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 彼の名も知らない

 1
 週末のダイニングバー。
 いつも彼氏と待ち合わせていた店のカウンターに一人座っている女は、次々と煽った酒のせいでぐらぐらする頭をテーブルに乗せ目を閉じた。
 火照った耳に触れる無機質な冷たさが気持ちいい。下ろした瞼の内側が落ち着き無く揺れ続けていた。
 良くない意味で興奮している女が眠気を感じる事は無かったが、暗闇を漂うような感覚にうっとりした。
 これまで気にならなかった騒がしい店内の音が、やけにはっきりと響く。注文を受ける店員の声、動き。客の笑い声。食器の擦れる音。それらをしばらく聞いていると、空いていたはずの隣席に誰かが座る気配がした。
 ゆっくり瞼を上げる。カウンターに突っ伏した状態から目線を上げると、座りかけた男が驚いた顔をしていた。
「……あ、すみません。ここ、開いてますか?」
「どうぞ」
 頭を持ち上げるのも、笑顔を作るのも億劫な女は、無表情のまま淡々と答えた。
 先週までの自分なら「もうすぐ連れが来るから」と断ったかも知れない。ここで待ち合わせていた男は、余程の事が無い限り時間に遅れる事は無かったし、遅れるのならきちんと連絡をくれる人だった。
 そういう真面目で律儀なところを愛していた。紹介した友人からは「面白みが足りない」と言われていたが、それでも良かった。結婚も……夢見ていた。
 ただぼんやりと空を見つめていた瞳に涙が浮かび、零れる。一度溢れ出た涙は止まらず、テーブルの上に流れ落ちた。
「え……」
 かすかな呟きと、息を詰める音に気付いて見れば、隣の男がぎょっとしている。
 見ず知らずとはいえ、週末の夜に女が一人で潰れて泣いているのだ。誰だって気になるし、間近にいれば驚くだろう。
 まずいものを見たと言わんばかりに視線を逸らされた女は、僅かに顔をしかめ、ふらつく身体を起こした。染みになるのも構わずにスーツの袖で涙を拭う。泣いたのに加え、擦ったせいでメイクもぼろぼろだろうが、そんな事を気にする余裕は無かった。
 飲み代を払い、何とか立ち上がる。さりげなく向けられた男の視線を真っ向から受け止め、見つめた。
「失恋中なんです。男に振られたの……」
 それだけ言い切って踵を返す。
 赤の他人、それも隣に座っただけの人にそんな事を言って何になるのか、自分でも判らない。ただ、笑いたければ笑えという自棄っぱちな気持ちが心に渦巻いていた。

 店を出て、帰宅するために駅へ向かった女は、目と鼻の先に見える大通りにすら辿り着けないまま、動けなくなってしまった。
 もともと強くないのに無理に自棄酒したせいで、身体中が酷くだるい。
 やっとの事で外灯の下まで移動すると、外観重視の華奢な鉄柱にすがり付いた。吐き気は無いが、とにかく世界中が物凄い速さで回っていて、立っているのもやっとだ。
 道行く人の好奇な視線を感じながら、息を吐く。このまま蹲ってしまおうかと思い始めた時、後ろからぐいと肩を掴まれた。
「ちょっと、大丈夫ですか?!」
 ついさっき聞いたばかりの声が頭上から聞こえる。見上げた先には、やはり先ほど隣に座っていた男が立っていた。
「なんで……」
 酔っているせいで朦朧とする思考では、状況が把握できない。そのままぼうっとしていると、男はあからさまに嫌そうな溜息をついた。
「そんな状態で一人で歩けるわけ無いでしょう。タクシー呼びますから待っていて下さい」
「いい、です。放っておいて……」
 緩慢な動きで腕を振り払った女は、鉄柱にしなだれかかった。
「放っておけって言われてもね……そのまま変なのに捕まったらどうするんですか。どこかに連れ込まれたって文句言えないですよ?」
 おせっかいな男の呆れ声に、女はくつくつと肩を揺らす。抑え切れない笑い声が口の端から零れた。
「それ、いいかも。私には、お似合いだわ」
「は? なに言って……」
 笑い続ける女の脳裏に、眉根を寄せた想い人の顔が浮かぶ。彼はあの時、軽蔑を滲ませた表情で女の話を笑った。
「私、変態なの。気持ち悪いんですって……」
「……」
 けらけら笑う女の瞳から、新たな雫が溢れ頬を伝う。楽しそうに可笑しそうに声を上げながら、女は止め処なく涙を流し続けた。

