インフィニティ ・ エリア
エピローグ
荷物が減ったせいで、がらんとした室内を見回してから、一花はコートを掴んで玄関へと向かった。
真冬の寒さは過ぎて今週はめっきり春らしくなったが、この時間では寒いに違いない。
姿見の前でもう一度、服を確認する。
春らしい淡いグリーンの、フェミニンなワンピース。今ではアルバイトチーフに昇格した志織のコーディネートは完璧だが、きちんと着こなせているかが心配だった。
(……ちょっと、女の子すぎないかなぁ)
流行とはいえ、裾のたっぷりしたフリルが妙に気恥ずかしい。志織にお薦めされまくって買ったら、今日着てくるように指定されてしまった。
これでもし似合っていなかったとしても志織のせいにすればいいのだし、それほど気負わないで行こうと考えを変えて、一花はドアを開けた。
ふいに、志織から連絡を貰った時の事を思い出す。
それは、先々週の金曜の午前中だった。
両親が病院へ出かけた後、荷物を整理していた一花は、いつも夜にしか連絡をよこさない志織からの電話を、不思議に思いながら出た。
「……もしもし志織? どうしたの、今日休み?」
他のスタッフとの兼ね合いで、火水休みだと言っていたはずなのに、なぜ金曜に電話が来るのだろう。
『ぜんっぜん仕事中だけどね! 無理言って休憩取らして貰って掛けてるのっ』
興奮しているらしい志織の大声は耳に痛い。一花はとっさに携帯を離すと、横目で画面を確認しながら音量を下げた。
「何かあったの?」
『アリアリ、大有りよ! 小野里くんが転勤しちゃうって、東京に!』
「え?」
久しぶりに聞いた小野里の話題に、目を瞬かせた。
『さっき大輝から連絡あって。もーどうするって感じ!』
「そっか……」
突然の事に驚いて、一花はぼんやりとしたまま呟く。
池田が県外に進学したように、いつかそれぞれこの街から離れていくのかも知れないとは思っていたが、いざそう言われると実感が沸かなかった。
『そっかぁー、じゃないでしょっ! どうすんのよ一花は!?』
「え。どうするって言われても……」
去年、あの駅で別れて以来、小野里とは一度も会っていない。志織と西村を経由して、お互い現況だけは知っていても、直接連絡したことは無かった。
連絡を断ってすぐの頃は、会いたくても状況が許さなかったし、会える余裕ができた頃には月日が経ち過ぎていて、いまさら蒸し返す方が迷惑だろうと思ったからだ。
(それに……)
『もうこのチャンス逃したら一生会えないかも知れないんだよ?』
一花がまだ小野里を好きなのだと信じて疑わない志織が吠える。その熱さに、口元だけで苦笑した。
「うん。でも、今更だしね」
確かに彼への想いは胸の底に残っている。だがそれは一時のように強烈なものでは無くて、懐かしさを含んだ静かなものに変わっていた。
自分の事を考えず、純粋に相手の幸せだけを思える気持ち。
あれから丸1年もたつ。社会人になった小野里には、恋人だっているだろう。
淡々とした一花が歯がゆいらしい志織はますますヒートアップし、音割れするほどの大声で宣言した。
『あーもーっ、一花はなんっにも判って無いっ! いい? 再来週の日曜、絶対に空けておきなさい。時間は後で連絡する。逃げたら縁切るからねっ!!』
ブチッと凄い音を立てて、通話は切れた。呆然と携帯を見つめた一花は、有無を言わさぬ志織の態度に、小さく溜息をつく。
多分その日、小野里に会う事になるのだろう。
一花は携帯をエプロンのポケットに戻して立ち上がると、腰を伸ばしながらリビングを見回した。荷物の整理が始められた部屋。隅にはダンボールが積まれている。
(……最後だし、良いよね。会っても)
小野里がどう思うかは判らないが、最後にきちんと話をしよう。
一花はそう決心し、またダンボールへ荷物をしまいだした。
志織はあの時「再来週の日曜を空けておけ」と言っていたが、結局その前に二度呼び出された。
一度目は志織の働くデパートで、春物のワンピースを買わされた。それが今着ている服。二度目は平野のいる美容室で髪を整えられた。
母親の世話などで仕事をしていなかった一花には痛い出費だが、志織なりの優しさが嬉しかったので素直に従った。
そして……今も志織の指定通りに駅へ向かっている。
来月には東京勤務になるという小野里のために、今夜、送別会のようなものが催されるらしい。春休みで帰省している池田も来るとかで、卒業以来初めてメンバーが揃う事になる。
沢山の楽しみと、わずかな緊張。小野里に会うのは、やはり少し苦しい。
駅までの道を歩きながら、一花は腕時計を見た。
……7時20分。
待ち合わせは7時半なので、十分に間に合うはずだ。
最初に待ち合わせの時間を聞いたとき、一花は自分の耳を疑った。送別会は夜だと言うのに、なぜ朝の7時半に集合なのかと。 しかし志織曰く「自分の出勤前に一花を完璧に仕立て上げる為」だと言う。
