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 猫かぶり御曹司とニセモノ令嬢  夜空に愛を



 ドアを開け「ただいま」と呟いた啓也の声で、何かまずいことでもあったのかな、と疑問に思った。迎えに出た玄関先で彼の表情を見た瞬間、疑問は確信に変わった。
「おかえり。どうしたの?」
 鞄とコートを受け取るために伸ばした手を、ギュッと握られる。いつもと違う行動に首をかしげ啓也を見つめると、いきなり抱き締められた。
「どうしよう汐里……俺、きみと離れたくない」
「はあ?」
 状況がさっぱりわからず眉を寄せる。目の前で啓也が真っ蒼な顔をしていた。

 オロオロする啓也を宥めてすかして事情を聞き出した私は、はっきりと呆れた。
「なんだ、それだけ?」
「それだけって、十日も出張なんだよ! しかも海外っ!」
 興奮気味に返され、少しだけ身を引く。
 なんのことはない、啓也が落ち込んでいたのは単なる海外出張の話だった。海外と言ってもアジア圏だし、期間は十日。本当はお兄さんが行く予定だったけど、真奈さんの体調が良くないとかで、啓也が代理になったらしい。
 帰ってきた時のうろたえぶりを見ていた私は、正直、肩透かしを喰らった気分になった。
「まあ海外はちょっと不安だけど、独りで行くわけじゃないし。安全対策とかちゃんとしてるんでしょう……それより真奈さんの身体が心配よね」
 私が真奈さんを心配したことで、自分がないがしろにされたとでも思ったのか、啓也が目に見えてムッとする。普段なら早々に部屋着に着替えるのに、スーツのまま乱暴にソファへ倒れ込んだ。
「体調不良っていうか、悪阻なんだよ」
「えっ、赤ちゃん産まれるの?」
「そ。三人目。しかもそんなに大騒ぎするような状態じゃないらしい。兄貴は義姉さんに過保護でさ」
「へえ……」
 あいづちを打ちながら、苦笑いが込み上げる。
 息子たちに甘いお父さんに、真奈さんを心配しすぎらしいお兄さん。私を甘やかす啓也。過保護なのは守崎家の遺伝だろうか。
 まだ会ったことのないお義兄さんと子供たち、その傍らで微笑む身重の真奈さんを想像した。
「いいなあ」
「ん、何が。海外出張のこと?」
 私が羨む理由を勘違いしているらしい啓也に、首を振ってみせた。
「違うよ。お義兄さんの家族のこと。優しいパパとママに子供たち。ちょっと羨ましいと思って」
 自分が一人っ子なせいか、兄弟姉妹のいる家庭に憧れてしまう。
「……汐里も子供いっぱい欲しい?」
「んー、まあ、いつかはね。できたら二、三人は欲しいかな」
 私と啓也と子供たち……幸せな妄想をしながら夕食の準備をしていると、ソファから跳ね起きた啓也がすり寄ってきた。
「じゃあ、子作り頑張らないとね?」
「え」
 あからさまな猫なで声に、顔をしかめる。
 一緒に暮らし出してからというもの、避妊したりしなかったりな状態で頻繁に付き合わされるのだから同じことだ。むしろ、これ以上頑張られたら身体がもたない。
 手にしたお味噌汁用の小鍋でガードしたものの、わずかに遅く、耳の後ろを舐められた。
「や、やだ、ちょっと。ご飯作れないよっ」
 ちょっと震えてしまったことに気づかれないよう振り払い、眉間に力を込めて睨んだ。
 向けた視線を飄々と受け流した啓也は、手の中の小鍋を抜き取り、私を抱き上げた。
「今日は何か出前取ればいいから」
「そういう問題じゃないでしょ!」
 離してほしくて身をよじる。啓也は逆にしっかりと私をかかえ、パーフェクトな微笑みを浮かべた。
「出発は来週の月曜だから、それまでに十日分しなきゃいけないし」
「ええ!?」
 何を……ってわかりきっているけど、ありえない言葉に目を見開く。私が呆然としているうちに彼は寝室へ向かって歩き出した。
 こ、このヘンタイっ!!
 恋人に向けるにはふさわしくない私の叫びは、喉が震えているせいで言葉にならなかった。

 その後、週明けまできっちり十日分前倒しした啓也は、予定通り出張に行った。
 本当なら「短期間でもちょっと寂しいな」とか感傷に浸るところなのに、疲労困憊、全身筋肉痛な私は少しほっとしていた。もちろん内緒だけど。
 月曜は半休を貰ってよろよろしながら空港まで見送りに行き、火曜は仕事が休みだったから一日じゅう寝て過ごした。連休だったので水曜はこまごましたものを買いに出かけ、木曜は普通に出勤をした。