 自分が普通では無いのじゃないかという不安は、思春期を迎えた頃からあった。
 周りの女子生徒は美形の子や、スポーツや学問に秀でた子に色めき立っていたというのに、自分は彼らに全く興味が無かった。
 かといって恋愛に奥手な性分なのかと思いきや、普段は地味で大人しい子が見せる男っぽい荒々しさや、乱暴な部分にときめいてしまう。
 身体の成熟と共に思い描くようになった性的な空想は、愛し合う二人が優しく睦み会う場面などでは無く、いつも半ば強引に奪われるようなシーンだった。
 そのまま数年が過ぎ、気付き始めた性癖を無視し続けていた女にも、やがて恋人ができた。高校生同士の初々しい恋愛を段階的に1年続け、ふたりは結ばれた。
 今振り返っても彼はとても優しい人で、初めてだった女を割れ物のように扱ってくれた。けれど、彼の想いを嬉しく感じる心とうらはらに、身体は満足しない。もっと荒っぽく触れて欲しいのに言えないもどかしさを女は隠し続けた。
 結局、大学の離れたふたりは自然消滅に近い形で別れた。決定的な原因は無かったものの、セックスに対する温度差が影響した事は否めなかった。
 それから……28歳になるまでの女の恋愛遍歴は、同じ事の繰り返し。
 普段は穏やかに優しくされたいのに、時折荒っぽく、特にベッドの中で乱暴に扱われたいという女は、相手を好きになればなるほど本当の事を告げられ無かった。だが隠し通そうにも、欲望に正直な身体は言う事を聞かない。そして、ぎくしゃくしだした関係は修復される事無く破綻する。
 女は別れに傷つく度に、自分を責め続けてきた。

 止まらない涙を拭うために男から渡されたハンカチを瞼に押し付けて、女はしゃくりあげる。
 終バスの行ってしまったバス停のベンチに座り、おせっかいな男に自分の秘密と、これまでの事を全部ぶちまけた。
 相手が誰だろうと構わなかったし、どんな目で見られようと、もうどうでもいい。自分だけでは抱え切れないほど膨張した辛さを吐き出せれば、それで良かった。
 無関係なのに黙って全てを聞き終えた男は、気恥ずかしそうに視線を逸らしたものの、女を馬鹿にする事も蔑む事もしなかった。
「…その…あなたが望んでるのは、そんなにおかしい事じゃないと思うけどな…」
「ありがとう……嘘でも、少し楽になりました」
 広げたハンカチに顔を埋めて、女は小声で礼を言う。顔を覆っているせいで男の表情は見えないが、こんな話をされて恐らく困っているだろうと思った。
 女の言葉を聞いた男は、何かを考える時のように低く唸ると、ごく真面目な声音で語りだした。
「俺の経験でもあるけど、友達とかの話聞いても、ちょっとMっぽい女の人って割と多いし。あなたが他の人よりも少しだけ、そういう欲求が強いだけで、そこまで卑下する事では無いよ」
「……」
 肯定も否定もできずに、男を見つめる。
 まだぼうっとするものの幾分か酔いの醒めて来た女は、この男が自分の相談に乗ってくれているのを不思議に思った。
「男だってさ、そういうの喜ぶ奴は結構多いんだよ……あなたの付き合っていた男が、偶然そうじゃなかっただけで」
 治まりかけていた胸の奥の痛みが、また疼きだす。
 最後にホテルで会った時、身体の相性の悪い女を訝しむ男に、勇気を振り絞って秘密を打ち明けた。それだけ彼を信頼していたし、本気だったから……。
 だが恋人は侮蔑を含んだ顔を醜く歪ませて、女を嘲笑い詰った。去り際に気持ちが悪いと吐き棄てられ、それきり連絡が取れなくなった。
「失いたく無かったんです。彼を愛していたの。だから、悲しくて、辛くて…でも…」
 ほの暗い光を湛えた女の瞳に、再び涙が盛り上がり頬を伝い落ちた。
「あの人に酷い事を言われているのに、気持ちが、良かっ……! 私なんで、こんな……おかし、のぉ……っ」
 ぶるぶると唇を震わせた女は嗚咽混じりに声を荒げ、ぎゅっと目を瞑る。押し出された涙が、立て続けに流れた。
 己の中に潜むおぞましい欲望に怯え、女は身を縮める。
 やがて、血の気が引くほど硬く握りしめた手に、そっと何かが触れた。
 暖かく張りのある感触。両手を包まれたところで、ゆるゆると瞼を上げた女は、視線の先に自分の物では無い骨ばった大きな手を見つけた。
 手を掴まれている状況が読めずに、女は涙で濡れた瞳を彼に向ける。
 視線をかわすように顔を反らした男は、深く長い溜息をついてから女の手を引っぱり上げた。
「泣くなよ。別におかしくないって言ったろ。良くある事だって」
「……でも」
 納得できない女が言い淀むと、男はそのまま手を引いて歩き出す。
「証明、してやるよ」
「え……?」
 驚いて目を見張った。どういう事かを聞き返そうとした女の言葉に返事は無い。
 素性も何も知らない男の促すまま、女は歩を進めた。突然の事に混乱していたせいで、いつの間にか涙が止まっている事にすら気付いていなかった。

   

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