日曜日である今日、志織はバイトを休む事ができないらしい。だから出勤前に一花と会って、行き着けのサロンに連れて行き、できあがりを見届けるのだと息巻いていた。
確かに一花は地味だし野暮ったい方だと自覚しているが、そこまでする必要は無いと思う。でも、無理を言ってサロンの時間外予約を取ったと言われると、断れなかった。
早朝の屋外は、やっぱり寒い。強気に出て断るべきだっただろうかと、少し後悔した。
程なく駅に着いた一花は、券売機で5駅先までの切符を買う。学割定期券で乗り降りしていた頃が妙に懐かしく感じた。
ホームへの階段の向こうから、さっと光が差す。自動改札を通り抜けた一花は顔を上げ、小野里と別れたのもこのくらいの時間だったと思い出した。
同じ季節、同じ時間。同じように差し込む日差し。あの時、最後に聞いた彼の声が脳裏に浮かぶ。
眩しさに目を細めた一花は、思い出を噛み締めるように、陽光を見つめた。
「……夏目」
ふいに光の向こうから聞こえた、声。忘れようも無い、少し低いトーン。
逆光で黒い影のように見えた彼が目の前に立った時、一花は余りの驚きにバッグを取り落とした。余所行きの小さな鞄は、沢山物が入らないせいか、思ったより静かに着地する。
「どうして……」
呆然と見つめる一花に微笑むと、小野里は足元に落ちたバッグを拾い上げた。
「諸山に頼んだ。夏目に会わせてくれって」
どうやら志織が色々と理由をつけて早朝に呼び出したのは、この為だったらしい。
差し出されたバッグを受け取り俯く。今夜会う決心はしていたが、いきなり現れるなんて反則だ。緊張で胸が震える。
「びっくりした。志織も言ってくれたら良かったのに」
つい憎まれ口が出た。
「言ったら、お前来ねぇだろ。1年も連絡よこさなかったくせに」
「……ごめん」
連絡をしなかったのは一花なりの理由からだが、最近では、それを建前にして逃げていた所もあった。
「別に怒ってねーけど」
1年前と変わらない調子で笑った小野里は、一花の頭をぐりぐり撫でる。
「ちょっ、やだもー」
首を竦めた一花は慌てて乱れた髪に手櫛を入れた。朝一でセットしたのが台無しだ。長い髪の手入れが大変な事を、少しは察して欲しい。
両手で頭を撫で付ける一花に、小野里が目を細めた。
「髪……伸びたな」
初めて出会った時、耳のすぐ下くらいだった一花の髪は、去年の今頃には肩の少し上まで伸びていた。今ではセミロングになっている。
「小野里くんは、短くなったね」
ほんの少し、冗談を込めて言った。
しっかり肩に着くほど伸ばし放題だった小野里の髪は、短く切り揃えられている。眼鏡はそのままだが、黒のミリタリー風コートに、カーキのチノパンという格好をしていた。いつも裾のほつれたぼろぼろのジーンズを穿いているイメージが、がらりと変わっていた。
「そりゃな、これでも一応社会人だし」
「うん、そうだね」
就職して、この1年頑張ってきた自信と落ち着きのようなものが滲み出ている気がする。家事と母の世話に明け暮れた一花は、眩しい思いで小野里を見つめた。
「諸山と西村から、大体のことは聞いてたけど……」
「うん、お母さんも自宅療養になってから大分落ち着いてね。お父さんも早期退職したし、今度、田舎の方に引越すんだ」
倒れた日から半年近く入院していた響子は、その後、自宅で療養していた。長期休暇からそのまま早期退職をした亮平は、退職金で気候の穏やかな土地を買い、そこを終の棲家にする事を決めていた。
「夏目も、行くのか?」
「まだ決めてない。家の整理が終わるまでは、このままだけど」
ゆっくりであれば普段通りの生活が送れるまでに回復した響子は、亮平さえいれば大丈夫だろう。
ただ今後の事を考えれば、税金のかかる今の家は売った方がいい。幸い駅前にあるので、土地だけでもかなりの金額になると聞いていた。
先祖から続く生家を無くすのは悲しいが、それで家族が辛くなるのは本末転倒だ。決定では無いものの、そのうち一花も親と共に引越すか、どこかで1人暮らしをするかを決めなければならなかった。
「そうか」
静かに相槌を打った小野里は、視線を落とし何かを考えていた。
理由は違えど、同じようにここを離れる彼には、思うところがあるのかも知れない。皆がそれぞれの道へ歩みだし、それぞれ別の場所へ離れていく。当たり前の事だが、やはり寂しいと感じた。
どんなに親しくても、離れれば次第に疎遠になっていくのだろう。志織が言ったように、小野里とはこれきり会えない可能性もある。
一花は静かに深呼吸すると、真正面の小野里をまっすぐに見つめた。
「……私、小野里くんに謝りたかった」
「ん?」
小野里が不思議そうに眉を上げる。
