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 イノセント

 2
 休日といえど、池田の朝は早い。
 6時半にセットされている目覚まし時計を止め、ベッドから出ると、まず着替え。それから洗面所で顔を洗い、髪を整えてから、マンションの入り口まで新聞を取りにゆく。戻ったらトーストしたパンと温めた牛乳、あとはその日によって卵を焼いたりもするが、新聞を読みながら朝食をとる。
 これが平日休日に関わらず、崩れる事の無い池田の朝の過ごし方だった。
 割と裕福な家の子である池田は、バイトをする事もなく仕送りだけで1人暮らしをしている。だから、予定の無い休日にまで規則正しい生活をする事は無いのだが、だらけるのは性格上耐えられなかった。
 トーストを租借しながら、黒一色の小さな文字を目で追っていく。規則正しくびっしりと書き込まれた文章を読むと、寝起きの頭が冴えていくような気がした。
 一面の特集記事を読み終えた池田は、ふと目線を上げる。窓の外は雲一つ無い晴天で、まだ春なのに暑くなりそうだ。
 突然、無音の室内に無機質な電子音が鳴り響く。わずかに驚いた池田は、それが自分の携帯のコールだと気付いて手に取った。画面には、公衆電話からの着信だと表示されている。
(……誰だ?)
 訝しんだものの、知人からの緊急連絡だったら大変だ。池田は通話ボタンを押すと、慎重に耳にあてた。
「もしもし?」
『あ、みっちゃん。おはよう!』
 忘れたいのに忘れる暇さえない田中の声が聞こえ、池田は眩暈を感じた。穏やか朝が音を立てて崩れていく。
「なぜ僕の番号を知っているんですか……っ!」
 震える手を何とか抑えて問うと、田中は悪びれずにのほほんと笑った。
『盗み見しましたぁー。あはは。ごめんごめん』
「……」
 余りの事に絶句する。田中には他人のプライバシーを尊重するという考えが無いのだろうか。
『ねぇねぇ、みっちゃんの家って、鳥海川(ちょうかいがわ)から近い?』
 池田の反応にはお構いなしの様子で、田中が聞いた。
 鳥海川というのは、市内の中心を流れる河川の名前だ。どちらかというと海に近いので、川幅が広くグラウンドも完備されている市民の憩いの場だった。
「徒歩で10分ほどですが、いったい何の話なんですか。そもそも他人の番号を勝手に」
『オッケー。俺これからサークルの活動見学に行くんだけど、いっしょに行こうよ!』
 池田が言い終わらないうちに、田中が嬉しそうな声を上げた。公衆電話からとは思えない大音量に思わず耳を離す。
「行きませんっ」
 負けじと声を張った池田は、イライラしながら爪を噛んだ。
 勝手に他人の携帯番号を調べ、いきなり早朝に電話してきたと思えば、こちらの予定も聞かずにサークルに参加しようと言う。身勝手もいい加減にして欲しい。
『えー、楽しいのになぁ。見学だけど、釣竿も貸してくれるっていうし、宴会も参加して良いって言うんだよ?』
「再三言っていますが、僕はそういった活動に興味がありません。はっきり言って、お誘いされるのも、話しかけられるのも、迷惑なんです」
 他人だからとこれまでは遠慮していたが、田中にははっきり言わないと判らないらしい。池田は迷惑という部分に力を込めて、きっぱりと言い切った。
 電話口の田中が息を飲み口をつぐむ。急に静かになった受話器からは、風とかすかな車の音だけが聞こえた。
 悪いのは田中のはずなのに、池田は妙な気まずさを感じる。
(……このまま切ってしまおう。さすがにここまで言えば、2度と話しかけては来ないだろう)
 そう思い、終話ボタンを押しかけた時、田中の声が響いた。
『みっちゃんの気持ちは判ったけど、今日だけ、1回だけで良いから一緒に行ってくれない? そしたら、もう諦めるからさ』
 初めて聞いた田中の沈んだ声。
 そこまで義理立てする必要など無いと理解しているのに、ほんの少し気持ちがゆらぐ。
 他人と関わるのが苦手な池田は、誰かを傷つける事に敏感だった。たとえ相手に非があるとしても。
「……本当に、今日だけですよ。僕だって暇じゃないんですから」
 感情を込めずに淡々と言った。同情を滲ませて、また調子に乗られるのは困る。
 池田の返事が予想外だったのか、田中はわずかな沈黙の後『ありがとう!』と言った。それは今まで聞いた中で一番嬉しそうな声だった。

