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 お人好しな彼と彼女

  前編

 駿太(しゅんた)は、良くない意味での「いい人」だ。

 梅雨の中休みか、珍しくからりと晴れたある土曜の夕方。特に予定の無かった私は、なんとなく駿太に電話をかけた。
 声が聞きたかったとか、そんな甘ったるい理由じゃない。そもそも私たちは恋人同士でも無い。強いて言えば、久しぶりに見えた綺麗な夕日を誰かと共感したかった……が、正解かなと思う。
 駿太は男で、ロマンチストでも無いから、一緒に夕日を眺めるのに適しているとは言い難いけれど、時間の無駄とも取れる、その行為に付き合ってくれそうな人が他にいなかった。
 1回、2回……頭の中でコールを数え、10回を越えたところで切った。
 彼が電話に出ない事を珍しいと感じながら、もうどれくらい会っていないのだろうと振り返ってみる。
 ちょくちょく電話やメールはしていた。
 親切で優しい、と言えば聞こえは良いけど、要は少し気が弱くて頼まれた事を断りきれない性格の彼が、無理をしているのではないかと不安になるから。
 でも、お互い社会人で、単なる友達……というか、近場にいるだけの同級生。元気で無事なら、時間を調整してまで会う事も無いかと、おざなりにしていた。
 少しずつ記憶を逆に辿っていく。直接会ったのは、後輩の卒業祝いの会が最後だったかも知れない。年度が明けてから一度も会っていない事に、今更驚いた。
 これまでの電話の調子に変わった所は無かったから、知らない内に転勤したとか、転職したとかは無いだろう。でも、私に話すような事ではない何か忙しくなる事情ができたのかも知れなかった。
 例えば、入れ込むような趣味を持った、責任ある仕事を任されるようになった、彼女ができた……。可能性を指折り数えてみたものの、どれもこれも駿太の人となりからは想像がつかなかった。
 まぁ、でも、最後の可能性は無い事も無いのかな、と思う。
 全体的に頼りなく見える駿太は、恋愛対象になりにくい。「いい人なんだけどねー」で終わるタイプ。ただ根は優しいし、下らない相談も親身になって聞いてあげられるから、そういうところをちゃんと見てくれる子に出逢えれば、上手くいくはず。
 会わない間に、そんな人が現れたのかも知れないと考えた私は、妙な違和感を覚えた。
 痛みじゃない、うっすらとした喪失感。大事に育てた雛が巣立つような、息子が結婚する時の母親みたいな……て、私は別に駿太の母親じゃないし、大事に育ててもいない。何を考えてるのかと我ながら可笑しくなった。
 夕日に照らされたアパートで一人笑っていると、携帯が鳴り出した。
 さっきかけた電話の折り返しだという事は確認しなくても判る。笑いながら携帯を掴んだ私は、なんだか無性に駿太に会いたくなっていた。

