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 イノセント

 1
 先ほどから送られてくる思わせぶりな視線を右に感じながら、池田光弘(いけだ みつひろ)は講師の語る、神学論に耳を傾けていた。
 昨年まで在籍していたIT系専門学校を卒業し、更なるスキルアップを目指して電子情報学科のあるこの大学に入学したのはいいが、なぜ無関係とも言える神学まで学ばなければならないのか……。
 釈然としないながらも、それが大学というところなのだから仕方が無かった。
 それにしても、隣に座る男の視線が疎ましい。気付かれないように横目で盗み見ると、男にしては大きな瞳をキラキラ輝かせてこちらを見ている。
 色白で明るい茶色に染めたくるくるの髪に、中世的な顔立ち。少し前に受けた講義で知り合った男は、田中潤(たなか じゅん)と言うらしい。
 田中は自分の教本の隅に何かを書きつけて、こちらによこす。
 いちいち見せて貰わなくても内容の判っていた池田は、あからさまな溜息をついた。
『いっしょに釣り飲みサークルに入ろう!』
 いつ見ても汚い字だと思う。
 このまま無視してやりたいが、講義中ずっと視線を送られ続けては敵わないので、しぶしぶ返事を書いた。
『お断りします。講義の邪魔をしないで下さい。』
 教本を突き返すと、しょんぼり項垂れたのが見なくても判った。
 ……馬鹿馬鹿しい。田中の勧誘に付き合うくらいなら、興味の無い神学論を聞いていた方がよほどマシだ。
 池田はそれまで聞き流していた講師の声を、真剣に拾い始めた。

「ねー、ねー、ねー。一緒に入ろうって、釣り飲みサークル」
 昼休み。学食に向かう池田の後ろを田中が追いかけてくる。
「お断りします」
 何十回目かの拒否をして、足を速めた。
「絶対、楽しいって」
「興味がありません」
 きっぱり断っているのに、諦める様子の無い田中は食い下がる。空気が読めないのか、厚顔無恥なのかは知らないが、押しが強くてしつこい田中は池田のもっとも嫌いなタイプだった。
 田中を振り切ろうと急いだせいで、もう学食に着いてしまった。併設されている売店でいつものようにメロンパンと野菜ジュースを買い、手近なテーブルに座る。パックにストローを挿した所で、日替わりAランチを手に戻ってきた田中が呆れ顔をした。
「まーた、メロンパンなの? よくそれで足りるねぇ」
「放っておいて下さい」
 これでも気を使って、好きでも無い野菜ジュースを飲んでいるのだし、それで足りない分はサプリメントを摂れば良いだけの事。田中に言われる筋合いは無い。
 池田がゆっくりパンをかじる間に、田中は猛スピードでAランチを平らげていく。もちろん合間に会話を挟むことも忘れない。田中の下らない話を聞きながら、器用さだけは天才的だと思った。
 食べ終えた池田は、携帯のウェブサイトで時事ニュースをチェックし始めた。朝一で新聞は読んでくるのだが、やはりタイムラグは否めない。速報を知るためにはネットが適していた。
「ねー。サークル入ろうよぅ、みっちゃーん」
 携帯から視線を上げて睨む。
「その呼び方は止めて下さい」
 『みっちゃん』というのは田中が勝手に使っている池田のニックネームだ。光弘だから、みっちゃんらしい。その女の子のような呼び方は、池田の自尊心を大いに逆撫でする。専門学校時代に無理矢理つけられた『イケちゃん』という呼び名の方が、まだ許せる気がした。
「似合ってると思うのになぁ……。て、それよりサークルだよ。釣り飲みサークル」
 池田の抗議をあっさり流して、田中は話を戻す。堂々巡りの会話にうんざりした。
 釣り飲みサークルというのは、その名の通り、自分で釣った魚で酒を飲むのを楽しむサークルらしい。今4年の先輩が主催しているというサークルは、余りに親父くさい活動内容のためか、人気も無く、人数も少ない、認知度の低いサークルだった。
 見た目に似合わずアウトドアが大好きだという目の前の男は、どこから見つけてきたのか、そのサークルに入りたいらしい。しかし1年が自分1人では寂しいので、こうして池田を誘っている。
「なぜ僕を誘うんですか。別の方に聞いてみたらいいでしょう」
 はっきりと不愉快な気分を滲ませて言った。
 仮にも大学なのだから、1年だけでも相当な人数がいる。酒飲みサークルの特性上、成人している学生という制約はあれど、池田に執着せず声を掛け続ければ、入りたいという人間が出てくるかも知れない。
「聞いたんだけど、断られたんだよね」
 田中はくったくの無い笑顔で、あははと笑った。
「聞いたというのは、どなたに……」
「どなたって、入るとこ決めてない人のほとんどに聞いたよ」
 軽く返された言葉に絶句する。今年度の入学者数を思い出した池田は、嘘に違いないと断じたが、同時に田中ならやりかねないとも思った。
「つまり、僕が最後の1人だから、そのようにしつこく誘うんですか?」
 偶然だとしても、なぜ自分が最後なんだと泣きたくなる。
 田中は腕組みして少し考え、嬉しそうにニカッと笑った。
「そういうんじゃなくて、みっちゃんと一緒にサークル入ったら、楽しそうだなと思ったから」
「は?」
 思わず眉間に力が入る。自他共に認めるインドア派な池田のどこを見て、そう言うのか。
(……無理だ。完全についていけない)
 これからの大学生活を維持する上で、田中との付き合いを止めるべきだというのは判っているが、いくら言ってもついてくる奴をどうやって排除すればいいのだろう。
 池田がこの上なく難しい顔で悩んでいると、遠くの何かに気付いたらしい田中が立ち上がり、嬉しそうに手を振った。
「小茄子川(こなすかわ)先輩っ!」
 田中の大声に思考を遮断された池田が振り返る。そこには、こちらに歩きながら手を振り返す、大柄な女がいた。
 歳は池田より少し上だろう。大きな目と口、きりりとした眉。気の強そうな顔立ちの……美人と言えば、美人。ぴったりした服を着ているせいで、大きな胸と細い腰がはっきり判る。肉感的という言葉が似合う女性だった。
「千章(ちあき)でいいって言ったのに……苗字、呼びにくいでしょ?」
 近くまで来た先輩は、背中まで伸ばしたウェーブヘアを無造作にかき上げた。
 その仕草に田中が頬を染める。
「呼びにくくは無いですけど、千章先輩って呼びますね!」
 嬉しそうな田中に微笑み返した千章が、ちらりとこちらを見た。
「お友達?」
「あ、はい。みっちゃんとは同じ講義とってるんです」
 恥ずかしいニックネームをさらりと言ってのけた田中を睨みつける。が、当の本人は池田の憤りなどみじんも気付いていないらしい。
 諦めた池田はしぶしぶ立ち上がって会釈した。
「情報学部電子情報科の池田光弘です」
「そう。私は理工学部生物工学科4年の小茄子川千章。よろしくね……みっちゃん?」
 笑いを含んだ声で呼ばれた名に、池田は唇を噛んだ。恥ずかしくて田中を怒鳴ってやりたかったが、先輩の前では、そうもいかない。
「……よろしく、お願いします」
 何とかそれだけ言うと、頭を下げた。
 目を細めた千章は舐めるような目付きで池田を眺め、口の中で「ふぅん」と呟く。
 何か失礼なところでもあったろうかと身構えた池田は、伸びてきた千章の手に、突然、頬を撫で上げられた。
「!!」
「可愛いね……」
 すべすべした冷たい手の感触に身体が強張る。女性にしては低い声が脳に沁みて、背筋に鳥肌が立った。
 何が起きたのか判らず、目を見開いたままの池田と、ふっと蠱惑的に微笑む千章。二人を見比べた田中が口を尖らせた。
「あー、みっちゃんだけずるい。俺もなでなでして下さいよー」
 子供っぽい言葉に苦笑すると、千章は田中の頭をぽんぽんと叩いてから、サッと左手を上げた。
「じゃ、行くわ。またね」
「あ、はい。またサークルに顔出しますから」
 颯爽と歩き出した千章は、追いすがる田中の声に手だけで答え、そのまま振り返らずに行ってしまう。
 彼女が見えなくなるまで手を振り続けている田中を見ながら、池田はただぼうっとその場に突っ立っていた。