 釣りというのは、どういう格好で臨むものなのだろう。
 アウトドアに全く知識の無い池田は、悩んだ末に紺の綿シャツに茶色のズボンを穿いて家を出た。顔さえ出せば田中も納得するのだろうし、極力参加せずに帰ってくるつもりだが、汚れては敵わないので濃い色にしたというだけ。
 待ち合わせのテニスコートまで、ゆっくりと歩く。今日の活動に千章が参加しているのかが、少し気になった。
 実際はすぐに着く場所なのに、わざと20分もかけて辿り着いた土手から、待ち合わせ場所を見下ろす。視線の先には大きめのクーラーボックスやら、釣竿やらを担いだ人間が3人立っていた。そして、その間をせわしなく動き回る茶髪の男。上から見ると、田中の落ち着きの無さが一層目立っていて呆れた。
 少し離れた位置に黒髪をなびかせている背の高い女を見つけ、池田は身を固くする。こちらを背にしているので顔は見えないが、千章だろうと思った。
「あ、みっちゃーん!」
 池田を見つけた田中が嬉しそうに手を振る。一斉に視線をそそがれた池田は小さく溜息をつき、会釈をしてから土手を降りた。
「おー、きたきた」
「田中くんの友達?」
「どもどもー」
 3人が三様に声を上げる。男性が2人に女性が1人。それに千章がサークルのメンバーらしい。
 失礼ながら千章と同じサークルに所属しているなんて、どんな凄い人間が揃っているのかと身構えていたら、至って普通のようだ。池田はほっとしながら頭を下げた。
「電子情報科の池田光弘です。よろしくお願いします」
 サークルに入るつもりも、今後見学するつもりも無いが、一応挨拶しておく。すると、近付いた田中に肩を組まれた。
「みっちゃんは大学で知り合った友達っす。ホントいい奴なんで、よろしくお願いします」
 無理矢理誘ったのを悪いと思っているのか、田中なりに気を使ってくれたらしい。そんなスキルがあった事に驚く反面、その呼び名と友達宣言を撤回しろと思った。
「みっちゃんて言われてるんだ……なんか可愛いかも」
 真ん中に立っていた背の低い女性が笑う。
 池田は半眼で田中を一睨みし、恥ずかしさから俯いた。
「田中さんが勝手に言ってるだけで、僕としては、止めて貰いたいんですが……」
 視線を逸らしたまま、容認しているわけでは無いのだと説明する。女性は一瞬きょとんとしてから、綺麗な笑顔を作った。
「あら、仲が良さそうで良いじゃない。て、自己紹介して無かったね。建築デザイン学科4年の本間萩子(ほんま しゅうこ)です。よろしく」
 本間は千章とは対照的に、あっさりした顔の小柄な女性だった。こげ茶のまっすぐな髪を耳の下で切り揃えている。専門学校時代の友人と似たイメージを持つ彼女に、池田は少し親近感を覚えた。
 自分の紹介を終えた本間は、左隣の男性に視線を向ける。大きな青いクーラーボックスを肩から提げた男は、本間と同じく建築デザイン学科4年の仙波和哉(せんば かずや)と名乗った。
「……一応、俺がサークルの主催者なんだよ」
 そう言って頭を掻いた仙波は、男の割に背が低いものの、がっしりした体型をしている。少し老け顔なところは、釣りと酒好きという趣味がよく似合っていた。
 もう1人の男性は、機械工学科3年の湯川太平(ゆかわ たいへい)と言うらしい。自分で言った通り、地味な顔立ちに無口な性格で存在感が無かった。同じように無口な池田は、湯川を好意的に見た。
「あとは、あっちでたそがれちゃってるのを含めて、全部で4人なんだ。……おい、千章。挨拶しろって」
 仙波の声に振り返った千章は、にやりと口の端を上げる。瞬時に頬の感触を思い出した池田は、人知れず震えた。
「このあいだ学食で会ってるから、いらないでしょ。ね、みっちゃん?」
 脳に直接響くような、ハスキーボイス。来る前に想像していたよりも遥かに緊張していた池田は、何も言えずただ首を縦に振った。
 意外そうな顔をした仙波が2人を見比べ「まぁいいけど」と呟いて荷物を抱え直す。それを合図に、各々が川に向かって進みだした。
 サークルメンバーの後ろを楽しそうについていく田中を眺めながら、池田は最後尾をとぼとぼ歩いていく。すぐに帰れるような雰囲気でない事に落胆しつつ、なぜ千章に対してこんなに緊張するのかが、自分でも判らなかった。

