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 インフィニティ ・ エリア

 20
 東の空が白む頃、動き出した電車を乗り継いで、一花と小野里はいつもの駅に辿り着いた。
 響子が心配だからと病院に残った亮平に、一度帰って休むように言われたからだ。
 始発が行き過ぎたばかりの早朝の駅構内は貸切状態で、昼間からは想像できないほど静かだった。空気は痛いくらい冷えていたが、疲れた身体と心には丁度いい。
 特に会話らしい会話もしないで、改札の手前まで来た一花は、後ろの小野里を振り返った。
「……私、考えたんだけど」
「ん?」
「お母さんは、小野里くんを代わりじゃなくて、本当の息子だって思いたかったんじゃないかな」
「え……?」
 病院で目を醒ました時の響子は、見ていられないほど混乱していた。いつからああだったのかは判らないが、一花が気付かないくらい少しずつ病んでいったのだろう。そんな中で小野里を実子だと思い込もうとしたのかも知れない。
「あの、メッセージね。小野里くんと私が付き合うのは、許されない禁忌だって書いてた。あれは、私たちが兄妹なんだって、言いたかったのかなって。でも本当の兄妹じゃない事は判ってるから、あんな風に他人の振りして、何度も……」
 一花は胸の痛みを無視して、自分の考えを述べた。
 いくら精神的に追い詰められた上でした事だとしても、メッセージを思い出すのは、娘として辛い。響子から聞く事ができない以上、真意は判らないが、裏切られ切り捨てられたような気持ちは、どうしても拭いきれなかった。
 そんな考えが顔に出ていたのか、小野里はいつものように一花の頭をぐりぐり撫でた。
「だとしたら、あれは、お袋さんの願いだったんだな」
「願い……」
 そんな考え方もあるのだろうか。
 一花は目を伏せると、覚えている限りのメッセージを思い返してみた。ずっと見つめている事、小野里と別れてほしいという事、一花を大切に思っているという事。
 これまで、ただただ気味が悪いと思っていた内容が、少しずつ形を変えて心に沁みていく。
(ああ……そうか……)
 恐ろしいと思い続けていたから気付かなかった。メッセージには、攻撃的な事は何一つ書いていない。一花への想いと、小野里と離れてほしい事ばかりが書かれていた。
 同じ事に思い至ったらしい小野里が、優しく笑う。
「お袋さんは、夏目のこと大切に思ってるよ」
 見開いた瞳から、一筋、雫が落ちた。
 これまで起きた事の理由よりも知りたかった事実を、一花はやっと見つけた。嬉しくて嬉しくて、また涙が零れた。

「仕方ねーけど、お前泣きすぎ。水分補給しとけ」
 冗談交じりにそう言って渡された缶のスポーツドリンクを持って、一花は改札を通り抜けた。
 家まで送らなくても大丈夫だと言い張ったので、小野里は改札の内側で見送っている。
「小野里くん、色々ありがとう」
 閑散としているせいで静かだとはいえ、少し離れた向こう側に聞こえるように声を張った。
「いや、俺も……迷惑掛けた」
 照れくさそうな声は、少し聞き取りづらい。一花は小野里に見えるように首を振って、めいっぱいの笑顔を作った。
「小野里くんも、ちゃんと休んでね。私は、しばらく学校行けないと思うから、皆によろしく伝えて」
 まだはっきりとした診断のつかない響子は、今日中に心療内科へ移る事になっている。そこでの判断を待つ事になるのだが、精神的な病は一朝一夕に治るものじゃないと昨夜のうちに説明されていた。
 それでなくても急に入院する事になったので、世話をする一花が学校へ行くのは、しばらく無理だろう。
「夏目も無理すんなよ。手伝いが要るなら、すぐ行くから呼んでくれ」
「うん、ありがと」
 登ってきた朝日が、ホームへの階段から差し込む。背に光を受けた小野里が輝きに埋もれて見えなくなった。
「夏目、卒業式は来いよ!」
 眩しさに目を細めながら、一花は大きく手を振る。光の中から届いた声には答えず、ゆっくり微笑んだ。
「……ごめんね、ありがとう」
 聞こえないように、わざと小さく囁いた。
 一花はそのまま踵を返すと、足早に駅を出る。時間的に寝ているだろうとは思ったが、迷惑を承知で志織に電話を掛けた。
 3コールで出た志織は、やはり寝ていたらしい。のんびりした鼻声が返って来た。
『ふぁーい。一花、どしたのー……?』
「ごめんね、こんな早くに」
『いやいやいーけどぉ。昨日、大丈夫だった?』
 大丈夫だというメールはしたものの、昨日、一花が学校を早退したことを心配してくれていたらしい。
「うん、ありがと。で、多分、明日くらいに小野里くんが話すと思うんだけど、全部解決したから……」
『全部? ……全部って全部?!』
 志織のおかしな言い方に苦笑する。
「そう全部。今はちょっと忙しいから詳しく言えないけど。それで、大丈夫だからって伝えようと思って」
『え、何が?』
 いきなり結論だけ述べたので、志織には当然、判らないだろう。しかし、それで良かった。
 今日か明日か、小野里が真相を告げた時に一番驚いて心配するのは志織だと思う。何度か家に遊びに来ている彼女は、響子とも顔見知りだからだ。
「ううん、今は私が大丈夫って事だけ判ってくれたらいいよ」
『んー……うん、まぁいいけどぉ』
 志織は判らないながらも納得してくれたらしい。細かい事を気にしないのが彼女の長所でもある。
 いつの間にか着いていた自宅の前で、一花は足を止めた。
「それで……事情があって、忙しくなるから、もう学校行けないと思うんだよね」
『えっ、まじ!? 卒業式とかどうするのよ?』
 さっき聞いたばかりの、小野里の言葉が蘇る。
 一花は一呼吸置いてから、空を見上げて目を閉じた。
「うん、行かない」
『行かないって……一花、小野里くんは』
「また掛けるね」
 志織の返事を聞かないまま、通話を切って電源を落とす。鍵を取り出すついでに、携帯を鞄に突っ込んでドアを開けた。
 そこは、いつもと変わりない自分の家。
 声を掛ければキッチンから母親が出てきてくれるような気がして、一花はその場にへたり込んだ。
 開けっぱなしだった鞄から、携帯が転がり落ちる。パールホワイトの外装がタイルとぶつかって、軽い音を立てた。拾い上げる気力も起きず、視線だけを向けた。
「ごめんね、志織……」
 一花の恋心を知っている志織が、小野里との事を案じてくれたのは判っている。でも、もう、小野里には会えないと思った。
 もしこの想いが報われる日がきても、響子が彼を息子だと思い込んでいるかぎり、祝福される事は無いだろう。
 親が反対するから諦めるというほど古風な娘では無いが、母親の精神的な安定のためにも、彼と会う事を避けるべきなのは理解していた。
 それに……小野里が自分を好きになってくれる可能性なんて、きっと無い。
「期待、しちゃってたのかなぁ」
 乾いた笑いがこぼれる。
 卒業式の日に告白しようと思っていた。断られるのは承知の上だったはずなのに……今はそれが怖い。
 触れた指先や、体温。ぶっきらぼうで優しい言葉。かすかに笑う口元。自分を呼ぶ、声。
『……夏目』
「っ!」
 一花は両手で顔を覆い、きつく目を閉じた。
(大好きだよ、会いたいよ……ずっと、ずっと一緒にいたい……!)
 心が悲鳴をあげる。
 見境も無く小野里に連絡してしまいそうな自分を抑えるために、携帯を掴んで遠くに放り投げた。それは鈍い音を立てながら廊下を転がっていき、突き当たりのドアにぶつかって止まった。
 壊れたかも知れない。でもその方が良いと思った。
 昨日から泣き通しのせいか瞼だけが熱くて、他はどこもかしこも冷たくなっている。
 一花は感覚の鈍い腕で自分自身を抱き締めると、いつまでもその場で震えていた。

