イノセント
5
いきなり身体から始まってしまった千章との関係に、池田は酷く混乱し、落ち込んだ。
次々と起きる予想外の事におろおろしたまま、ろくに抵抗できなかったというのが情けない。しかも、拒絶する心と裏腹に、身体が喜んでいた事は否定できなかった。
それから2週間。池田の悩みは膨らむばかりだ。
千章とあんな事になってしまった日の翌朝、慌てて逃げ帰った池田は腕につけていたはずの時計が無くなっている事に気がついた。いつ外したのかは定かでないが、置き忘れたのは千章の家に違いない。ただの時計であれば、いくら高価でも諦めた。しかし無くした時計は、祖父から貰った形見の品だった。
もう2度と会うまいと思っていた千章に嫌々聞けば、彼女の部屋はあの夜見た通りに乱雑そのもので、時計のありかは判らないらしい。どこかの居酒屋でバイトをしていて余り家にいないという千章に合鍵を渡された池田は、部屋の整理をしながら時計を探す事になってしまった。
最初の2、3日は千章との縁を切りたい一心で真剣に探した。だが見つからない。整理整頓が得意だと自負していた池田が閉口するほどの物の多さに、やがてうんざりしてきた。
片付けに飽きてきた池田の目にうつるのは、隣室の書庫。休憩ついでの軽い気持ちで手に取った本に魅了された。
もちろん時計の事は忘れていないから探し物は続行しているが、目に付いた本に夢中になり、千章が帰宅するまで気がつかない事も間々あった。そういう時は大抵、最初の時と同じ展開になる。初めて気付いた学習能力の低さを嘆くのと共に、肌を合わせる事に慣れていく自分が怖かった。
今日も今日とて、昭和中期の書物を読みふけっていた池田は、帰宅した千章が階下から呼ぶ声で我に返った。
「みっちゃん、下おいでー」
ハッとして近くの目覚まし時計を見れば、もう夜中に近い。
(……またやってしまった)
項垂れた池田は溜息をついて本を閉じる。好きな事に対する集中力が高いのも、考え物だ。
書棚に本を戻し階段を降りていくと、明かりのついている台所から良い匂いがしていた。
整理整頓や掃除は苦手なようだが、千章は料理の才能に恵まれていると思う。作る事も食べる事も好きらしく、池田が帰りそびれた日は必ず夜食を作ってくれる。そこまでしてもらう理由も無いし、悪いからと遠慮すると、家の片付けのお礼だと言われた。
最近では池田の好みを把握してきたようで、好物が出てくる事が多い。バイトで疲れて帰ってくるのだろうに、わざわざ自分に合わせた食事を用意してくれているのを思うと、落ち着かない気分になった。
廊下と台所を隔てているガラスの引き戸を開けると、振り返った千章がいつものようにパッと笑う。池田は気恥ずかしさから少し俯いた。
「おかえりなさい。あの……」
またこんな時間まで居座ってしまった事を詫びようとした池田を制し、千章は台所の隅に置いてある小さなダイニングテーブルを示す。
もともと土間だった所を改築したという台所は広めで、2人掛けのダイニングセットが置いてあった。
「ただいま。いいから座って。今日はクリームパスタにしたけど……平気?」
「はい。好きです」
素直に頷いて、用意された席に座る。
22歳にもなって恥ずかしいが、未だに子供味覚が抜けない。幼いと思われているかもしれないと不安になった。
そんな池田には全く気付いていないらしい千章が、テーブルの下に隠していたワインを高く掲げた。
「じゃじゃーんっ。見て見て。これ貰っちゃったの、今日!」
「……それは、良かったですね」
ラベルを指差して興奮する千章を冷静に見る。高級そうではあるが、ワインの銘柄はさっぱり判らないので同意しようが無かった。
「お客さんが海外旅行いったらしくて、そのお土産。向こうじゃ安いらしいけど、日本で買うと結構するのよ」
「そう、ですか」
