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 イノセント

 4
 20分近くも足を伸ばして座っていた池田は、痺れの引いた足で立ち上がり膝の屈伸をした。筋肉が凝っているのもだが、関節が少し痛い。
 眩暈というほどでもないが、軽いふらつきを感じる。酔いのせいというよりは、単なる眠気だろうと思った。早寝早起きを心がけている池田は、日を跨ぐような時間まで起きている事など無いからだ。
 幸い千章の家から自宅マンションまでは、徒歩でも数分。近所と言っても差し支えない距離にある。すぐに帰り、シャワーを浴びて寝てしまいたかった。
 池田はこめかみを押しながら、何も掛けずに畳の上で眠る千章を見た。
 本間は放っておけと言っていたが、このまま放置するのは人としてどうなのだろう。とはいえ、何か掛けてやりたくても代わりになるような物が見当たらない。
 短く息を吐いて近付くと、軽く肩を叩いた。
「千章先輩、起きて下さい。布団で寝た方が良いですよ」
 これで起きなければ置いていこうと思い、声をかける。2度起こしたのだから、義理は果たせるはずだ。
 千章は池田の声にぴくりと震えた。ゆっくりと身体を伸ばし、何度か瞬きをして覗き込む池田を見つめ返した。
「あれ……」
 室内が静かな事に驚いたのだろう。畳に肘をついて腰を浮かせた千章は、きょろきょろと周りを見渡した。
「30分ほど前に皆さん帰られました。その時にも一応、声は掛けたのですが……」
 なぜ起こさなかったのかと怒られては敵わないので、言い訳をしておく。が、別にどうでも良かったらしく、起き上がった千章は髪をかき上げて「そう」とだけ言った。
「……喉、渇いた」
 酔いの醒めた後の、当然の反応。内心、勝手に台所に行って飲めばいいじゃないかと思ったが、一応は後輩なのでしぶしぶ立ち上がった。
「台所、お借りしますね」
 廊下の突き当たり、明かりをつけても薄暗い台所で、手近なコップに水道水を汲んだ。
 自分の部屋ならば冷蔵庫のミネラルウォーターを出すのだが、他人の家の冷蔵庫を勝手に開けるのは憚られるし、そもそも入っていないかも知れない。
 座敷に戻って、動かずにいた千章に渡す。すぐ一気飲みして息を吐いた千章は、池田を見上げてふんわりと笑った。
「ありがとうね。みっちゃん」
 寝起きのせいか、普段よりもあどけない顔。初めて見た表情に、ほんの少し心臓が跳ねた。
「それじゃ、僕も帰ります。今日はご馳走様でした」
 動揺している事を悟られないように、淡々と述べて踵を返す。
「……あ、うん」
 先に玄関へと向かった池田の後を千章がついてくる気配がした。見送ってくれる気持ちはあるらしい。
 玄関の明かりはついていなかったが、木戸にはめられたガラスから月明かりが差し込んでいて何とか見える。そのままで大丈夫だと判断するのと同時に、つけたくてもスイッチがどこにあるのか判らない事に気付いた。
 靴を履くために屈む。疲労でぼうっとする頭を振った時、後ろからガツンと派手な音がした。
 一気に眠気の吹き飛んだ池田が驚いて振り向くと、ついてきていた千章が廊下にうずくまっている。
「先輩っ!?」
 慌てて駆け寄る。千章は脛を両手で押さえて、わずかに震えていた。
「コケて、足ぶつけちゃった……痛ぁ……」
 なにがどうなって、どこにぶつけたのかは判らないが、脛を打ったのなら相当痛いはずだ。池田は呆れながらも、千章に手を伸ばした。
「見せて下さい。足、動かせますか?」
 暗くて見えにくいが、脛の真ん中辺りが腫れている気がする。ふくらはぎを持ち上げた池田が膝と足首の関節を動かすと、千章は痛がる様子もなく首を縦に振った。
「ん、平気。動かすのは痛くない」
 どうやら骨に異常は無いらしい。池田はほっと胸を撫で下ろす。
「ただの打撲だと思いますが、冷やした方が良いです。湿布ありますか?」
