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 インフィニティ ・ エリア

 19
 こうこうと明かりはついているものの薄ら寒い感じのする部屋で、一花は空中を見つめたまま呆然としていた。
 外はもう何時間も前に日が落ちて、静まり返った黒い空が広がっている。昼過ぎに倒れている響子を発見した一花と小野里は、呼んだ救急車に同乗してこの病院へと連れてこられた。
 何が起こったのかは把握している。求められるまま検査の同意書も、入院の手続きもこなした。
 だが心は死んだように動かない。もうこれ以上、何も考えたくなかった。
 入院患者の付添い人が待機するために用意されているらしい部屋に、小さなボストンバッグを抱えた亮平が入って来る。連絡を受けて急遽、福岡から戻ってきた亮平は、飛行機の関係で先ほど着いたばかりだった。
 立ち上がりかけた小野里を手で制して一花の隣に座ると、疲れを滲ませた溜息をつく。
「薬が効いて、よく眠っていたよ」
 着いて早々に病室を見に行った亮平は、主治医から妻の病状を聞いたらしく、困り顔で微笑んだ。
 倒れていた時、全く動かなくなっていた響子は、栄養失調と極度の過労と診断された。
 今すぐ生死に関わるような重篤な状態で無くて良かったと安心したのも束の間、意識の戻った響子は誰の目にも判るほど錯乱していた。幻覚と幻聴に苛まれ、自分の状態も判らずに喚いて逃げ出そうとする。とりあえず薬で落ち着かせたものの、明日以降は心療内科へ移すと言われていた。
 何も言わずただぼんやりしている一花を労わるように、亮平の手が背中を撫でる。
「すまないね。一花にも……君にも、迷惑を掛けたようだ」
 視線を向けられた小野里は、静かに首を振った。
「……俺の、せいかも知れません」
 暗い顔で俯いた小野里と、虚ろな目をしている一花を見比べた亮平は、ただならぬ雰囲気を察知して眉を寄せた。
「その理由を、聞いても良いのかな?」
 小野里は少し考えると、一花を見つめる。
「夏目」
「……」
 呼びかけられた一花は、視線だけをゆるゆる上げた。
「俺は全部話すべきだと思うけど、いいか? …夏目が聞きたく無ければ外で話しても」
「いいよ」
 小野里の言葉を最後まで聞かずに即答する。
 メッセージの事も、母の事も、自分の事も、何もかもどうでも良かった。周りの全てが作り物のように見えて、自分とは関わり無い事に思える。
 投げやりな態度の一花に溜息をつくと、小野里はこれまでに起きた事実を亮平に語りだした。
「俺と一花さんと、あと3人で卒業制作を合作したんです。それはネット上の掲示板のような物で、生徒以外には見る事ができない仕様でした」
 一花の家庭の事ではなく、学校の話から始まったので、亮平は少し驚いたようだった。が、指摘せずに頷く。
「そこに一花さんのストーカーだと名乗る人物から、その……俺と早く別れろっていうメッセージが来て」
 眉を上げた亮平が横の一花を見つめた。
「小野里くんと一花は、お付き合いをしてたのかい?」
 何も考えずにただ話を聞いていた一花は、前を見たまま首を振る。
「ただの噂」
 その噂が真になって欲しいと願っていたはずなのに、今はその気持ちすら湧いて来ない。心に蓋をしたのと一緒に、小野里への想いも閉じ込めてしまったようだ。
 噂については詳しく語らず、小野里は話を続けた。
「メッセージの送り主は生徒では無い架空の人物で、どうやって掲示板を見て、メッセージを送っているのかが判りませんでした。今朝までは」
 今日の朝……。
 一花の胸の一番奥が、かすかに震える。池田の説明を聞いて飛び出したのが、随分と昔のような気がした。
「……今日になって、送り主は、一花さんの家から彼女のパソコンを使って掲示板を見ていると判明しました」
「それを、響子がやっていた?」
「おそらく」
 小野里が沈痛な面持ちで告げると、亮平は理解できないらしく、目を瞑って何度か頭を振った。
「いや、おかしいだろう。なぜ響子が一花と君の付き合いを邪魔するんだ。仮に君が娘に相応しくない男だと彼女が判断したとしても、直接言えばいいだけの事じゃないか?」
 亮平の意見はもっともだった。小野里と響子の接点を知らなければ、当然そう思うだろう。
 小野里はゆっくりと息を吐いて、ためらいがちに口を開いた。
「俺も今日まで気付かなかったんですが、4年前、俺と……お母さんは知り合いだったんです」
 これ以上、傷つかないように、蓋をして鍵を掛けたはずの心が揺れだす。思い出したくない小野里の声が脳裏に閃いた。