 釣り飲みサークルというのは、以前田中から聞いたとおり、昼間は釣りをして過ごし、夜は釣れた魚で宴会を開くというのが主な活動らしい。釣れなかった場合は、つまみを買って来て『反省会』という名の宴会をするそうなので、メインは酒飲みなのだろう。
 それでも釣りが好きな事には変わり無いようで、みな真面目に取り組んでいた。
 これまでやった事が無かった池田は、エサをつけて釣り糸を垂れておけば釣れるのだろうと思っていた。が、そんなお手軽なものでは無いらしい。釣堀や生簀ではない自然の海や川で釣ろうと思うなら、創意工夫に技術と根気がいると教えられた。
 仙波から釣竿一式を貸してやると言われたのを丁重に辞退した池田は、少し離れた位置から皆の様子や川の風景をぼんやりと眺めていた。
 田中は本間に釣りの手ほどきを受けながら、でれでれしている。先日の様子から千章のような女性が好みなのかと思っていたら、誰でも良いらしい。
 他のメンバーは等間隔に離れて、思い思いに釣りをしていた。必要最低限の会話しかしないのは、声に驚いて魚が逃げてしまうからだそうだ。簡単そうに見えるのに、色々なコツがあるものだと感心した。
(それにしても……)
 池田は目の端にうつる背中に視線を向けた。一番向こうで釣っている千章の真剣な後姿を、意外な気持ちで見つめる。
 釣りは中年男性がやる趣味という偏見があった池田には、若い女性が釣りをする事に少なからず違和感があったが、目の前の千章は男性以上に様になっていた。
 釣竿を上げると、手早く次のエサをつけ、弧を描くように竿先をしならせながら川面へ放つ。空を切る音と共に、糸の上を光が走りぬけた。
(……綺麗、だな)
 池田はいつの間にか、千章の無駄の無い動きに見惚れていた。

 結局、帰るタイミングを掴めないまま夕方になってしまった。
 午前中は先輩方の様子を眺めたり、田中に呆れたりし、昼は千章が作ってきたという弁当が予想外に美味しくて驚いたりした。午後は仙波の釣り講義を受けた後、大学に関する話題を聞いて過ごした。
 夕焼けの土手。メンバーと田中の後ろを歩きながら、池田は自分の心境が理解できずにいた。
 池田の普段の休日は、必要な買い物でも無い限り家から出る事も無く、読書か勉強に費やして終わる。それを不満に思った事など無いし、他人に干渉されない幸せな時間だと感じていた。だから、今日1日を無駄に使ってしまった事に苛立っても良さそうなのに、負の感情が全く沸いて来ない。逆に充足を感じている自分に、池田は内心驚いていた。
 西へ伸びる土手の向こうには目に痛い程の夕日。先を行く人影は、個人を判別できない、ただの影に見えた。
 ふいに思い出される懐かしい面々。去年、専門学校の共同制作の為に集まった仲間とも、こうして夕日を見ながら帰宅した事があった。
(……ああ)
 釣り呑みサークルの先輩達を、あの時の自分と仲間に重ねて見ていたと気付き、池田は納得した。
 静かに北の方角を見つめる。
 隣県の大学へ進学した自分とは違い、皆はまだあの街でそれぞれの人生を送っているのだろう。
 本当にほんの少しだけ、会いたいと思った事に気付かないふりをして、池田は前に向き直った。
「みっちゃーん。早く来ないと置いてくよ」
 気の抜けた笑顔の田中がこちらに手を振っている。
 他の誰でも無い、自分に向けて苦笑いをすると、池田はまた土手を歩き出した。
 わずかでも他人に関わりたいと思えた事が、今は少し嬉しかった。

   

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