「あるけど……大丈夫よ。これくらい放っておけば治るわ」
 池田はそういう事に詳しくないが、女性の足に痣が残ったりしたら大変なのでは無いだろうか。
 千章は自分の中にある女性像と、ことごとく違う。本当に変わっていると思った。
 痛くないように千章の足をそっと下ろした池田は、自分が見つめられている事に気付いて顔を上げる。
「何ですか?」
「んー……。まだちょっと酔ってるし、足も痛いから、悪いんだけど2階まで連れて行ってくれない?」
 他意の無い笑顔に、また呆れた。今更手伝いを頼まれても厭いはしないが、女性がここまで無防備ではいけないと思う。ここにいるのが自分ではなく田中だったら、どうなる事か。
「……判りました」
 溜息と共に答えて、千章の手を取り引き起こす。一瞬痛そうに顔をしかめたものの、ぶつけた方の足を庇いながら歩き出した。
 台所の脇にある階段は、古いせいかやけに狭くて急だった。一応手すりがついているが、何故かその下に雑誌類が積んであって、歩ける範囲が更に狭くなっている。
 池田は千章が落ちないように、後ろから支えながら階段を登った。
 2階はどうやら2部屋あるらしい。ドアを開け放してある奥の部屋に、階段の明かりが差し込んでいたので思わず中を見てしまった。
 書斎のような作りの洋室に、天井までの本棚。何かの書籍がぎっしり詰まっていている上、入りきらないらしい本や雑誌が床に平積みしてある。廊下や階段に積まれている本は、この部屋から溢れ出したものらしかった。
「そっちは本とか置いてる部屋。私のもあるけど、お爺ちゃんが研究者だったから、その名残よ」
「凄いですね」
 素直に感心する。池田は主にコンピュータやネットワークを学んでいるが、紙の本も好きだ。
 読んでみたいと思いつつ、図々しい願いだと気付く。サークルに入る気が無いのに「本を貸してください」とは、とても言えなかった。
 池田が奥の部屋を見ているうちに、千章は自室のドアを開ける。
 このまま帰っても良いだろうかと考えていた池田は、いきなり手を掴まれ部屋の中に引き込まれた。予想外の事態にバランスを崩した上、回り込んだ千章に後ろから背中を押されよろける。
「うあっ」
 奥の書斎と大差無いくらい、本と雑貨と衣類で散らかった部屋。床に置かれていた何かにつまづき、そのまま壁際のベッドに倒れこんだ。
 何が起きたのか判らないうちに、腰の辺りが急に重くなる。何かとてつもなく重い物が寄り掛かってきて、苦しさから情けない声が出た。
(一体、何なんだ!?)
 混乱する池田の頭上から、くすくす笑う声が響く。うつ伏せの状態から首を回して振り向くと、背中の上に座っている千章が目を細めた。
「つーかまえた」
「なにを……」
 呆然とする池田の前で、千章はゆっくり口の端を上げる。艶やかな笑みに背筋が震えた。
「何って、この状態でそれを聞くの?」
 謎掛けのような千章の言葉に、目を瞬く。驚きと混乱のせいで、池田の思考は完全に止まっていた。
 千章は声を出さずに肩を震わせて、座る位置を足の方にずらした。内臓を圧迫される苦しさから解放された池田がほっとしたのも束の間、千章の手が身体とベッドの間に差し込まれる。
 驚いた池田はとっさに肘をついて起き上がろうとしたが、結果的に千章の手の動きを助ける事になってしまった。ベッドとの間にできた隙間から、下腹部をざらりと撫でられた。
「わあぁっ!」
 思わず上ずった声が出る。男としての面子など気にしていられないほど池田は動揺していた。
「やだ、可愛い」
 嬉しそうな千章の声に青ざめた。頭は冷えていくのに、身体が火照る。千章が触れている部分に熱が篭もっていくのを感じ、眩暈がした。
「や、止めて下さい……!」
 やっとの事でそう言った池田は、ぎゅっと目を瞑る。激しくなる鼓動と背中を駆け上がる震えに息を吐いた。初めて自分以外の人間に触られる快感は、池田にとって苦痛に近い。