 寝起きらしい電話ごしの彼は明らかに調子が悪そうで、病気かと心配した私は、単なる二日酔いと聞いて脱力した。結局ひとしきり笑い者にさせて貰った後、様子を見に行くと言って電話を切った。
 最寄から2つ先の駅で降りた私は、コンビニで適当に食べる物を買ってから駿太のアパートへ向かった。
 そこそこな築年数の、こぢんまりしたコーポ。年代も立地も家賃も、ウチとほとんど変わり無い駿太の部屋のドアをノックした。
「駿太、来たよー」
 まだ夕方だし、近所迷惑にもならないだろうと声をかける。
 少ししてドアを開けてくれた駿太の顔色は、青いを通り越して、白っぽくなっていた。
「……瑠璃(るり)」
 ぼそりと私の名前を呼んだ声も、覇気が無い。本当に酷い二日酔いらしい。
 よろよろとベッドに戻っていく駿太の後に続いて上がり込んだ私は、挨拶も抜きで勝手に冷蔵庫を開け、買って来た物を詰め込んだ。
「それにしても、何でそんなに飲んだの? 強くないって自分でも言ってたじゃない」
 はっきり言って駿太は酒に弱い。体質的に合わないんだろう。だから仲間内で会う時も、最初の乾杯だけで止めるか、ソフトドリンクオンリーで介抱役にまわる事が多かった。
 横になった駿太は億劫そうに寝返りを打ってこちらを見ると、気だるい溜息をついた。
「夕べ、後輩に誘われて。そいつ最近、彼女にふられたとかで荒れてて……」
「で、勧められて、断れなかった?」
「うん」
 相手が後輩でも断れない辺りが、実に駿太らしいというか何と言うか。情けなさに呆れるよりも、いつも通りの彼に少しほっとした。
「でも、気をつけないと。急性アル中にでもなったら危ないよ。……スポーツドリンク買って来たけど、飲む?」
「うん。ありがとう」
 母親みたいな私の小言にも嫌な顔をせず、駿太はほんのり笑う。ちょっとだけ、可愛いと思ってしまった。
 私からペットボトルを受け取った駿太は、喉が渇いていたらしく一気飲みし、また寝転ぶ。
 空のボトルを受け取り、もう1本を出して置こうと冷蔵庫まで戻った私は、後ろを振り返った。
「ご飯は?」
「食欲無い……」
 一体どれくらい飲んだのか知らないけど、顔色を見る限りでは相当きついようだ。
 想像通りの答えに頷いた私は、替えのドリンクだけを出して冷蔵庫を閉めた。
「じゃ、もう少し寝た方が良いかもね。二日酔いには寝るのが一番効くらしいよ」
「ん……瑠璃は何か用あったんじゃないの?」
 あったような、無かったような。もともと大した用じゃないから言うべきか迷う。
 見下ろした駿太は、まだ残っている夕焼けでオレンジがかって見えた。ここは西側の角部屋だから夕日がもろに入り込む。窓の外へ目をやった私は、同じように染まっているはずの自分を想像して、首を振った。
「あったけど、もう済んだからいい」
「そう?」
 当たり前だけど、不思議そうな顔をした駿太に向けて、頷いて見せた。
 ベッドのすぐ下、手を伸ばせば届く場所にボトルを置く。
「ここ置いとくね。あと勝手に帰るから、寝てていいよ。鍵はポストに入れとくし。お腹が空いたら冷蔵庫に」
「あ……」
 ふとこぼれた呟きに気付いて、彼を見つめた。
「なに?」
「いや、ごめん。何でも無い」
 一瞬縋るような目で私を見上げた駿太は、すぐに視線を逸らした。
 同じように一人暮らしをしている私には彼の気持ちがなんとなく判った。体調が悪い時に感じる、寂しいまではいかない、心細さ。頭では大丈夫だと判っているのに、治まらない不安。
「やっぱり、帰るの止めた」
「えっ」
 驚く駿太を尻目に、私はぐるりと室内を見回し、これ見よがしに溜息をついた。ちょっと偉そうに腕も組んでみる。
「駿太の部屋、散らかり過ぎ。寝てる間に少し片付けて置くよ」
 本当はそんなに散らかってない。まぁ綺麗でも無いけど。男の部屋ならこんなもんだよね、て感じ。
 普段から女らしくない事を自覚している私が「起きるまで見ててあげる」なんて、恥ずかしくて言えないだけで、理由は何でも良かった。
「それは、ちょっと……」
 部屋を弄られる事に抵抗のあるらしい駿太が、目に見えて焦りだす。当然、後ろめたい何かがあるんだろうと思った私は、わざとらしくにやりと笑った。
「クローゼット開けたり、ベッドの下漁ったりはしないよ。それとも、えっちな本とかその辺に放置してるの?」
「無いよ!」
 少し血色の戻った駿太が吼える。声を上げた事でまた状態が悪化したのか、唸りながら頭を抱え、またベッドに沈んだ。
「なら良いじゃない。もしあっても見なかった事にしておくし。うるさくはしないから、寝てなよ」
「……だから、無いって」
 枕に突っ伏したまま、ぼそぼそと否定する声が聞こえる。
 往生際が悪い……じゃなくて、男兄弟のいる私としては別に驚く事でもないから、どうでも良かった。
「ね、タオル借りるね」
「ん……うん」
 カーテンレールにかけてある洗濯ハンガーからハンドタオルを取って、流しで濡らす。戻って額に乗せるように言うと、駿太が驚いた顔をした。
「熱無くても、冷やしたら気持ちいいじゃない。そんなに驚く事?」
 ウチの実家では頭痛の時いつも冷やしていたのだけど、普通は違うのだろうか。
 私が首を傾げると、駿太は心底困ったように眉を寄せた。
「そうじゃなくて。瑠璃が凄い優しいから、何か……」
 駿太は私の柄じゃないと言いたいのだろうけど、遠まわしな言い方が逆にむかついた。
「何かって何よ。普段は優しくなくて悪かったわね。そんな事言うなら、すぐ帰っても良いんだけど?」
「それは、嫌だ」
 立ち上がりかけた私の手を、駿太が掴む。見上げる瞳が捨てられた犬みたいに必死で、変な罪悪感を覚えた。
 掴まれた手をそっと外し、肌掛けを直してやる。額のタオルを裏返してまた乗せると冷たかったのか、駿太は首を竦めた。
「ちゃんと寝てよ。起きるまでいるから」
「ん……ごめん、瑠璃……」
「いいよ」
 ベッドの脇に座って見ているうちに、駿太の呼吸が穏やかになった。
 無防備な寝顔を見つめた私は、高校、大学、社会人と結構な年数の付き合いがあるのに、彼の寝顔を見たのが初めてだったと今更気付いていた。

 眠る前、駿太は「荒れていた後輩に勧められ相当飲んだ」というような事を言っていたけれど、果たして何時まで付き合わされたのか、日が暮れても、明かりをつけても、一向に起きる気配が無かった。
 暇を持て余した私は、できるだけ物音を立てないように部屋を片付け、崩れかかっていた本を立て直した。それから床を拭いて、風呂とトイレ、キッチンまでざっと掃除した。更にご飯を炊いて、余りもので雑炊を作る準備までしてしまった。
 時計は既に8時。暇も空腹もピークに達していた私は、駿太を揺り起こした。
「駿太、起きて。もう8時だよ。いいかげん起きないと、夜寝られなくなるよ」
 本当の理由は隠して、後付けのもっともらしい事を言う。
 薄く目を開けた駿太は、寝惚けているのか、私がいる事に驚いたようだった。
「あ、瑠璃、何で……?」
「何でって、駿太が帰るなって言ったんでしょう」
「え……」
 眠る前よりもずっと良くなった顔色が、みるみる赤く染まる。まだぼんやりしながらうろたえる様が面白かった。
 間髪入れずにバスタオルを渡すと、ぽかんとした彼が、私と手の中のタオルを見比べた。
「お風呂できてるから、入って目覚ましておいでよ。その間にご飯の準備しておくから」
「えっ、あ、うん」
 落ち着きなく視線を彷徨わせている駿太を、風呂場に追い立てる。ままごとのようなやりとりが、やけに楽しい。
 来た時よりも、大分すっきりした室内を見回した私は、一度頷いてからキッチンへと向き直った。

   

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