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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  夜空に愛を



 何も言えず、行動も起こせないまま睨み合う私と春日さんの間に、女性の鋭い声が割り込んだ。
「お父さん!」
 ハッとした春日さんが振り返る。
「文緒……」
 春日さんの口からこぼれた呟きに、私も声のした方を見つめた。
 こちらへ小走りで近づいてくる綺麗な女性。以前ホテルで見かけた時よりもいくらかふっくらとした文緒さんは、春日さんの前で足を止め胸に手を当てると、少しだけ苦しそうに深呼吸をした。
「もう。お父さん、何してるのよ。止めて頂戴」
「何をしている、じゃない。お前こそ走ってはいかんだろう。身体に障ったらどうするんだ」
「これくらいなら平気よ」
 文緒さんはからりと表情を変え、苦言を受け流す。それから呆然としたままの私に向き直った。
「初めまして。あなたが汐里さんね。父が余計なことをして、ごめんなさい」
「え、あ、いえ……」
 突然の展開にどう答えていいのかわからず、しどろもどろに返事をする。
 思わず伏せた目に映る彼女のお腹が、緩やかに隆起していた。事情を知らなければわからないくらいだけど、それは彼女のお腹に命が宿っていることの証。娘が妊娠していると語った春日さんの言葉が、頭の中に響いた。
 私がじっと見ているのに気づいたんだろう。文緒さんはゆっくりと自分のお腹を撫でて、苦笑した。
「父が何を言ったのかはしらないけれど、心配しないで。この子は啓也さんには関係ないから。父が勝手に勘違いしただけなの」
「え?」
 いまいち事情が呑み込めない。
 でもとりあえず、啓也は赤ちゃんの父親じゃないようだ。
 ほうっと息を吐いて、肩の力を抜いた。もちろん何かの間違いだろうとは思っていたけれど、いかにも真実のように突きつけられれば、やっぱり焦る。
 私がほっとしていることに気づいたらしい文緒さんが、優しく微笑んだ。
「今日、啓也さんはご不在?」
「あ、はい。水曜まで出張で」
「そう。そんな時にご迷惑をおかけして、ごめんなさいね。また改めて啓也さんがご在宅の時に、謝罪に伺います。夜分に申し訳ありませんでした」
 丁寧に謝罪の言葉を重ねた文緒さんは、浅く一礼する。まだ目立つほどお腹が大きくないといっても、腰を折るのが苦しそうだった。
「いえ。確かにびっくりしましたけど、間違いだってわかったから、いいです」
 私が慌てて首を振ると、文緒さんは少し意外そうに眉を上げた。
「それなら今度、お詫びがてら、お茶にお誘いするわ。一度あなたと話をしてみたかったの。啓也さんには内緒で、ね?」
 まるでイタズラを企む子供みたいに、文緒さんがスッと目を細める。
「はい……?」
 どうして文緒さんが私に会いたがるんだろう。彼女が私を知っているのは、啓也が何かの折に話したんだと想像がつくけれど、興味を持たれる理由がわからない。
 不思議に思って見つめると、計ったように文緒さんの携帯が鳴り出した。
「あら。ちょっと失礼」
 一言断った彼女は数歩下がり、携帯を耳に当てる。
 聞く気はなかったけれど、この場所にいることを伝える事務的な声が耳に届く。他にも二言三言何かを告げ、文緒さんは春日さんを振り返った。
「お父さん、帰るわよ。矢木(やぎ)がここまで車をまわしてくれるそうだから」
「あ、ああ……」
 勘違いで押しかけたのを恥じているのか、来た時とは打って変って無口になった春日さんは、そわそわしながらうなずく。
 ちょっとだけ文緒さんじゃなく春日さんに謝ってほしいと思ってしまったけど、彼女の手前、自重しておいた。
 ほどなく近づいてきた黒い高級車が路肩に停車した。さっき言っていた矢木さんという人が運転しているんだろう。
 見覚えのあるセダンと、ドアを開けるために降りた運転手さんにハッとする。去年、私が寿町で啓也と文緒さんを目撃した時に、車を運転していた人だった。
 矢木さんが後部座席のドアを開けるなり、春日さんは私に目もくれず、そそくさと車に乗り込む。いくら気まずいとはいえ挨拶もされなかったことに呆れていると、文緒さんが申し訳なさそうに振り向いた。
「本当にごめんなさい。もとはといえば、この子の父親のことをきちんと話せない私のせいなの」
「どうして」
 無関係な私が訊いていいことじゃないのに、つい疑問を口にしていた。
 慌てて自分の口元を両手で覆う。おそるおそる目を向けると、文緒さんはどこか寂しさを孕んだ微笑みを浮かべていた。穏やかな表情とは裏腹に、瞳に宿る光が痛々しい。
「愛しているから、愛してほしいの。だから、どうしても言えないのよ」
「え……」
 謎かけのような言葉に、ぽかんとする。
 一瞬、苦しそうに眉を寄せた文緒さんは、もう一度「ごめんなさい」と言い残し車に乗り込んだ。
 ゆっくりとした動作で矢木さんがドアを閉め、私に向かって一礼をする。
「大変なご迷惑をおかけしました、申し訳ありません。失礼いたします」
「はい……お気をつけて」
 一番迷惑をかけられた人には無視され、直接関係のない会社づきの運転手さんに謝罪されるなんて、おかしな感じだ。私は離れていく車のライトを見つめ、思いきり首をかしげた。
 ……なんだったんだろう、一体。
 残業からくる疲労と、啓也のいないストレスに、別の疲れが上乗せされた気がする。
 盛大についた溜息に合わせるように、お腹が鳴った。温めたお弁当は、もう冷えてしまっただろう。
 急に虚しくなった私は、冷え込むマンションの前でがっくりと項垂れた。

