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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  夜空に愛を



 門を出て少し行くと、川沿いの土手に出た。来る途中に渡った橋の下の川が蛇行し、ここへ繋がっているらしい。土手のすぐ下を通る道路の街灯があるから、何も見えないということはないけれど、慣れない暗闇に少しだけ震えた。
 伸ばされた啓也の手が、そっと私に触れる。
「寒い?」
「ううん、平気」
 出がけにしっかりと着込んできたから、寒さは感じなかった。
 手を繋ぎ、行く宛もないまま、ゆっくりと土手を歩く。
 本当なら啓也はまだ帰っていなくて、私はマンションでひとり寂しく手抜きの夕飯を食べていたはずなのに、こうして彼と夜の散歩をしているなんて不思議だ。しかも、文緒さんの修羅場にも立ち会ってしまった。
「……文緒さん、大丈夫かな」
 直接関係はないけど、やっぱり心配してしまう。私のつぶやきを聞いた啓也は肩をすくめ、また苦笑いをした。
「さあね。できるだけ協力、というか、罪滅ぼしはしたから、あとは自分たちでどうにかしてもらわないと。とりあえず春日さんが味方についてるから、なんとかなると思いたいけど」
「罪滅ぼし?」
 あまりイメージの良くない言葉に首をひねった。
「あー……今回の件は俺にもすこーし責任があるというか……」
「へ?」
 わざとらしく髪をかき上げた啓也は、何かをごまかすように私から顔をそらし、短く息を吐いた。
「業務提携の件で彼女と仕事をするようになって、すぐにふたりが両想いだって気づいたんだよね。付き合うまでいってないのは知ってたけど、そういうのって雰囲気とか仕草でわかるでしょ。で、ムカついた」
「え」
「俺は仕事が忙しくて汐里と全然会えないのに、こいつら常に一緒かよって」
 啓也の言い分に唖然とする。狭量というより、完全に八つ当たりだ。
 私が呆れているのに気づいたらしい彼は、顔を背けたまま、ぼそぼそと話を続けた。
「だから、からかってみたくなってさ。ちょっと羨ましがらせたというか、焚きつけたというか。そうしたら本気になったみたいで」
「……何をしたの」
 根拠もないのに凄く嫌な予感がする。私の追及に、啓也はへらりと笑った。
「いや。何ってほどのことはしていないよ。ただ、俺の汐里がどれだけ可愛いかって話と、ふたりで愛を語らう時が最高に幸せだって話を延々としただけ」
「えええっ!?」
 何しちゃってんの、この人!
 羞恥でわなわなと身体が震える。
 一昨日、初めて文緒さんと話をした時に、啓也抜きで会いたいと言われたことを思い出した。何故、見ず知らず同然の私と話をしたいなんて思うのか不思議だったけれど、啓也の自慢話のせいらしい。
 顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。ギリッと睨みつけると、振り向いた啓也は悪びれることなく微笑んだ。
「ウソは言ってないよ。全部、本当で本気の話」
「そ、そういうことじゃなくて、恥ずかしいでしょ!」
「えー? 恥ずかしいことしてる時の話はしてないけど」
「違うっ!」
 ここが外だということも忘れ、大声で叫ぶ。
 喚いても全く動じていない啓也は、私の頬をするりと撫でた。
「汐里のほっぺ、凄く熱い」
「もう!」
 怒っても、拗ねても、のらりくらりとかわされる。いつものパターンにムカムカして背を向けると、後ろから抱き締められた。
「始めはここまで複雑な事情があるなんて知らなかったから、軽い気持ちで言ったんだけど、あのふたりにちょっと悪いことをしたかなーと思っててさ」
「……それで、ここまで春日さんを送って来たの?」
 啓也の腕の中で顔だけを後ろに向ける。近づいた彼の唇が頬に触れた。
「うん。あと、ついでに俺から矢木さんが文緒さんの相手だって伝えるように仕向けてね」
「え?」
 車の中で文緒さんと矢木さんの関係を明かしたのは、わざとしたことだったらしい。
 そう言われれば、春日さんが訊くから答えるという形にはなっていたけれど、最初に赤ちゃんの父親を知っていると言い出したのは啓也だった。
「さっきの土下座を見たからわかるだろうけど、春日さんて良くも悪くも直情型なんだよ。思い込んだら即走り出すタイプ」
「あ、うん」
 今日の行動といい、一昨日といい、猪突猛進なのは間違いない。
「ああいう人はカッとなると話を聞かないから、本人たちより他人の俺から話した方がいいかなって。あの人から見れば俺は格下だけど、一応、重要取引先の関係者だし、少しは遠慮するでしょ。しかも車の中だから逃げられないし」
 全部計算尽くだったことに感心するやら、呆れるやら。でも、それで文緒さんが幸せになれるなら、まあいいかと思った。
「上手くいくといいね」
「俺は汐里との仲だけ、上手くいっていればいいんだけどね」
 本気とも冗談ともつかない言葉に苦笑した。