 診療内科で診断を受けた響子は、症状が酷いという事で、精神治療に力を入れている病院へと転院させられた。
 一花の家から大分離れていたそこへ通うのは大変で、亮平の長期休暇が許可されるまでは、比較的近い叔母の家に間借りする事となった。
 響子が行っていたはずの仕事は、小野里と一花を見張る為の方便で、実在していなかった。
 小野里と駅で別れた日、勢い任せに放り投げた携帯電話は案の定壊れてしまっていたが、わざと直さないでいた。
 入院した家族の世話は意外に忙しく、悩む暇も無いまま時が過ぎていく。
 月が変わり、風に梅の香りが混じるようになった頃、専門学校の卒業式が行われた。
 一花は、出席した方が良いという父と叔母からの説得を頑なに拒否し、母の病室でその日を過ごした。
 前もって事情を連絡しておいたので、卒業証書や記念品は全て郵送扱いにして貰えたし、心配していた志織も後日、本人から聞いた話によると、無事に卒業できたらしい。
 母の病状が芳しくない事を除けば、元の通りの穏やかな日々に戻っていた。
 ……それから、小野里には一度も連絡しなかった。

 4月に入り、唯一連絡を取っている志織から、メンバーそれぞれが別の道に歩みだしたと聞いた。
 志織は皆で買い物に行ったデパートで、アパレル販売のアルバイトをしている。
 西村は前から言っていた先輩の会社の社員として働き出したらしい。スポーツブランドしか知らない西村の為に、ちょくちょく呼び出しては志織が服をコーディネートしてあげているとか。
 お互いまんざらでも無さそうな二人は、そのうち付き合う事になるのだろう。
 池田は推薦合格していた県外の大学へ進学し、更にスキルを磨くのだそうだ。
 平野は結局、放浪の旅に出る資金が足りないので、未だに駅前の美容室でバイトをしている。職場が近いので、志織とはたまに会うそうだが、会うたびに髪が変化していると笑っていた。
 小野里は内定を貰っていた企業へ就職した……と思う。忙しいのか、なかなか連絡がつかないらしい。

『一花の方は、どうなの?』

 新調した携帯に届いた志織からのメールに、中庭のベンチに座った一花は、まだ入院中の母の世話をしていると書いて送信した。
 先週、満開だった桜は、風になぶられ地面に降り積もっている。見上げた枝には小さな葉が見え始めていた。晴れ渡った空は目に眩しい。
「ほら、お母さん。桜吹雪きれいだね」
 傍らの車椅子に乗った響子が、ゆるゆると顔を上げ、微笑む。まだまだ反応に波があるものの、最近、笑顔を見せてくれる事が多くなった。
 一花も目線を合わせて笑うと、風でめくられた響子のひざ掛けをそっと直す。
 2ヶ月前には想像できなかった、本当に穏やかな日常。
 あの時の事を思い出せば、まだ胸は痛む。メッセージに怯えた恐怖や、母の様子に気付けなかった後悔、そして皆と小野里に迷惑をかけた事実は、消えるものじゃない。
(それでも……いつか、きちんと謝りたい。お母さんとも、ちゃんと話したい。小野里くんに……会いたい)
 春の日差しの中で、ゆっくり流れゆく時を感じながら、一花は遠く離れた小野里の幸せを願った。

   

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