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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  夜空に愛を



 褒められた行為でないとわかっていても居留守を使ってしまいたかった。けれど何回も続けてチャイムを鳴らされれば、出ないわけにもいかない。
 しぶしぶといった体で啓也が応対に出ると、インターフォンの向こうの春日さんは、スピーカー通話並みに大きな声で「文緒は来ていないか!?」と怒鳴った。
「来ておられませんが、どうかされたんですか?」
 気づかれないように短く息を吐いた彼が、ごく冷静に答える。
 啓也の態度で少し落ち着いたのか、画面の向こうの春日さんは何かを一生懸命、説明していた。
 あいづちを打ちながら、少しの間、話し込んだ啓也は、春日さんに「待っていてください」と言い置いて通話を切った。
「……啓也?」
 妙な不安を覚えて、声をかける。振り返った彼はこれ以上ないくらい面倒くさそうな表情を浮かべ、自分の首を撫でた。
「文緒さんが、行方不明らしい」
「えっ!」
 予想外の話に目を見開く。
 驚く私とは対照的に、啓也は気だるげに溜息をついた。
 十五分後、私は啓也の運転する車に乗っていた。後部座席には相変わらず偉そうな態度の春日さんがいる。
 あのあとどこかへ電話をかけた啓也は、文緒さんのもとへ春日さんを連れて行くと言った。
 父親さえわからない彼女の居場所をどうやって調べたのかとか、どうしてわざわざ連れて行くのかとか色々な疑問はあったものの、緊急事態だから詮索するのは控えた。
 実のところ私がついて来ることはなかったのだけど、帰国してすぐに出かける彼が心配だったし、嫉妬めいた不安も……なかったとは言えない。そうして私たちは三人で文緒さんのところへ向かうことになった。
「……文緒はどこにいるんだね。あれは今、子を身篭っているんだ」
 イライラした様子で春日さんが問う。心配のしすぎで感情が怒りにシフトしているらしい。この事態では無理もないのかもしれないけど、ほとんど無関係な私たちを巻き込んでおきながらの尊大な態度に、またムカついた。
 啓也にとっては春日さんが偉そうにしているのなんていつものことなのか、飄々と受け止めている。
「存じています。大丈夫ですよ、お相手の方とご一緒ですから。何かあれば彼が対応してくれます」
「えっ、啓也、文緒さんの恋人を知ってるの?」
 驚いて思わず口を挟んでしまった。
 苦笑した啓也は、前を見ながらうなずいた。
「ああ。文緒さん経由で紹介されてね。さっき電話をかけたのは、その彼の携帯だよ」
 文緒さんに直接連絡がつかなくても、彼氏さんなら居場所を知っている可能性が高い。なるほど納得だけど、春日さんも知らない恋人の素性を啓也が知っていることに疑問を覚えた。
 春日さんも私と同じことを思ったのか、後ろから声高にがなり立てる。
「どういうことだね。なぜ誰も知らないものを君が知っている。一体、相手は誰だ!」
 どうでもいいけど、いちいち声が大きい。狭い車内でうるさいったらなかった。その横柄な態度にさすがの啓也もうんざりしたのか、静かに溜息をつく。
「落ち着いてください。まだ一時間近くかかりますから、その間にお話します。文緒さんが話せなかった理由も全て。おふたりに許可は貰っていますから」
 淡々と答える啓也に、春日さんはぐっと口をつぐんだ。怒鳴り散らしてもしかたないと気づいたらしい。
 春日さんを黙らせたことに、私は内心で啓也に拍手を送る。
「……文緒の、子供の父親は誰なんだ。あれはいくら聞いても口を割らなかったんだぞ。どうして関係のないきみに……」
 しぼり出したような声に寂しさが混じっていた。行きすぎなのは否めないけど、春日さんは文緒さんをとても大切に想っているんだろう。
「無関係だからですよ。お父様に言えば反対されるのがわかっている。下手をすれば中絶しろと言われるかもしれない。望まれない子にするくらいなら、自分ひとりで育てる方がいいと考えたんでしょうね」
 ふと文緒さんの言葉が脳裏に蘇る。彼女は「愛してほしいから言えない」と言っていた。あれはそういう意味だったらしい。
「そんな……どんな男だとて、文緒が選んだのなら私は反対しない。まして腹の子は私の孫だぞ。何故、中絶などと」
「子供の父親は、矢木さんです」
 啓也の言葉に春日さんが息を呑み、絶句する。私も目を見開いた。
「矢木さんって、運転手さんの?」
「ん。汐里、彼のこと知ってるの?」
 不思議そうな啓也に、この前マンションの前で会ったことを説明した。
「でも、なんで矢木さんじゃダメなの? 立場の違いはあるかもしれないけれど、今時そんなので反対されるなんてナンセンスじゃない?」
「確かにね。あのふたりにはなんの問題もないんだよ、ただ……」
 一旦、言葉を切り、ちらりと後ろを窺う素振りを見せた啓也は、少し肩をすくめ「ま、いっか」とつぶやいた。
「矢木さんの家は代々、春日家に仕えてきたらしいんだ。文緒さんのお爺さんが会社を興すよりもずっと前から。で、あのふたりも子供の頃から一緒にいて。まあ幼馴染ってやつだよね。それでずっと両想いだったみたい」
「へえ」
 他人ごとだからか、ちょっと運命的だなぁなんて思ってしまう。
「でも昔からのしがらみっていうか、雇う側と雇われる側の線引きがはっきりしてたから、お互いに言えなかったんだ。しかも矢木さんのお父さんていう人が、凄く昔かたぎで頑固らしくて。文緒さんとの間違いだけは、死んでも起こすなって言われながら育てられたそうだよ」
「そんな」
 一般人の私に由緒あるお家の事情はよくわからないけれど、あまりにも時代錯誤だ。子供の頃から一緒にいて自然にお互いを愛しただけなのに、そんなことで反対されるなんて、ひどすぎる。
「だから身内には言えなかった。春日さんだけならいいんだよ。良い顔はしなくても最後には許すだろうし。ただ春日さんが知れば、矢木さんの父親にも知れる」
 ここで急に声を落とした啓也は、私にだけ聞こえるように「黙って隠しておける人じゃないから」とささやき、後ろに向けて首をかたむけた。
 私も無言でうなずく。なんの証拠もないのに、赤ちゃんの父親が啓也だと疑って乗り込んでくるような人だ。知った途端に大騒ぎすることは目に見えていた。
「矢木さんのお父さんがふたりの交際を知ったら、何をするかわからないって前に文緒さんが言ってたよ。息子の不義理を死んで詫びるとか言い出しそうだって」
「ええー……」
 本当にそんな人がいることに驚いた。考え方が百年はズレている気がする。
「……あいつなら、やりかねんな」
 ぼそっと後ろから聞こえたつぶやきに、思いっきり引いた。矢木さんのお父さんは、春日さんも認めるほどの前時代的な人らしい。
「でも、それならなんで急に明かすことにしたの?」
 聞いた限りでは、何があっても矢木さんのお父さんが納得して認めてくれることはなさそうだ。
 もちろん私と啓也は言いふらしたりしないけど、春日さんに告げれば自然に伝わってしまう。それなのに、何故……
「この前、汐里に迷惑をかけて反省したって言ってたよ。他人を巻き込むくらいなら、正直に話して、許してもらえるまで何度でも頭を下げた方がいいってさ」
「……そう」
 確かにそれが一番正しい方法だけど、上手くいくとは思えない。今ちょっと聞いただけの私でも、不安になってくる。
 静かに溜息をつく。重苦しい雰囲気が車内に満ちていた。
 窓の外は既に日が落ち、暗くなっている。道路にも詳しくないし、夜道だから、今どこを走っているのかわからない。どこか大きな橋を渡ったところで、春日さんが身じろぎをした。
「まさか、矢木の実家へ向かっているのか?」
「ええ。今日は矢木さんのご親戚がお集まりだそうで、その席で結婚を認めてもらおうと挨拶に行ったようですよ」
「なんてことだ……!」
 苛立った様子の春日さんが、シートを叩く。ボスッと鈍い音がした。
 ミラーに映る春日さんをそっと盗み見ると、まるでこの世の終わりにでも遭遇したように頭をかかえていた。

