書籍番外編集  index



 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  夜空に愛を



 夕べの啓也との電話で活力を貰った私は、普段より元気に出勤した。ちょっと張りきりすぎて智絵に怪訝な顔をされたくらいに。
 そんな私の様子に彼女は何かを感じたのか、終業後、飲みにいこうと声をかけられた。
 啓也は出張中だし、特に断る理由もないから、誘われるまま会社近くの居酒屋に腰を落ち着けた。
 店に着くなり頼んだ生ビールをぐぐっとかたむけた智絵は、唇についた泡を舐め、ジョッキをテーブルに置く。
「んはー、うまい!」
 ほんのちょっとだけ、おじさんっぽいと思ってしまったけど、そこは黙っておいた。
 美味しそうにビールを飲み、お通しをパクパク食べる智絵を横目に、私も口をつける。久しぶりの生ビールの味を新鮮に感じながら、家ではワインばかり飲んでいることに気がついた。
 私も啓也も、お酒にこだわりはないのだけど、彼のお父さんが無類のワイン好きで、あちこちから取り寄せるたびにお裾分けをいただくから、晩酌の中心がワインになっていた。
 少し前に啓也から聞いた「母屋の仏間を潰してワインセラーを造ろうとしたお父さんに、お母さんがキレた話」がふと思い浮かんで、思わず吹き出してしまった。
「あ、思い出し笑い。やーらしーい。カレのことでも思い出してた?」
 上機嫌な智絵がケラケラ笑い、私を指差す。
「そういうんじゃないけど」
 指摘されたことが少し恥ずかしくて目をそらした。まあ啓也にも関係はあるけど、智絵の言う「カレのこと」とはちょっと違う気がする。
 視線を外したまま、もう一口ビールを飲むと、ジョッキを持っているのとは反対の手の甲を軽く突かれた。
「しーおーり。で、どうなのよ?」
「何が?」
「カレとの生活。上手くいってんの? なんか最近アップダウン激しいっていうかさー。今日はご機嫌だけど、昨日まで落ち込んでたじゃない」
 今日は確かに自分でもちょっと変かなと思うくらい浮かれていたけど、昨日まで憂鬱だったことも智絵には気づかれていたらしい。いつも通りに振舞っているつもりだったのに。
 彼女の鋭さに肩をすくめた。
「先週の頭から、彼、出張に行ってるの」
「へえ、長期?」
 ゆっくり首を振る。
「ううん、明後日まで」
「なるほど。それでブルー入ってたわけね。相変わらずラブラブだわあ」
 キュッと目を細めた彼女が、やらしい感じの変な笑い声を立てた。やっぱり、おじさんっぽい。しかもちょっとセクハラ気味の。
 もちろん啓也のことは凄く好きだし、彼には隠さずに気持ちを伝えるけど、他人から言われるのはちょっと恥ずかしい。居たたまれない私は、つい言い訳のようなことを口にしてしまう。
「ラブラブっていうか……いないと張り合いがない感じなんだよね」
「ああ、汐里って意外に尽くすタイプっぽいもんね?」
「え」
 そうなのかな?
 むしろ啓也から尽くされまくっている気がするんだけど、智絵には逆に見えているらしい。
 内心で首をひねっていると、智絵はテーブルに肘を突き、何かを探るように私の顔を覗き込んだ。
「で。籍は入れないの?」
「へ?」
 唐突に振られた問いかけに、間抜けな声が出る。
「だからぁ、結婚しないの?」
「えっ、や、そういう話は全然……」
 とっさに否定してしまったけど、よく考えたら全然ないということもない。半年近く前、旅行先の船の上でプロポーズの約束もされたし、折に触れ、ずっと一緒にいてほしいと言われる。でも具体的な話は、まだ何も決まっていなかった。
「ふうん、意外ね。汐里のカレのことだから、押せ押せでプロポーズしてると思ってたのに。それで汐里が返事を渋ってるんだろうなって」
 さらっと出た言葉に驚く。智絵の中の啓也のイメージってどんな感じなんだろう。
「……なんで私が断るっていう前提?」
「断るんじゃなくて、先延ばしにしてるのかなー、とね。結婚しちゃうと仕事が微妙じゃない。子供ができたら続けられないだろうし」
「あー」
 はっきりと結婚の話が出ていないから今までなあなあにしていたけれど、確かに智絵の言う通りだ。
 啓也のところのような大企業とは違って、うちの会社は兼業主婦に優しくない。というか、優しくする余裕がない。
 一応、何ヶ所か支店を持っているとはいえローカルな中小だし、それぞれの営業所もギリギリの人数でまわしてる。建築や宅建の資格を持っているならともかく、営業事務は割と代わりが利くから、結婚と同時に辞めるか、パートタイマーに転向するのが社内の慣例になっていた。
 育児休暇も表向きには設定されているけど、使っている人を見たことがない。最終的には辞めざるを得なくなっていた。
「汐里はさ、テキトーにやってる私と違って今の仕事好きでしょ。仕事を続けたいから、同棲しても結婚はしないのかなって」
「仕事は好きだけど……そこまでちゃんと考えてなかった」
 お通しの小鉢を突きながら、本音をこぼす。
 ただ愛してるって気持ちに押されて同棲を始めたけれど、先のことはその時に決めればいいと簡単に考えていた。子供のいる家庭に憧れても、それは夢物語のような感覚だったというか……
 智絵は既に中身が半分なくなっているジョッキをドンとテーブルへ置き、私に顔を近づけた。
「もーダメでしょー、汐里。私ら二十七なんだよ。次の誕生日が来たら二十八歳! いいかげん本気でこの先どうするか考えないとさー」
「……うん」
 もっともな智絵の意見にうなずく。
 就職をした時、元カレとのひどい別れを経験していた私は、もう一生結婚はしないだろうと思っていた。当然、子供を産むこともなく、ずっと今の会社で働くつもりだった。
 結婚したらパートになって、子供ができたら辞めるなんていう社内の暗黙のルールも、私には関係ないと思っていた。
 でも今は違う。啓也と出逢い、彼を愛している。もう啓也なしの人生なんて考えられない。子供だってできたら産みたいと思う。
 だけど、いざそうなった時に、絶対に後悔しないと言いきれるか自分でもわからない。事務の資格くらいしか持たない私だけど、今まで懸命に仕事をしてきたから。
 ……ちゃんと考えなきゃいけないんだ。
 いつの間にか人生の岐路に立たされていたことを、ひしひしと感じた。
 気づかせてくれた智絵に、感謝を込めて視線を送る。ありがとうと言おうとした時、まるで電池が切れたみたいに智絵がテーブルに突っ伏した。額が天板にぶつかり、ガツンと派手な音を立てた。
「ち、智絵……?」
 いくらお酒に強くないとはいえ、まさかビール半分で潰れてしまったのだろうか。おそるおそる伸ばした手で触れようとすると、智絵が低い唸り声を上げ始めた。
「うううー。人の心配してる場合じゃないっての。私なんて二十七にもなって、彼氏もいないんだよ……ヤバすぎだし、まじで」
 呪詛みたいにネガティブなことをぼそぼそ呟く姿が、ちょっと怖い。
 ちょうど料理を運んできてくれた店員さんにお礼を言いながら、今日はグチ大会かなと頭の隅で思った。

