イノセント
3
朝から夕方まで川釣り見学に付き合った池田は、このまま家に帰るつもりだった。
サークルの趣旨からすると、この後は宴会になるのだろうが、田中はともかく、入会する意思の無い池田が参加するのは気が引ける。それに池田自身、酒宴が余り好きではなかった。
積極的に飲まないだけで下戸というわけではないし、味も嫌いではない。しかし酔っ払いの醜態を見せられるのが嫌だった。
どこへ向かっているのかは知らないが、皆はちょうどよく池田の住むマンションの方へ歩いていく。近くなったら挨拶して別れるつもりでいた池田は、あと少しという所で、土手を下りだしたメンバーを不思議に思った。
「あー、重てぇ。近いけど、やっぱ歩きはきついな」
仙波の呟きに、それぞれが頷いている。
「家貸してやってるんだから、文句を言わない」
先頭を行く千章がからからと笑った。
(家を、貸す?)
言葉の意味が判らずに難しい顔をすると、こちらに気付いた田中が小声で囁いた。
「鳥海川で活動する時は、すぐ近くにある千章先輩の家で飲むんだって……えーと、あそこかな?」
田中の指差した先、土手を降りきったすぐ目の前に、黒っぽい木造の家が建っていた。両手に竿とバッグを抱えた千章が、身体で門扉を押し開けて入っていく。仙波たちが荷物を中に運び始めたのを確認し、ここに間違い無さそうだと思った。
それにしても古い。建築に詳しくない池田の目から見ても、4、50年は経過しているように思えた。
一部が2階建てになっている一軒家。瓦屋根に、しっくいと黒い木で作られた壁。リフォームしたのか窓枠はかろうじてアルミサッシだが、玄関が木の引き戸だった。
鉄骨造りの近代的な家にしか住んだ事の無いせいで、古い日本家屋が物珍しく見える。辺りを見回していた池田は、いざなわれるまま門をくぐってから、ハッとした。
「あ……僕は、その、この辺でお暇しますっ」
もう少し、さりげなく言うつもりだったのに、とっさの事で叫んでしまった。
先に中へ入った千章と仙波以外のメンバーが、驚いて振り向く。
「え、池田くん何か予定でもあるの? バイトとか?」
本間が首を傾げた。他意の無いまっすぐな視線を向けられて、池田はたじろぐ。
「い、いえ、そういう事では無いんですが。僕は正式なメンバーでもありませんし、夜分にお邪魔するのは……」
「ああ、私達そういうの全然気にしないから平気よ。今回の分は特別にご馳走してあげるから、お金も要らないし……あ、でも2人がフードファイター並みに食べて飲むっていうなら、払ってもらうけど?」
自分で言った冗談に本間がくすくすと笑った。益々断りにくい状況になってしまった池田は、どうしたものかと心の内で項垂れる。
と、中に入ったはずの千章が、引き戸の向こうから顔を出した。
「なにごちゃごちゃ言ってるの。早く来て手伝ってよ、萩子」
「だって、池田くんが私達に遠慮して、帰るって言うんだもの」
楽しそうに含み笑いする本間とは逆に、千章は池田に向かって妖艶に微笑んだ。
「みっちゃんも早く来なさい。遠慮なんてしてられないくらい、ご奉仕させてあげるから」
「な……っ!」
細められた瞳とぽってりした唇が、自分を呼ぶのを見て、池田はその場で硬直した。
「やだもう千章ってば、やらしーぃ。だから女豹とか言われるのよ」
「それ言ってるの萩子たちだけじゃない」
棒立ちの池田には構わず、千章と本間は軽口を言い合いながら、中へと入っていく。
これまで感じた事の無い震えに顔を染めていた池田は、しばらくそのまま呆然としていた。運動した後のように、鼓動が激しく鳴っていた。
千章の家は外観と同じく内装も古い。台所等の水周りや、痛んだところを修繕しているそうだが、湿った木の匂いのする暗い家だった。てっきり家族で住んでいるのかと思えば、実家は別にあるらしく1人で暮らしているそうだ。
庭に面した縁側の奥にある二間続きの和室に、長い座卓を並べ宴会場とした。
酒のつまみは、もちろん今日釣れた魚がメインだが、それだけでは足りないので市販の食材で作ったものも揃っている。予想以上に豪華だった事もだが、料理のほとんどを千章と萩子が作った事に驚いた。
他人の家で飲んだ経験の無い池田は、身の置き所が定まらず、座卓の一番端でそわそわしていた。