 少しの間、何も言わず夜空を見上げる。冷えて澄んだ闇に数多の星が輝いていた。夜景よりも密やかで神々しい光。私につられた啓也も、同じように上を向く。
 静かすぎて耳が痛い。あるのは目の前の星空と、私たちの温もりだけ。ふたりきりで世界から切り離されてしまったんじゃないかとか、おかしなことまで思い浮かんだ。
「ねえ、啓也」
「ん?」
「……今まで言ってなかったっていうか私も忘れかけてたんだけど、うちの会社、結婚すると今までどおりに仕事を続けられないところなんだよね」
 突然こんなことを言い出した私を、彼はどう思うだろう。正直なところ凄く不安だけど、将来にかかわることだからちゃんと言わなきゃいけない。
 巻きつく啓也の腕に手を重ねると、もう一方の手でギュッと握られた。続きを促すみたいに。
「啓也のこと凄く好きで、結婚も子供もいつかはって思ってる。でも仕事辞めるのを考えると不安になるっていうか、後悔しそうな気がしてて」
「うん」
 私の話に啓也はただ静かにうなずく。
「子供が欲しいなら早く結婚した方がいいってわかってるけど、はっきり決められない感じで。自分がどうしたいのか、まだよくわからないの」
 自分のことなのに、決められないし、わからないなんて恥ずかしい。でも迷っていることを隠さずに伝えるべきだと思った。啓也を本気で愛しているからこそ。
 腕をほどいた彼に引かれ、身体を反転する。向かい合って見つめると、啓也はいつもと同じように微笑んでいた。
「いいよ。汐里の好きにして。絶対に離れないって約束してくれるなら形はどうでもいい……あーでも、死ぬまでには結婚したいかなあ。一緒の名前でお墓に入りたいし。まあ墓石にフルネームを連名でもいいけど」
「なんの話よ!」
 いきなり始まったお墓の話に思わずつっこむ。カラカラと笑う彼に、また抱き締められた。
「それに、俺も黙ってたことがあるし」
 急に声のトーンが落ちる。驚いて見上げた先の啓也は、ふっと自嘲気味に笑った。
「少し前までは、なし崩しに籍入れて戸籍上も汐里を俺のものにしようと思ってた。でも実際に結婚するとさ、汐里は守崎の嫁として見られるんだよね」
「うん……?」
 彼の言う「守崎の嫁」の意味がわからずに首をかしげた。
「結婚式はいいけど、会社絡みで披露宴は大々的にしなきゃいけないし。時々、奥さん同伴のパーティとかもあるし。とにかくそういうしがらみが多くて汐里に負担をかけることになると思う。紫さんの実家みたいに色々と言う奴もいるしね」
「あ……」
 松原さんの家が、他人を見下すような傲慢な人ばかりだというのは本人からも聞いていた。啓也と結婚するのなら、そういう人たちとも、そつなく付き合っていかなければならないらしい。
 隠し切れない不安が顔に出る。気づいた啓也が私の頭を優しく撫でた。
「黙っていて、ごめん」
「ううん。私に心配かけると思って言わなかったんでしょ」
 啓也は驚いたように目を瞠り、ゆるく首を振った。
「違う。自分のために言えなかったんだ。汐里に嫌がられるのが怖くて」
「啓也」
 眉を寄せ肩をすくめる啓也を、きつく抱き締め返す。彼はまるで懺悔をするように、ぽつぽつと言葉をこぼした。
「本当は子供が先にできればいいとも思ってた。そうしたら子供を理由に結婚できるし……ひどいよね」
 啓也の胸に額をこすりつけ、思いきり頭を振る。自分を蔑むことはしてほしくない。
 考えすぎな彼と、考えなしな私。比べられるものじゃないけど、お互い様な気がした。
「……あ、あのね。すぐに答えは出せないけど、ちゃんと決めるから。仕事も、結婚も、子供のことも全部」
 一度言葉をきって、啓也をまっすぐに見つめた。
「あなたを、愛しているから」
 わずかに息を呑んだ彼の瞳に、強い光が浮かぶ。啓也は私と目を合わせたまま大きく一歩下がり、こちらに向かって手を伸べた。
 静寂の中、見つめ合う。何も言えず、ただ彼の唇の動きを目で追った。
「汐里、俺と結婚してほしい。時期は決めない。何十年でも待ってる。だから……」
 ドクッと心臓が跳ねた。真剣な彼の表情につられて鼓動が速くなる。無意識に浮いた涙で視界がゆがんだ。
 痛いほど激しく鳴る胸を左手で押さえ、右手を彼へと向けた。
「うん。嬉しい……」
 喜びと緊張で震える声。目尻に留まっていた雫が、まばたきに合わせてこぼれ落ちた。
 近づいた手が重なるのと同時に、強く引き寄せられる。彼の腕に包まれ、唇を合わせた。
 キスを続けながら、ひとり心の中で約束する。
 ……できるだけ早く答えが出せるように、きちんと考えるから、少しだけ待っていて。
 あえて言葉にはしなくても、想いは伝わるはず。星のまたたく夜空の下、交わした誓いの口付けは、外気とは反対にとても温かかった。

                                          End

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