今更、思い出させる事で、不快に思うかも知れない。単なる自己満足かも知れない。それでも、一花は深く頭を下げた。
「あの時、うちのことに巻き込んでしまって、ごめんなさい。お母さんがあんな風になったのは、私とお父さんのせいだから……それと、支えてくれて、ありがとう」
響子が入院中、一花は母の部屋で偶然日記を発見した。そこには、少しずつずれていく思考と亮平のいない寂しさ、一花への接し方の苦悩、そして亡くした子に向けた愛情が延々と綴られていた。
最後の方は文章になっていない箇所も多くて判らないものもあったが、響子が一花と小野里へメッセージを送り続けた理由は、二人の推測から大きく外れる事は無かった。
しばらくそのままの体勢でじっといていた一花は、恐る恐る顔を上げる。上目遣いに小野里を見ると、呆れ混じりの笑みを返された。
「だから気にしてねえって。何度言えば信じるんだよ。……て、お前、それ気にして連絡よこさなかったのか?」
鋭い小野里の言葉に、ぎくりと身を震わせる。
「そ、それだけじゃ無いよ。お世話とか通院とか大変で忙しかったし、それに……」
「それに?」
思わず口をついて出そうになった言葉を慌てて押し止めた。それこそが本当の、一番知られたくない理由。
「なんでも無い」
「夏目」
気の抜けた笑いで誤魔化そうとした一花は、半眼の小野里に睨まれた。眼鏡越しとはいえ、少し怖い。彼への想いを諦めたときに、この先、伝える事は無いだろうと思ったのに。
(……もう過去の事なんだし、言っても大丈夫……だよね)
一花はわざと視線を外して、鞄の持ち手をぎゅっと握った。今更なのに、顔が火照る。
「あの時、私、小野里くんの事、好きだったから。あんな事になって、もう会わす顔無いし、会ったら期待しちゃうし」
「……」
「あっ、で、でも。もう1年も前だし、ほんと気にしなくて良いからっ」
途切れ途切れの一花の告白に、小野里はかなり驚いたらしい。しばらく無言で立ち尽くすと、自分の頬を撫でて大きく息を吐いた。
「それって、夏目の中では過去形?」
「え?」
言われた意味が判らずに、聞き返す。
「俺は今でもお前の事、好きだ」
一瞬、時が止まったのかと思うほど、何も感じられなくなった。
(小野里くんが、私を、好き?)
「うそ」
思わずこぼれた呟きに、小野里は眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をした。
「お前なぁ、覚悟して告白したのに、嘘とか言うなよ」
「だ、だって、私そんなに可愛くないし。スタイルだってダメだし。すぐへこむし、泣くし。迷惑もいっぱい掛けたし……!」
何が何だか判らない一花は、自分のマイナスな部分を思いつく限り言葉にしていく。
突然ネガティブな事を言い出したのに驚いた小野里は少し呆然としたものの、口の端を上げて一花を引き寄せた。
「余計な事考えすぎ。少し黙っとけ」
想像もしていなかった告白をされ、いきなり抱き締められた一花は腕の中で硬直する。次の瞬間には、お互いの唇が触れ合っていた。
驚きすぎて目を閉じる事すら忘れていた一花から、ゆっくり小野里が離れていく。実際はわずかな時間だったはずなのに、酷く長く感じた。
我に返った一花は急に息苦しさを覚えて、思い切り空気を吸った。
「これで、信じた?」
抱き締められたまま耳元で囁かれ、ぞくりと震える。小野里の胸に顔を埋めて、何度も頷いた。
「あん時も、ほんとにしちまうかなって思ってた」
「?」
見上げると、小野里が自嘲気味に笑った。
「ここでキスしてる振りしただろ?」
「あ……」
あの日の夕方、二人で寄り掛かっていた壁を振り返る。あの時一花が感じた想いを、小野里も感じていたのだろうか。
「今思えば、無理にでもしときゃ良かったかな。そうすれば、夏目に気使わせる事も無かった」
また向かい合うと、一花は無言で首を振った。そうっと手を伸ばして、小野里の背中に腕を回す。
もしもキスされて想いが通じ合っていたとしても、一花は母のした事の負い目から彼を避けたに違いない。そればかりか、自分は彼に相応しくないと決め付けて、何があっても二度と会わなかっただろう。
小野里は一花の考えに気付いたのか、一度きつく抱き締めて、腕を解いた。
「まぁ結果オーライだからいいけどな。夏目は諦めて俺と付き合う事。逃げたら追いかけるぞ」
「なにそれ」
自分勝手な物言いに、笑いが込み上げる。当たり前のように差し出された手に、自分のを重ねた。
別れた時と、同じ季節、同じ時間、同じ場所。切り取られ止まっていた時が、また流れ出したような気がした。
小野里に引かれて、ホームへの階段を登る。登りきって見えた朝日は、あの朝と同じように眩しく輝いていた。
End
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