ビンに頬擦りしそうな勢いの千章に、少しだけ胸が痛む。
単なる居酒屋のアルバイト店員に、高いワインをプレゼントするなんてどんな人物だろう。目の前の千章は純粋に喜んでいるようだが、果たしてそこに他意は存在しないのか……。
池田の微妙な表情に気付いた千章が、首を傾げた。
「あれ、ワイン飲めない?」
「いえ大丈夫です」
食べ物はともかく、アルコールに好みは無い。
池田の答えに嬉しそうな顔をした千章は、手馴れた様子で栓を抜いた。
「本当は、店に貰ったんだけどね。店長に無理言って持ってきちゃった」
「え」
思わず顔を上げ、千章を見つめた。視線の先の彼女は照れたように苦笑いする。
「この間みたいに皆でわいわいするのも良いけど、たまにはゆっくり飲みたいじゃない?」
「あ……、はい」
千章が個人的に貰ったわけでは無いと知った途端、肩の力が抜けた。自分でも意識しないうちに緊張していたらしい。
胸に安堵が広がるのと共に湧き上がる、新たな疑問。
(なぜこんなに緊張し、ほっとしたのか。この気持ちは何だ?)
グラスに満たされていく暗い赤色を見つめながら、自問を繰り返す。
どれだけ深く考えても、他人との関わりを極力排除してきた池田の中に、その答えは見つけられなかった。
予想通りというか何というか、池田は朝まで千章の家で過ごした。
立場的にも性格的にも強く出られないとはいえ、毎度、彼女のペースに巻き込まれている。
表向き拒否しながら、無意識に彼女との逢瀬を望んでいるのじゃないかと自分を疑い、吐き気がした。
寝不足と疲労に、自己嫌悪、羞恥、不安。絶不調の池田は何とか大学まで辿り着いたものの講義を受ける気にならず、校舎前の芝生に座り込んで、ただぼんやりしていた。
頭に浮かぶのは千章の事。なし崩しに続いていく不純な関係と、掴みきれない自分の心が交互に渦巻いて、どうしたらいいのか全く判らなかった。
どれほどの時間そうしていたのか、ふと視線を感じて顔を上げる。振り向くと、少し離れた位置から田中がこちらを見ていた。
鳥海川にサークル見学に行った時の約束通り、田中は池田につきまとう事を止めた。だから、講義で顔を見る事はあっても、全く会話をしていない。
池田は静かな大学生活が戻ってきた事を素直に喜んだが、反面、彼に振り回されていれば、ここまで鬱々と思い悩まなかったかも知れないとも思った。
性格が合わないと判りきっている田中を肯定するなんて、どうやらいよいよ弱っているらしい。
池田は大きく息を吐いて頭を振り、立ち上がる。それから、少し驚いた様子の田中に右手を挙げて見せた。
対人関係と恋愛の経験値が足りない池田には、千章との事を整理できない。そういった事に詳しい誰かの助けが必要だ。しかし、相談できるような友人がいなかった。
自分で近寄るなと言っておきながら、相談に乗ってほしいなんて図々しい限りだが、そんな事に構っていられないほど池田は切羽詰っていた。
理由の判らない焦燥感が、池田を包んでいる。
(早く、このもやもやをはっきりさせなければいけない。そして……)
自分がこの先、どうしたいのかを知りたかった。
2週間ぶりに声を掛けた田中は、池田に拒絶された事など気にしていないのか、以前と同じようにへらへらと笑った。
過ぎた事は気にしないタイプなのか、単なる天然なのかは知らないが、少し羨ましい。
実際に迷惑だったとはいえ、言い過ぎた事に対する池田の謝罪は「いーの、いーの」という言葉で済まされてしまった。
最近の田中の生活や、講義の事など、他愛の無い会話をした後、池田は覚悟を決めて口を開いた。
性的な事に話が及ぶ以上、さすがに恥ずかしくて自身の問題だとは言えない。池田は『知人から相談を受けたのだが、どうしたらいいか判らない』という嘘の設定を作り上げた。
