彼の名も知らない
2
呆然としたまま連れて行かれたホテルで、女はほとんど無理矢理バスルームに押し込められた。男の行動の理由が判らなかったものの、シャワーを浴びてしまわない事には教えても貰えないだろうと素直に従った。
風呂上りにきっちりと着込むのは心地良いものでは無かったが、備え付けのバスローブを着る気にならなかったので、ブラウスとスカートを身に着けた。
窓際で缶ビールを飲んでいた男は、女の格好に意外そうな顔をしてから、ふっと微笑んだ。
「少しは落ち着いた?」
「あ……はい」
酒の事かと思った女は素直に応じる。酔いが醒めかけた時にシャワーを浴びたおかげで、普段とそう変わらない程まで回復していた。
男は手にしていたビールの缶をぐっと潰して、ゴミ箱に捨てた。その仕草に心がざわめく。
「俺も入ってくるかな……あ、そこにジュースあるから、飲んでいいよ」
見れば、サイドテーブルにレトロなパッケージのオレンジジュースが載せてあった。
「……どうも」
気付かれないように、部屋の隅の冷蔵庫を見る。いつ出てくるか判らない女の為に、冷蔵庫から出してわざとぬるくしておくとは考えにくい。女は男の意図が読めずに眉を寄せた。
こちらの不信な表情を読んだのか、男はにやりと口の端を上げる。
「変なもんは入れて無いから、安心して。冷蔵庫のが高いから、廊下の自販機で買ってきただけ。心配なら自分で出して飲んでもいいけど、もうアルコールは止めときなよ」
疑っていた事を指摘された女は、恥ずかしさから頬を染めた。
「い、言われなくても……もう今日は飲みません」
「ああ、そうして。じゃ、俺も風呂入ってくるけど、そのまま帰っても良いから」
バスルームへ向かう男の背中を、呆然と見送る。ドアが閉まり切った時の金属音で我に帰った女は、結局、理由を聞きそびれたという事に、やっと気が付いた。
(……どういうことなんだろう)
さっきまで男が座っていた1人掛け用のソファにおさまった女は、勧められたジュースを飲みながら状況を顧みていた。
ホテルに、成人している男と女。互いに見ず知らずとはいえ、普通に考えれば、この先に起きる事は想像に難くない。しかし、女は自分の恥ずかしい性癖を、男に話した。それを知ってなお、彼は自分を抱こうと言うのだろうか。
また浮かびそうになった恋人の幻影に、女はソファに座ったまま膝を抱える。
さっき、男は確かに「証明する」と言った。証明とは何だろう。
何も始まらない内に、ここを去るべきだと頭では理解しているのに、女は動く事ができなかった。
しばらくしてバスルームから顔を出した男は、窓際の女を見つけ「まだ、いたんだ」と呟いた。
その驚きの含まれた声音に、女は僅かに憤る。まるで帰る事を期待していたように聞こえたからだ。
「いたら、いけませんか?」
ムッとして言い返すと、男は面白そうに苦笑する。
「まさか。嬉しいよ。でも、いいの? この状況で何もしないで帰すほど、俺いい奴じゃないよ」
ふいに鈍い光を帯びた男の視線に、どくりと胸が震えた。今更沸いてきた羞恥と期待で鼓動が速まる。
女はどんどん加速していく心臓を治める為に胸に手をあて、まっすぐに男を見つめた。
「あの。証明って……何ですか?」
噛み合わない女の問いに男は一瞬面食らったようだが、すぐに思い出したのか、わざとらしく笑いはぐらかした。
「……さっきの話、ね。それは実地で教えてやるよ」
「え?」
(実地……?)