 矢木さんのご実家は、小高い山のきわに建つ、昔ながらのこぢんまりした住宅だった。
 近くにあまり家がないからか街灯も少なく、建物を隠すように植えられた高い樹のせいで鬱蒼としている。近づくエンジン音に気づいたのか、玄関から文緒さんと矢木さん、そして厳しい表情をした、矢木さんのお父さんらしき人が出てきた。
 もう既に何かあったんだろう。矢木さんに寄り添う文緒さんが、ハンカチで目尻を押さえていた。
 その様子に気づいたらしい春日さんが低く唸る。敷地の端に車を停めた啓也がサイドブレーキを引く間もなく、春日さんはいてもたってもいられないとばかりにドアを開け、外へ飛び出した。
「あっ」
「お父さん!」
 驚く私と、文緒さんの声が重なる。駆け寄った春日さんは、三人の前にいきなり土下座をした。
「会長!?」
 矢木さんのお父さんが、驚き飛び上がる。
「すまん、矢木。お前の立腹はよくわかる。だが、どうか、ふたりのことを認めてやってくれ。頼む!」
「会長、とにかく顔を上げて下さい。このようなことをされても……」
 言い淀む声をさえぎるように、春日さんが声を張り上げた。
「私は家業も盛り立てられず、娘に職を任せなければならないような情けない男だ。だが娘の幸せのためならなんでもする。文緒はお前の息子でなければ駄目なんだ。どうか、このとおりだ。許してやってくれ。頼む、矢木っ」
 夜の冷えた空気のなか、春日さんの言葉が響く。ただただ横暴なだけだと思っていたのに、春日さんの意外な姿と深い愛情に驚いた。
 ぽんと肩に何かが触れる。振り向くと、私の肩に手を置いた啓也が苦笑いをしていた。
「……ちょっと離れようか。込み入った話になりそうだし、聞かない方が良さそう」
「ん」
 うなずいて、彼のあとについていく。私たちがこっそりと敷地を出たことに気づいた人はいなかった。

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