飲み会の後、全く意識していなかった女性に半ば襲われて関係を持ってしまった事。とある事情から、どうしても女性宅に通わなければならない事。断りきれずに続く逢瀬に悩んでいるという事。
全てを語った池田は、他人の悩みとして話したのに居たたまれなかった。
聞き終えた田中は、池田の思惑に反して別段驚いた風もなく、不思議そうに首を捻る。
「えーっと。何で悩むのかが、よく判らないんだけど」
「……恋愛関係に無い男女が、性的な関係を続けるのは好ましく無いでしょう」
田中はきちんと話を聞いていたのだろうか。
訝しんだ池田が眉間に皺を寄せて言うと、ますます判らないといった顔をした。
「そう? でも、お互いに恋人がいるわけじゃ無いんだよね?」
「ええ。特定の方がいるという話は聞いた事がありません」
もしそんな話になっていたら、いくら祖父の形見でも、時計を諦めたはずだ。
「でもって、女の子の方も付き合ってくれとか言わないで、納得してるんでしょ」
「そう、ですね」
言葉で聞いた事は無いが、間違いないだろうと頷く。
最初に手を出したのは千章だし、乗り気なのも主導するのも毎度のごとく向こうなのだ。納得していない訳が無い。
「それなら良いと思うけど……あ、でも、実はすっごい変態プレイを強要されてるとか?」
田中の飛躍しすぎな問いに、目を剥いて吹き出した。
「なっ、ななな、無いですよ! あ、いや、その、多分ですが。普通、だと思います」
途中で『他人の身の上話』だと思い出した池田は、顔を赤くしながら、しどろもどろに弁解する。
確かに恥ずかしい事を命令口調で言われたりもするが、あれは冗談というか、からかっているだけらしいから問題無いと思う。
「じゃあさ、それって単なるセフレってやつだし。割り切っちゃえば良いんじゃないのかなぁ」
さらりと言われた言葉に、池田は衝撃を受けた。
池田が悩み続けていた千章との関係は、端から見ればセフレらしい。気持ちが繋がっている訳でも無いのにセックスはする。そう思われて当然だ。
急に胸が重くなる。身の内に広がった暗い思いは、考えたくない可能性を引きずり出した。
(彼女も、そう思っている?)
違うと思いたいのに、その考えは余りにも事実に符合しすぎていて否定できない。
千章の欲求不満を解消するために、利用されているのかも知れないと気付いて、また落ち込んだ。
「もし……割り切れなかったら……」
気付かないうちに口から零れていた言葉に、田中がにっこり笑う。
「どうして、割り切れないの?」
「え?」
言われた意味が判らずに聞き返した。
「もうやっちゃってるんだし、その子に触りたくないくらい嫌ってわけじゃないんでしょ。それでも割り切れないって言うのはさ、その子とちゃんと付き合いたいって思ってるからじゃない?」
まさか。ありえない。
瞬時にそう思ったのに、なぜか口にはできなかった。
この2週間で知った千章の表情が次々と思い出されて、胸がざわめく。息の詰まるような苦しさに泣きたくなった。
何も言えずに、ただ胸元を押さえた池田の隣で、田中が声を上げる。
「あ、千章先輩だ……せんぱーい、おっはよーございまーすっ!」
池田たちの座る芝生から20メートルほど先、実習棟へ繋がる道を白衣を着た千章が歩いていた。弾かれたように顔を上げると、向こうも気付いたらしく手を振ってくれる。
同じ実習グループなのだろうか、近くの男子学生が何やら話しかけた。千章は笑いながら返事をして、また歩き出す。
「……」
池田は手を振る事も、田中のように声を掛ける事もできなかった。
見知らぬ男に笑いかける千章の姿が脳裏に焼きついて、心が痛い。
何もせずに千章を見送った池田は、思ってもみなかった自分の変化に激しく動揺していた。
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