 月曜に半休した分、少しだけ残業をして帰宅した私は、ドアを開けた先の室内が暗いことに溜息をついた。
 啓也がいる時は部屋の暗さなんて気にならない。すぐに明かりと暖房をつけて、お風呂の用意と夕飯の下ごしらえをしなきゃいけないから。
 我ながら主婦っぽいと思うけど、彼に何かをしてあげることが、くすぐったくて嬉しかった。
 ……今は、全然、楽しくない。
 だるさを隠さずに、のろのろと靴を脱ぐ。人感センサーに反応したダウンライトの光に目を伏せた。
 とりあえずダイニングの灯りだけをつけて、カウンターに頭を乗せる。
 体調はすこぶる良好。啓也に付き合わされて寝不足になることはないし、無理な体勢を強要されて関節が痛くなったりもしない。それなのに毎日だるくて、何をするにも億劫になっていた。
 理由はわかってる。心のエネルギーが足りていないから……啓也が傍にいてくれないから。
 外国といっても近い方だし、時差もそれほどない。おかげで毎日、朝と夜に電話をしているのに、寂しさが拭えなかった。
 カウンターの隅に置かれた卓上カレンダーへ目を向ける。無意識のうちにまた溜息をこぼしていた。
「あと六日かぁ」
 週明けには啓也がいない方が休めると喜んでいたのに、たったの四日で音を上げそうになっていた。

 啓也の帰国を指折り数えながら過ごして、さらに三日。
 平日とは違い、帰宅ラッシュに巻き込まれることなく家に着いた私は、途中のコンビニで買ったお弁当をレンジに突っ込んだ。
 彼が不在になってからというもの、自炊を怠けている。一人分を作るのが面倒というのもあるけど、一緒に食べて喜んでくれる人がいないのが大きな理由だった。
 ほどなく温まったお弁当をレンジから出してカウンターに置く。冷蔵庫からお茶を運んできたところで、インターフォンが鳴った。
 ……誰だろう?
 私も啓也も地元が少し離れているせいで、家を訪ねてくる知り合いが少ない。宅配便だろうかとディスプレイを覗くと、どこかで見たような六十代くらいの男性が映っていた。
 親しい人ではないはずなのに、顔を知っている。誰だったか思い出せないまま応答した。
「はい」
「……ああ。そちらは守崎さんのお宅かね?」
 横柄な態度に少しムッとした。
「ええ、そうですけど。どちら様ですか?」
「私は春日文緒の父親だ。娘のことで話があって来た。守崎啓也に取り次いでもらおう」
「えっ?」
 早口でまくし立てた男性をディスプレイ越しにじっと見つめる。前に会社で智絵が見せてくれた、守崎と春日の提携を取り上げた新聞記事の写真と、目の前の人が繋がった。
 でも、なんでうちに……
 わけがわからず、ぽかんとする私の前で、春日さんが早く啓也を出せとがなり立てていた。

 啓也は出張中で不在だと再三説明したけど、春日さんは居留守を使っているんだと決めつけ信じてくれなかった。
 そのうち「うちはコトを公にしてもいい」とか「実家へ出向く」とか、よくわからないことを大声で喚き出したので、応対に出ると言って通話を切った。
 薄手のコートを羽織り、携帯をポケットにしまう。普段使いの靴をつっかけたところで、イライラが口からあふれ出た。
「なんなの、もう!」
 まったく、何もかもさっぱりわからない。
 写真と同じ顔だから、文緒さんのお父さんなのは間違いない。ということは、春日興産の会長さんだ。その人がうちを訪ねてきて、娘のことで話があるという……嫌な予感しかしなかった。
 ただでさえ啓也が傍にいなくて不安定だから、面倒ごとには関わりたくないのに……!
 マンションのエントランスへ行くため、エレベーターのボタンを押す。いつもどおり静かに到着したエレベーターへ、足を踏み鳴らして乗り込んだ私は、同乗者がいないのをいいことに、一階のボタンを少し乱暴に押し込んだ。

 マンションのすぐ外で待っていた春日さんを、半ば睨みつける。私が「迷惑だ」と言う前に、春日さんはきょろきょろとあたりを見まわした。
「あんた、守崎のお手伝いさんか。あいつはどうした、なんで来ない?」
 お、お手伝いさん!?
 ビシッと顔が強張る。
「……違います。啓也は不在です。出張中だと何度も言いましたけど?」
 一字一字に怒りを込めて、はっきり発音してやった。
 啓也の仕事に関わる人だからと応対に出てきたけど、こんなに迷惑で失礼な人を丁重に扱う余裕は、今の私にはなかった。
「嘘を言うな、あいつを出せ!」
「嘘じゃありません。啓也の会社に行って聞いたらいいでしょう。どんなご用件か知りませんけど、来週の木曜以降に出直してください」
 表情筋を使わずに早口で言いきる。話は終わりだと言うように踵を返すと、後ろから腕をつかまれた。
「逃げるのか?」
「離してください。いきなり押しかけてきて、逃げるも何もないでしょう。迷惑です。お引き取りください」
 口調こそ丁寧にしているけど、怒りのボルテージがどんどん上がっていく。立場的にまずいのはわかっていても、下手に出る気にはなれなかった。
 大きく腕を振って、春日さんの手を払う。一瞬、視線を戦わせたあと、春日さんはぐっと奥歯を噛み締めた。
「大事にしないようにと思っていたが我慢ならん。娘を傷物にされて黙っている親がいると思うか。文緒はあいつの子供を妊娠しているんだぞ!」
「は……はあ?」
 啓也の、子供ぉ!?
 ぎょっとして目を剥く。見上げた先の春日さんは、言葉にした本人も認めたくないように苦々しい表情をしていた。
 ……嘘、でしょ。
 今まで揉めていたなんて思えないくらい、あたりがしんと静まり返る。
 驚きの展開に何も言えない私は、ただ呆然と春日さんを見つめ続けていた。

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