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 イノセント

 6
 田中に相談する事で自覚してしまった本心を、池田は持て余していた。
 千章と会う事で感じるわだかまりをはっきりさせれば、解決策が出てくると思っていたのに、逆に身動きが取れなくなってしまった。
 今更、千章の家には行けない。彼女への想いに気付いてしまった以上、身体だけの関係を続けるのは不可能だ。
 だからと言って、想いを告げる事もできなかった。告白し断られ、自分は彼女の欲求不満解消のための道具でしか無いのだと、突きつけられるのが恐ろしい。
 結局どちらにも踏み出せない池田は、全てを諦めるしか無かった。
 大学からの帰り道、千章の不在を狙って、預かっていた合鍵をポストに落とした。
 鍵を返し接触を断てば、言わずともどういう事か判るだろう。時計の事は残念だが、この状況では祖父も許してくれるはず。
 幸い、週のうちでも講義に余裕のある日が続いていたので、それから3日間大学を休んだ。最終的に単位が取れれば良いので問題は無いのだが、これまで無意味に学校をさぼった事の無い池田には、初めての経験だった。

 日がな一日何もせず、ただぼんやりと過ごす。古めかしい千章の家に慣れてしまっていた池田は、自室にいるのに他人の家のような気がして落ち着かなかった。
 3日目の夕方。何とか気持ちが上向きになってきた池田は、着信履歴の溜まっていた田中に電話を掛けた。
 明日には大学に行くつもりだが、着信を無視しつづけてしまった事を一言詫びておこうと思った。
 1コールで出た田中は、酷く心配していたらしい。
『みっちゃん、大丈夫?! 生きてる?』
 と、開口一番に叫んだ。
「電話に出られず、すみません。ご心配をお掛けしました」
『それはいいけどさ、どうしたの。いきなり休むから、びっくりしたよ』
 電話を取らず、今まで連絡もしなかった事を責められるかと思っていた池田は、田中の様子にほっとした。
「……単なる病欠です。もう良くなったので、明日には登校できると思います」
 本当の事を言うわけにはいかないので、適当に誤魔化す。もう治ってしまった病名など聞いても仕方ないと思ったのか、田中も簡単に相槌を打った。
『で、実は千章先輩から荷物預かってるんだよね。みっちゃんに渡してくれって』
 千章の名を聞いた池田は、ぎくりと身を震わせた。
「何、ですか?」
 3日も経てば、いくら不在が多いとはいえポストの合鍵に気付いたはずだ。池田の決断を知った千章は、何をよこすつもりなのだろうか。
 極力私物を持ち込まないように気をつけていたつもりだが、置き忘れた物があるのかも知れないと青ざめた。
『え。聞いてないし、中見てないから判らないよ。できるだけ至急って言われたんだけど、届けに行ってもいい?』
「……今から、ですか?」
 なにげなく見た窓の外は、すでに薄暗くなっている。田中がどこに住んでいて、今どこにいるのかも知らないが、無理して今日持参しなくてもいいだろうと思った。
『俺、原チャあるから平気だよ。あ、でも、明日来るなら千章先輩に返して、直接貰った方が良いかなぁ?』
 田中の言葉にぎょっとした。千章に会いたく無いから引き篭もっていたというのに、それでは元の木阿弥だ。
「そ、それは二度手間になるので、今日頂きます。あの、僕が取りに行きますので……」
『いいって、みっちゃん病み上がりだし。とりあえず住所教えてよ』
 以前の田中のしつこさを考えれば、教えたくは無い。しかし、きちんと言えば判ってくれるようだし、千章に会うよりは良いと思い直した。
 マンションの住所と部屋番号を告げると、大学を挟んで反対側に住んでいるらしい田中は『しばらくしたら行く』と返して電話を切った。
 溜息と共に部屋を見回した池田は、別段散らかってもいない室内を片付け始めた。