最初、今日の釣果や釣り道具について熱く語っていたメンバーだったが、酒が進むにつれ大学の話題へと移り、講義内容や就職活動、特に卒業の事に集中した。まだ大学に入ったばかりの池田には関係の無い話だが、メンバー3人が最高学年なのだから当然の流れだった。
3年先とはいえ他人事で無いと感じた池田は、同じ立場の田中へと視線を向ける。が、すぐ隣にいたはずの姿が見えない。慌てて近くを見回すと、いつの間に移動したのか、縁側に寝転がっていびきをかいていた。
無理矢理呼び出した本人が池田を放ったらかして寝るなんて、どういう神経なのか。軽い憤りと、この場に1人残された不安から、池田は田中に声をかけた。
「田中さん。寝ないで下さい」
話し続けているメンバーの邪魔にならないように小声で呼んだが、ぴくりともしない。酒に酔った真っ赤な顔でにやにやしているところからすると、何か都合の良い夢を見ているのだろう。どこまでもマイペースな田中に呆れた。
「あら、田中くん寝ちゃったの?」
突然耳元で囁かれた声に、池田は飛び上がる。思わず身体を引くと、口角を上げた千章に肩を掴まれた。
「す、すみません。起こしますので」
体験入会の上、厚意に甘えて人様の家で眠るなど無礼もいいところだ。池田は田中を叩き起こす為に立ち上がりかけ、制された。
「いいじゃない別に。それよりも……」
千章は楽しそうにふふっと笑うと、正座していた池田の膝に自分の頭を乗せて寝転がった。いきなり膝枕をさせられた池田は、彼女を見下ろし目を瞬く。
「せ、先輩?」
置かれた状況が理解できない。呆然とする池田に千章は意地の悪い笑顔を見せた。
「遠慮なんて忘れちゃうくらい、ご奉仕させてあげるって言ったでしょ。みっちゃんは私の膝枕係ね。仙波たちが帰るって言ったら起こして」
「……」
あれは冗談では無かったのだろうか。足の上に千章の重みを感じながら、池田ははっきりと困惑した。
自ら望んだわけではないが、千章の家で夕飯と少しの酒をご馳走になった以上、断るわけにはいかない。しかし、女性との関わりが薄い池田には、刺激の強い状況だった。
何と言って断れば角が立たないかと頭を悩ませているうちに、千章は眠ってしまったらしい。足の上が一層重くなった事に気付いて焦る。誰かに助けを頼もうにも、田中は眠っているし、他のメンバーもしこたま酔っていて自分たちの会話に夢中だ。
池田は一つ溜息をつくと、諦めるしかないと覚悟した。
無邪気に眠る千章の顔は、極力見ないように勤めた。
まめに時計を見ていたわけではないが、仙波たちが帰ると言い出した時には0時をとうに過ぎていた。
膝の上に千章の頭を乗せたまま、うつらうつらしていた池田は、目の前の皿が片付けられていく光景にぼんやりと顔を上げる。
重ねた皿を持ち上げた湯川と目線が合うと、苦笑いされた。
「座ってていいよ。動けないだろ?」
「あ……」
途中で足を崩したものの、けっこうな時間膝枕をしていた足は感覚が鈍くなっている。まだ眠り続けている千章を見て、どぎまぎした。
さすがに恥ずかしい。他のメンバーに、この状況がどう見られているのかが酷く気になった。
いつの間にか酔いの醒めたらしい湯川と仙波が、手馴れた様子で後片付けをしていく。片付けは男と決まっているのか、座ったままの本間がこちらを見て、やはり苦笑した。
「池田くん、お疲れ様ぁ」
「はい?」
唐突なねぎらいに首を傾げる。何のことか判っていない池田にまた笑うと、本間は眠る千章を指差した。
「色々と理由つけて、無理矢理そこに寝たんでしょ?」
「あ、えっと……はい」
誤魔化す必要も無いので、素直に応じた。
「ごめんねぇ。千章ってば、甘えたさんだから」
「そう、なんですか」
困り顔で微笑む本間に違和感を覚える。これまで見た千章が甘えただなんて到底信じられなかった。そういうのは子供っぽい女が見せるものでは無いのだろうか。
大柄でグラマラスな千章を思い描いて、池田はまた頬を染めた。
手早く片付けを終えたらしい湯川が戻ってきて、縁側で大の字になっている田中の頬を引っ張る。最初、口の中で何かをもごもご言っていた田中は、薄目を開けて「女の子じゃない」と訳の判らない事を言った。
台所から戻ってきた仙波が捲り上げていた袖を直すのと同時に、本間がゆっくり立ち上がる。何事かと見上げた池田に向かって、にっこりと笑った。