(何なんだ、あの女は……!)
 千章が立ち去った後、我に返った池田は苛立ちから爪を噛んだ。母親に何度注意されても治らない、時々出てしまう癖だった。
 いくら年下とはいえ初対面の男に可愛いと言い放ち、いきなり頬を撫でるなんて失礼極まりない。女性経験の無い池田にとっては、痴漢に遭ったも同然の行為だ。
 池田は彼女の手の感触を忘れようと、思い切り自分の頬を擦った。
 そんな池田など眼中に無いらしい田中は、向かいの席に座って肘をつき、うっとりと空中を眺めている。
「あー、良いよね、千章先輩。あの胸に顔を埋めてみたい……」
 田中の下品で生々しい呟きに顔をしかめた。
 千章も千章だが、田中もどうかしている。胸が大きければ誰でも良いのだろうか。
 池田の軽蔑の眼差しに気付いた田中は、何を勘違いしたのか、えへへと笑った。
「サークルにあんな素敵な方がいるのでしたら、僕を誘わなくても良いじゃありませんか」
 軽い嫌味。
「あ、みっちゃんも千章先輩みたいな人が好み? これぞ肉食系って感じが、たまらないよね!」
 やはりというか何というか、田中には通じていないらしい。
 急激な疲労を感じた池田はこめかみを押さえ、溜息をついた。相変わらずの勘違いを否定する気にもならない。
 午後からの講義も田中と一緒だと思うと気が滅入る。
 こちらにはお構いなしで、千章とサークルの素晴らしさを延々と語り続ける田中に冷ややかな視線を向けながら、池田は無意識に頬を撫でた。
 思い出される冷たい手指の感触。男の自分とは全く違う滑らかさ。
 ハッとした池田は、テーブルの下に手を隠し、力いっぱい握った。
 触れられた頬が未だに熱いのは、自分で擦りすぎたせいなのだと、思い込んだ。

   

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