 浅い呼吸をしながら千章を見つめると、判っていたように笑みを返された。
「い、や」
 はっきりと拒否される。
 思い切り突き飛ばして跳ね除ければ良いのだろうが、身体に力が入らない。それでも上半身を捻って抵抗しようとすると、服の上から強く握られた。
「いっ!」
 痛みと快感が同時に襲ってきて、池田は息を詰める。硬直していた足が大きく震えた。
 千章は少し腰を浮かせて膝立ちになると、池田を横向きにした。
「大人しくしてたら、気持ち良くしてあげる」
 優しく囁いて、また撫でさする。されるがままの池田は、再び湧き出した甘い痺れに息を切らしながら小さく首を振った。
「こんなの……ダメ、です」
「どうして?」
 手は止めないで、千章が聞く。
「こういう、事は……好き合ってる、人が、するんでしょう……?」
 荒い呼吸の合間に、言葉を乗せた。
 千章に翻弄され、しっかり感じてしまっている池田が言うのはおかしいかも知れないが、どうしても譲れない。恋慕というものは本能的な欲望ではなく、脳の思考から生ずると信じていた池田には、この状況を肯定できなかった。
 じっとこちらを見つめた千章は、壁を向いて横になっている池田の後ろにぴったりと寄り添い、首に腕をまわす。
「みっちゃん、私の事、嫌い?」
 まだ動悸は激しいが、直接的な刺激が止んだ分、冷静になれた。
「嫌いじゃ無いですが、そういう事では無くて……」
 どちらかと言えば千章は苦手なタイプだが、はっきり好き嫌いの判断ができるほど親密じゃない。更に自分の考えを述べようとすると、千章はふふっと笑って池田の頬を撫でた。
 学食の時と同じ、滑らかで冷たい指先。池田の意思とは関係なく身体が跳ねた。
「みっちゃん可愛い」
 出会ってから何度も可愛いと言われるが、どうにも腑に落ちない。男に向かって可愛いという表現はおかしいと思った。
 眉間に皺を寄せ、そんな事を考えているうちに、千章は腕を解いて池田から離れていく。解放された事に安堵した池田が、起き上がる為に寝返りを打つと、待ち構えていたように眼鏡を外された。
「え……先輩?」
 突然ぼやける視界。酷い近視と乱視の池田は、裸眼では人の顔すら判らない有様だった。
 色調だけで動く千章を見つめると、上着を脱ぎ捨てた……気がする。
「あの、何をしているんですか?」
「服を脱いでる」
 何でも無い事のように返された。が、事実を認識した池田は慌てて壁際に向き直る。ほとんど判らないとはいえ、見続けていいものでは無かった。
 いきなり服を脱ぎだした意図が掴めない。風呂に入るにしても、部屋で服を脱いでいく習慣があるのだろうか。
 千章の行動の理由を考えていた池田は、突然ウエストの締め付けが緩んだ事に驚いた。
「えっ、な……っ!」
「それーっ」
 明るく楽しそうな千章の声と共に、ズボンが抜き取られた。直接肌に触れるシーツの感触で、一緒に下着まで持っていかれたと気付く。
「い、いきなり、何をするんですかっ!!」
 急いで前を隠して身を縮めた。恥ずかしさから顔が赤くなる。
「ん? ……だって、お互いが好き合ってたら良いんでしょ。みっちゃんは私を嫌いじゃないんだし、私もイヤじゃない。で、二人ともフリー。何か問題ある?」
「ありますっ!」
 嫌いじゃないと言っただけで、好きな訳では無いのだと説明する為に顔を上げた。しかし、すぐ間近に何も着ていないらしい千章が迫っていて、池田は声を失った。
「みっちゃんの話は後でちゃんと聞くから……とりあえず、しよ。もう限界」
 勢いよく圧し掛かられた池田は、その重さと苦しさに目を白黒させる。
(後でじゃ、遅い……!)
 素肌を撫でられる感触に驚いて上げた声は、言葉にならなかった。

   

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