「今日はお開き」
どうやらこれで解散らしい。やっと帰れる事に心底ほっとした池田は、膝で眠る千章を軽く揺さぶった。
「千章先輩、皆さん帰られるそうですよ。起きて下さい」
自分で起こせと言ったはずなのに、目を覚ました千章はくっきりと眉間に皺を刻んで池田を睨んだ。寝惚けているのか、腫れぼったい瞼で睨まれるのは少し怖い。
池田が怯んで動けずにいると「まだ眠い」と呟いて膝から降り、畳の上で丸くなってしまった。
どうすればいいのか判らず振り返る。
見た目より酔っているらしい本間を支えた仙波が肩を竦めた。
「千章は酒癖は良いんだが、寝起きが悪いんだ」
「放っておいても大丈夫よー。勝手に起きて、布団行くでしょ」
仙波に寄り掛かった本間が、からからと笑う。
確かにこの陽気なら何も掛けずにごろ寝したところで風邪もひかないだろうし、池田も本間の言う通り、このまま帰ってしまいたい。しかし、帰りたくても長時間の膝枕のせいで足が全く立たなかった。
やっとの事で足を伸ばすと、つま先からじわじわ痺れが上がってくる。この様子では歩けるまでにしばらくかかりそうだ。
まだ寝惚けている田中を抱えている湯川と、足元の覚束ない本間を支えている仙波を見上げ、池田は苦笑いをする。
「まだ歩けそうに無いので、少し休んでいきます」
元より手助けして貰うつもりは無かったが、田中と本間に手がかかる以上、望んでも無理だ。かといって、足の痺れが治まるのを一緒に待ってもらうのは悪い。
池田の様子に少し考え込んだ仙波は、隣に立つ本間を見やって、ぎょっとした。立ち上がったせいか急激に酔いが回ってきたらしく、目をしょぼしょぼさせている。あからさまに眠そうだった。
「お、おい。本間、寝るなよ?!」
段々と身体が斜めになっていく本間に、仙波が慌てる。
「……先輩、先に帰って下さい。僕も足が治ったらすぐに帰りますので」
まだかろうじて目を開けている本間の腕を肩に担ぐと、仙波は「すまんな」と一言残して座敷から出て行った。
池田は残された湯川に視線を向ける。田中は立ってはいるものの、未だ夢うつつの状態らしい。
「置いていっても、平気か?」
湯川の言葉には主語が無かったが、おそらく池田本人の事だろうと思い頷いた。ふらふらしている田中を抱え直した湯川は、思わせぶりな視線で池田と千章を見比べる。
意識の無い女の元に、男1人を残していくのをためらっているのだろうか。女性と付き合った事の無い池田にも、余り良くない状況だというのは判るので先回りした。
「大丈夫です。絶対に何もしませんから」
他人に関心の無い池田は、女性にも余り興味が無い。恋や愛というものも良く判らないし、性欲も薄い方だと思う。それに、女性の寝込みを襲うなどという野蛮な行為を軽蔑していた。
一瞬驚いた湯川は、視線を反らして眉尻を下げる。
「……違う。逆」
「え?」
何が逆なのか。自分でも口下手だと言うように、湯川の言葉はあちこち足りなくて理解するのが難しい。
「まぁ……君も男だし大丈夫だろうけど。気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
1人で帰る時の事だと受け取った池田は、素直に礼を言った。
「外から鍵かけてポストに落としておくから、帰る時はそうして……じゃあ、お疲れ」
もう一度礼を述べた池田に、空いている手を挙げた湯川は、田中を引き摺りながら玄関へ向かう。やがて、引き戸を開け閉めする音と、鍵が落ちる音が無音の室内に響いた。
急に静かになってしまった部屋に、壁掛け時計と千章の寝息だけが聞こえる。
足先から始まった痺れは、太ももまで達して池田を苛んだ。少しでも動かそうとすると、電流に触れたのかと錯覚するほどの痛みが走る。動かさなければ痛みは感じないのだが、それはそれでもどかしかった。
座った姿勢で溜息をつく。
言いようの無い鈍い痺れをやりすごすために、池田は目を閉じて眉間に力を入れた。
「……つらい」
吐く息と共に、本音が零れ落ちる。
奥座敷の壁に掛けられた時計は、もうすぐ1時になろうとしていた。
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