 さらにだるくなった身体を引き摺るようにして部屋に戻ると、電話が鳴っていた。
 この時間に電話をくれるのは彼しかいない。慌てて靴を脱ぎ捨て、子機に飛びついた。
「啓也っ」
「……えっ。どうしたの、汐里」
 私のあまりの勢いに、電話の向こうの彼が驚いている。
「うー」
 わけがわからなすぎて起きたことを整理できていなかったけど、とにかく文緒さんの妊娠と、春日さんが押しかけてきた件を初めから説明した。
 最後まで黙って聞いてくれた啓也は、どういうわけか文緒さんのお腹に赤ちゃんがいることを当然のように受け止めた。
「ふうん。で、なんで会長さんが家に来たの?」
「文緒さんの赤ちゃんの父親が、啓也なんじゃないかって、疑ってたみたい」
「ええっ!」
 まさに驚愕って感じの声に、薄っすらと疑念が沸く。
「なんでそんなに驚くの。やましいところでもあるわけ?」
 積もり積もった疲れとストレスのせいで、つい言葉が刺々しくなってしまった。
 本気で疑われていると思ったのか、啓也はあからさまに慌て出した。
「ない! 俺には汐里だけだよ。信じて」
「信じてるよ」
 もちろん文緒さんが否定したからというのもあるけれど、すれ違い逃げ出した私を探しにきた時「俺は汐里を裏切っていない」と言ってくれた彼の言葉を信じていた。
「汐里……」
「でも、びっくりした。あと春日さんにムカついた。なんなの、あの人!」
 大人という以前に、人としてなってない。電話口で憤慨すると、啓也は困ったように乾いた笑い声を上げた。
「うん、まあ。ああいう人なんだ」
 どうやら相当に迷惑な人らしい。娘だからしかたないとはいえ、文緒さんに少し同情する。
 ふと彼女が去り際に見せたつらそうな表情を思い出した。子供の父親のことをどうしても言えないと語った時の。
 春日さんの人間性はともかく、実のお父さんにも言えないような相手ってどうなんだろう。彼女自身も、赤ちゃんも、この先その人と一緒にいられないのかと思うと、他人ごとなのに寂しさが込み上げた。
 今、啓也が隣にいないから、なおさら、そう思う。
「……ねえ啓也。ちょっと寂しい」
「ちょっとだけ? 俺は汐里欠乏症末期的だけど」
 冗談めかした言葉に笑った。
「だから、その症状なんなの、もう」
「恋の病の特殊な症例だって前にも言ったでしょ」
 バカバカしいことを大真面目に言いきった啓也に、また笑う。クスクスと笑い続けていると、名前を呼ばれた。
「汐里。できるだけ予定を前倒しして早く帰るから、待ってて」
 彼が戻るまで、あと三日。
 以前一ヶ月近く離れていたことを考えれば、十日なんてあっという間だとタカをくくっていたのに、まさかこんなに寂しくなるとは思っていなかった。
 気づかれないように苦笑いして、首を振る。
「ううん、急がなくていい。ただ無事に帰ってきて」
 いつどこにいても変わらない彼の想いが、心に力をくれるから。寂しさを完全に消し去ることはできなくても、頑張れる。
 文緒さんもこんな気持ちなのだろうか。まわりに明かせなくても心が繋がっているから、強い気持ちで前に進めるのかもしれない。
 事情も何も知らない私がこんなことを思うのは失礼かもしれないけど、まっすぐな気持ちで彼女の幸せを願った。

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