 智絵のグチに付き合わされて結構遅い時間まで飲んだせいで、二日酔いまではいかないものの、翌日はだるかった。
 休みなのをいいことに一日じゅうダラダラして過ごし、夕方、暇を持てあました私は、いつの間にかソファでうたた寝をしていた。
 ここ数日続けて啓也の夢を見ている。昼寝にも登場した彼に夢の中で苦笑した。
 よく「せめて夢でいいから逢いたい」なんてフレーズを聞くけど、起きたあとにもっと寂しくなるから、私は見たくない。こちらへ向かって微笑む彼に手を伸ばしながら、夢だけじゃ足りないと思った。
 スッと近づいた啓也の唇が私に触れる。
「ただいま、汐里」
 はっきりと耳に届いた声と、キスの感触にハッと瞼を開けた。
「啓也!?」
「ん?」
 いくら寝起きでも、彼の声を、姿を、間違うわけがない。どうして今ここに彼がいるのかはわからないけど、とにかく抱きついた。
「啓也ぁっ」
「え、汐里?」
 ぎゅうぎゅうしがみつく私に、啓也が不思議そうな顔をする。
「会いたかった、凄く寂しかった!」
 まだはっきり覚醒していないからか、強がることもできずに、素直な気持ちが口から飛び出す。啓也は驚いたように少し目を瞠り、ぎゅっと抱き締め返してくれた。
「……うん。俺も寂しかった」
 溜息と一緒に吐き出された声が頬に当たる。くすぐったくて、嬉しくて、笑いながら首をすくめると、耳のすぐ下に吸いつかれた。
「んん」
 一週間とちょっとの間、触れていなかったせいか、身体が敏感に反応する。私が震えたのに気を良くしたらしい啓也は、あちこちを撫で始めた。
 今日は出かけないからとラフなルームウェアを着ているせいで、服の上からでも結構感じてしまう。
「あっ、もう。いきなりは……」
 まだ「おかえりなさい」も言ってないのに。
 身体を起こして少しだけ睨むと、床に座った啓也が上目遣いで見つめてきた。
「仕事すっごい詰めて寝る間も惜しんで予定こなして、一日早く帰ってきたから、ご褒美が欲しいんだけど」
 子供みたいな言い方に思わず吹き出す。
「じゃあ、お駄賃あげる?」
「いらない。汐里を現物支給でお願い」
「なにそれ」
 冗談を言って、笑い合う。笑いがおさまったところで、ソファに押し付けられた。
 すかさず重なる唇。受け入れた彼の舌に口の中を撫でられるだけで、全身が粟立った。
 しばらく深いキスをくり返し、離れたのを合図に目を合わせる。お互いの濡れた瞳で望んでいることがわかった。
「ベッドに行こう。今日はちゃんとしたいから」
 かすれた彼の声に応えるために、腕を伸ばす。抱き上げられたところで、来客を告げるチャイムが鳴った。
「え」
 一瞬きょとんとしてから、インターフォンを見た。遠くてはっきりわからないけれど、自動で点灯したディスプレイに年配の男性が映っている気がする。なんとなく見覚えのあるあのシルエットは……
 まるで私の想像が正解だとでもいうように、立て続けにチャイムが鳴らされた。
 響く音のなか、啓也の眉間には皺がくっきりと刻まれていた。

 2 ←  → 4


   

Copyright (C) chihiro sasa all rights reserved  書籍番外編集  index