 すっかり部屋も片付き、何もする事が無くなった頃、おもむろに玄関チャイムが鳴った。
 単身者用のマンションはオートロックでは無いが、ちゃんとしたモニターがついている。しかし、田中が尋ねて来たと決め付けた池田は、モニターどころか覗き窓すら確認せずにドアを開けた。
 そこに立っていたのは、黒くて長いウェーブヘアの大柄な女性。もう会わないと決心したはずの千章がいた。
 頭から冷や水を浴びせられたように、池田は硬直する。ドアを掴んだ姿勢のまま凝視すると、視線を合わせた千章がにっこり笑った。
「田中くんに無理言って、住所聞いたの。ごめんね」
「……いえ」
 真っ白になってしまった頭で、やっと、それだけを答えた。
 もともとプライバシーを尊重するという意識の低い田中が、千章に住所を教えたところで驚きはしない。だが何故、彼女はここに来たのか。合鍵には気付かなかったのだろうか。判らない事だらけの池田は、その場に立ち尽くすしか無かった。
 呆然としている池田に気付いたらしい千章が、片手に提げていた袋を上げて見せる。
「一応、お見舞いなんだけど?」
「え……あ、はい」
 とっさに身を引くと、苦笑した千章は遠慮もなく部屋に入った。
 すり抜けざま、彼女の香りを感じて、池田は一度大きく震える。狭くて短い廊下を行く背中に、手を伸ばしたい衝動に駆られ焦った。
「へぇ、綺麗にしてるのね。みっちゃんらしい」
 室内を見渡した千章が振り向く。池田は彼女を直視できずに視線を逸らした。
 小さなカウンターキッチンのついた、一応ワンルーム。窓際のベッドに大型の書棚とデスク、クローゼット。家用のタワー型パソコンと、持ち出し用のノートパソコン。寝室兼用のリビングに置いてある家財はそれだけだった。もちろん装飾など無いに等しい。
 わざわざ手を掛けなくても、物が少なすぎて散らかりようが無いだけなのだが、物を溜め込む癖のある千章には綺麗に見えるようだ。
 千章は持参した袋から、いくつかプラスチック容器を取り出し、カウンターに置いた。
「田中くんから、みっちゃんが寝込んでるって聞いて、少しだけ食べる物持ってきたの。作り置きだけどね」
 向けられた笑顔に、胸が詰まる。生まれて初めて、優しくされる事が辛いと感じた。
(……このまま何も言わず、単なる先輩後輩に戻ればいい。あの家で過ごしたのは一時の戯れだったと思えばいい。笑って、見舞いの礼を言って、適当な嘘で追い帰せば、何も問題は無い)
 池田は密かに拳を握り締めた。
 頭の中で、余計な事をするなと警鐘が鳴る。それでも、池田の口は言葉を紡いだ。
「……どうして、来たんですか」
 自分でも、こんなに低い声が出た事に驚く。
 様子のおかしい池田に気付いたらしい千章が、何度か瞬きをしてから首を傾げた。
「どうしてって、お見舞いよ。後は……忘れ物を届けに」
 ふと田中が言っていた届け物の話を思い出したが、今聞きたいのはそういう事じゃない。
「鍵、お返ししたのは、気付いたでしょう?」
 それが何を意味するのかも。
「うん。だから、会いに来たのよ」
「……僕はもう会いたくなかった……」
 千章では無く、自分に向けた囁き。しかしそれは、彼女の耳にも届いたはずだ。
 静まり返る室内。デジタル時計しかない池田の部屋には、秒針を刻む音すらしない。お互いが息を潜め、身動きもしなかった。
 とてつもなく長く感じた、わずかな時の後、千章は手提げバッグからハンカチに包まれた何かを取り出した。それを両手に収め、困ったように微笑む。
「嫌がられるのも、怒られるのも、判ってたけど、きちんと謝らないとダメだから来たの」
 こんな事になった元凶は千章なのだし、謝って貰いたい事は沢山あったはずだ。それなのに何一つ思い出せない。何も謝って貰う事など無いと伝えたくて首を振った。
 千章は構わずに近付き、池田の手の上に先ほどの包みを載せる。薄い布にくるまれた中身は意外に重く、硬い。その懐かしい重さに池田は目を見張った。
「どうして」
 驚きに震える手でハンカチをつまみあげると、捲れた端から時計が滑り出た。祖父の愛用していた古風なデザイン。
「ごめんね……私が、隠してたの」
 隠していた? 何故?
 怒りよりも、疑問が先に立つ。
 歴史と思い出以外に大した価値も見出せない時計を、千章が欲しがったとは思えない。時計が目的で無いのなら、彼女が望んだものは……。
 俯いたままの千章の表情は、長い髪に隠され判らない。
 池田はそれほど身長の変わらない彼女のつむじを見ながら、唾を飲み込んだ。
「僕は、先輩に会うのも……ああいう事をするのも、嫌でした」
「……ごめん」
 話を最後まで聞かないうちに、千章が先回りする。池田は彼女の言葉を無視して続けた。
「会うたびに先輩を気にしている自分に気付かされる。身体だけなのかって思って怖くなる」
「みっちゃん?」
「あなたが好きだから、嫌なんです! 身体だけじゃなくて全部欲しくなるから、会いたく無いんだ……!」
 感情が高ぶり過ぎて、目の奥が熱くなる。ぎゅっと瞑った瞳が濡れているのを感じて、情けなくなった。
 本当にどうしようもない。千章と出会ってからの池田は、格好悪くて恥ずかしい事だらけで、自分でも嫌になった。
 せめて涙が零れないように我慢していると、伸びてきた手に眼鏡を取られる。驚いて思わず瞳を開きかけた時、目尻に柔らかいものが触れた。
 それが千章の唇だという事は、すぐに判った。涙を吸い取るように、もう一方の目にもキスした彼女は、そのまま背中に腕を回して身を寄せる。
 肩に乗せられた頭から、いい香りがした。
「……私も、みっちゃんの全部が欲しいな」
 耳に届いた、かすかな声。その言葉が信じられなくて聞き返した。
「本当、ですか?」
 余りに間抜けな質問に、千章が可笑しそうに笑う。
「本当よ。確かに最初は勢いだったけど、時計隠したのは離れたくないなって思ったからだしね」
「なら、どうして……」
 あんなセフレのような事になったのか。
 池田は自分が無自覚だったのを棚上げして、先に気持ちを教えてくれれば良かったのに、と思った。
「だって、あんな事しておいて普通に付き合ってくれなんて言えないでしょ。乗り気だったのは私の方だけど、みっちゃんにすれば責任取れって言われてるみたいで重いだろうし……」
 それはそうかも知れない。
 最初の時に告白されていたとしても、恋愛感情も無く、初めての事に混乱していた池田は尻込みしただろう。今以上にややこしい状況になった可能性もある。
「結果的には、これで良かったという事ですか……?」
「良くない? 私と付き合うのは嫌?」
 さっきの池田の告白を聞いておいて、そんな事を言うのだから人が悪い。
 池田は抱きついていた千章の肩を掴んで距離を開けると、彼女の顔を覗き込んだ。眼鏡をかけていなくても鼻がつくほど間近なら見える。
「いいえ。嬉しいです」
 できうる限りの精一杯の笑顔を向けて、そのまま唇を重ねた。
 初めて自分からしたキスは、扇情的では無いものの、ふわりと甘かった。

                                          End ?

   

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