ますます判らない女は、更に詳しく聞こうと身を乗り出したものの、男の笑顔に遮られた。彼の笑顔は見た目は優しく穏やかだが、有無を言わさないような雰囲気がある。
得体の知れない男にかすかな恐怖を感じるのと共に、甘美な興奮を覚えた。
女が僅かに頬を染めた事には気付いていないのか、男は閉じられているカーテンを片側だけ開き、灯されていたベッドサイドのランプを消した。真っ暗になるかと思いきや、群青の光が窓から降り注いでいる。予想外に外は明るいらしい。
「とりあえず約束事と、提案と、質問があるんだけど、いい?」
「……はい」
女は訳が判らないながらも、素直に応じた。
何故この男に従うのか、自分でも理解できない。失恋と深酒のせいで判断力がおかしくなっているのかも知れなかった。
「まずは約束。一つ目は、お互いに詮索しない事。二つ目は、俺の言う事には絶対に従う事。……あ、もちろん無茶な要求はしないよ」
「はい」
普通に考えたら眉を顰めるような約束も、すんなりと受け入れられる。服従を強いられた事に気付いた女は、悩ましげな息を吐いた。
「次は、提案だけど。お互いに名前を付け合わないか? 呼び名が無いと不便だし、どうせ偽名にするなら、相手に付けて貰った方がしっくりくるだろ?」
「そう、ですね」
男が要ると言うのなら、偽名は必要なのだろうし、それならば付け合うのも面白いかも知れない。
女が頷くと、男は満足そうに目を細めて、窓の外を見つめた。
「きみは……ミヅキ。今日は満月だからね」
「ミヅキ、満月……」
与えられた名前を、口の中で復唱する。男のセンスをとやかく言うつもりは無いが、全く満たされていない自分には不似合いな名前だと思った。
「俺の事も、好きに呼んでいいよ。何なら……彼氏の名前でも」
一瞬、顔を強張らせた女は、視線を落としてゆっくり頭を振る。男を彼の名で呼んだところで、代わりになる訳が無い。
「……ハル。あなたの事はハルと呼びます」
女は眩しそうに目を細めると、理由を聞きたそうにしている男に向かって、もう一度首を横に振った。
ハルは太陽の陽。月を照らすのも消すのも、全ては太陽の光。女には、男が太陽のように強く輝いて見えていた。
「それじゃ、最後にいくつか質問。どんな事でも必ず答える事。嘘は無し。いいね、ミヅキ?」
「あ……わかり、ました」
最初に服従を誓わされたのは、こういう事だったのかと思い当たる。ミヅキはソファの中で身を縮め、不安を隠すために固く手を握った。
ハルは向かい側のソファに座り、問診する医者のように淡々と質問を口にした。
「今まで、セックスで満足した事はある?」
当たり前だが、答えにくい質問を突きつけられた事に少し躊躇する。酔っていた時ならともかく、平静に戻りつつあるミヅキは羞恥から赤面し俯いた。
「どうなの、ミヅキ?」
拒否やはぐらかしは許さないと言わんばかりの声音に、ミヅキの胸が鳴った。
「……あり、ません」
「なら、一人でしてる時は? 気持ちいい?」
更なる質問に、言葉が詰まる。暗い室内で射抜くように真っ直ぐ向けられる彼の視線を感じ、震えた。
「はい……気持ちいい、です」
直接何かをされているわけでも無いのに、恥ずかしい事を言わされているというだけで息が上がる。ミヅキは荒い呼吸をしながら、膝頭を擦り合わせた。
「それは、どういうのを想像しながらするの?」
「う……」
「答えて」
言い淀む自分に下る冷酷な命令。ミヅキは倒錯的な興奮を感じながら、苦しそうに喘いだ。
「はぁ……あ……し、縛られて……酷い事、言われたり……」
「ふぅん。目隠しは、好き?」
一人乱れるミヅキとは対照的に、ハルは冷静に言葉を紡ぐ。
「んぅ……す、好き……」
思わず目を閉じたミヅキは、脳裏に拘束され視界を奪われた自分を描いて、ごくりと喉を鳴らした。
「なるほどね」
低く笑ったハルを見るより早く、ミヅキは腕を掴まれ、頭の上に引き上げられた。目の前に広がるふわふわした白っぽい布地が、彼の纏うバスローブだと気付くのと同時に、手首にひやりとした滑らかなものを感じる。身を捩って見上げた先には、交差した形で細長い布の巻かれた手首が見えた。
「え……」
とっさに両腕を動かそうとしてみるが、しっかり固定されているらしく離れる気配は無い。
「ごめん、急だったからネクタイしか無いんだ。痛くない?」
身を屈めたハルが顔を覗き込む。何でもない事のように陰りの無い彼の表情。
呆然としたまま、ミヅキは首を縦に振った。
満足そうににっこりと笑ったハルは、ミヅキの目の前でおもむろにバスローブのベルトを解いた。はだけるのに合わせて彼の胸元が見えたので、恥ずかしさから顔を背けると、瞼に外したベルトをあてがわれる。
「あっ」
「後ろは邪魔になるだろうから、横で結んでおくよ」
耳のすぐ傍で、布が擦れ引き絞られる音が聞こえた。きつくは無いものの、瞼が上げられない。
望んだ通りに縛られ、目隠しされた事にミヅキは息を飲んだ。
「ハル……?」
何も見えない不安から名を呼ぶと、間近にいるらしいハルはくくっとかすかに笑い、ミヅキの耳朶を緩く噛んで舐めた。
「ミヅキがしたいように、してやるよ。それでも俺は平気だし、むしろ興奮するんだって事、証明する」
「あ、証明って……」
「そういう事。だから、覚悟して」
急に低くなった声に、心臓が騒ぎ出す。熱く脈打つ耳を這う濡れたハルの唇を感じながら、ミヅキは吐息混じりの声を上げた。
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