……なに……」
「何って、キスでしょ。した事無いの?」
私の問いかけに、駿太は思い切り首を振る。まさかとは思ったけど、本当にした事が無かったらしい。あからさまにうろたえる姿が、ちょっと可愛いと思ってしまった。
「何で、そんな」
「うん。試してみたの。生理的にどうかな、と思って」
「え?」
きょとんとする駿太に、笑って見せた。
「いきなりで、まだ好きとかは無いけど、キスするの嫌じゃないから付き合ってもいいよ?」
「うぇえええっ?!」
お化けでも見たのかってくらいの驚愕の表情を浮かべた駿太が、謎の奇声を上げた。
今時、リアクション芸人でもそんな反応しないだろう。
「そんなに驚かなくても……嫌なの?」
「い、嫌じゃない! けど、つ、付き合うって言うのは、好き合っている同士がっ」
「はいはい、わかったわかった」
年齢に見合ってない駿太の青臭い持論を途中で遮る。こと恋愛に関して奥手そうだとは思っていたけれど、どうやら私の想像を遥かに超える純情青年だったらしい。
古代魚並みの希少さだと思うのと同時に、生きる化石の駿太を救えるのは私だけなんじゃないかって気がしてきてしまった。
「駿太さぁ、世の中の恋人同士の全部が、付き合い始める時から両想いだとでも思ってるの?」
「だから、それまで友達で」
「そりゃ中にはそういう人たちもいるけど、とりあえず付き合ってみて段々好きになる人もいる訳よ」
「で、でも、先に付き合ったら、好きでも無いのにキスとか、その……」
駿太は真っ赤な顔で超しどろもどろに意見を述べている。思わず吹き出しそうになった私は唇を噛んで笑いを堪えた。
「えっちとか?」
わざと言葉にすると、駿太は身体を震わせ飛び上がった。
「瑠璃!」
悪いけど、面白い。
「まぁ、その辺はケースバイケースだよ。付き合ってるからってすぐにしなくても良いんだし。それにさっきも言ったけど、生理的にダメだなって人とは無理だから、結局付き合うって返事してる段階で、好きになりかかってるんだと思うけどね」
余りからかうのも可哀相なので、真面目に答える。
最後まで黙って聞いていた駿太は、急に神妙な顔をしてじっとこちらを見つめた。
「……瑠璃も?」
「うん。多分ね」
また、じわーっと赤面した駿太は膝を抱えて俯く。
「嬉しい」
こぼれた言葉に、私も嬉しくなった。
「で、駿太」
「ん?」
下を見たまま動かない駿太に、そっと近づく。息が掛かるように、わざと唇を耳元に寄せた。
「話してるうちに終電過ぎてて帰れないんだけど……どうしよっか?」
びしりと駿太が固まったのが判る。
ばれないように必死で声を殺して笑った私は、駿太の首にキスをした。
……さて、これからどうなるのか。予想外の夜はまだ始まったばかり。
End
|