『しっかりして下さい! 聞こえますか?! 春子さんっ』

 ……春子。
 そう、母親は春子に利用されていたんじゃない。響子自身が、春子だったのだから。
 静かに震えだした一花に気付かず、小野里は事情を説明していく。
「4年前に俺が飲み屋で働いていた時、お母さんは常連客でした」
 妻がホストクラブに通いつめていたなど、亮平には言えないと思ったのか、小野里は店を曖昧に誤魔化した。
 ふいに一花の口から乾いた笑いが零れだす。限界までしならせた枝が音を立てて折れるように、感情が高ぶりおかしくて堪らなくなった。
 いきなりけたたましく笑い出した一花に驚いた亮平が、ぎょっとする。
「い、一花、どうしたんだ」
 肩を掴まれた手を跳ね除けた。
「どうしたもこうしたもないよ。小野里くんはねぇ、ホストだったんだよ」
「夏目」
 嗜めるようにこちらを見た小野里を睨んだ。
「あんなお母さんに気を使う必要なんて無い! あの人はお父さんがいるのに小野里くんの事好きで、ストーカーして、それがばれないようにあんなメッセージ送ってきたんでしょっ!?」
「夏目っ!!」
 小野里の怒鳴り声に怯んだ一花は、自分を守るように頭を抱え、目の前のテーブルに突っ伏した。一気に爆発した心はぐちゃぐちゃで哀しいのに、涙も出ない。過保護を疎ましいと思いながらも大好きだった母の顔が、次々と思い浮かんでは消えた。
「悪い……。でも、違うんだ。夏目のお袋さんは、そんな人じゃない」
 怒鳴ってしまった事を小さく詫びた小野里が、溜息と共に呟く。
「それは、どういう事かな」
 何も答えられない一花に代わって、亮平が尋ねた。
「4年前、俺が働いてたホストクラブに、お母さんは客として来ました。会社の先輩とかいう人に無理矢理誘われたらしくて。だから本当はああいう所に興味が無かったんです。もちろん働いてる俺たちにも。旦那さんをずっと愛してるんだって、真面目に言ってましたから……」
 さすがに恥ずかしかったのか、亮平が気まずそうに頭を掻いた。
「それで?」
「だけど、俺の名前の話になった時に態度が変わりました……俺の本名は、小野里成と言います。成功の成と書くんです」
「!」
 さっと顔色を変えた亮平が身を強張らせる。
 それだけで通じると確信した小野里は、顔を伏せたままの一花に視線を移した。
「一花さんには……」
「……いい。一花だってもう成人してるんだ。聞かせても構わない」
 何のことかは判らないが、二人の間に流れる奇妙な雰囲気に、一花はそうっと顔を上げる。見つめ合う形になってしまった小野里の瞳に、悲しみが宿っているような気がした。
「お母さんは、若い時に亡くした子供の話をしていました。産まれる前に亡くなった子は、男の子で、もう名前も決めていたと」
 そこまで聞いた亮平は苦しそうに目を瞑ると、両手で顔を覆った。
「ああ、そうだ。響子と話し合ってね……成という一文字で、夏目成(なつめ せい)と名付けるつもりだった」
 一花は辛そうな二人を交互に見つめる。疲労のせいで鈍った頭では、話をすぐに理解できなかった。
「なんの、話?」
「夏目には、兄貴がいたんだよ。読み方は違うけど、俺と同じ字で、同じ歳の、な」
 昼間、喫茶店で聞いた小野里の質問が蘇る。
「そんな……だって、聞いた事ない……」
 両親からはもちろん、子供のころに同居していた祖母や、親戚からだって、そんな話は聞いた事が無い。突然知らされた事実に、一花は首を振った。
「成の事はタブーだったんだよ。あの子が亡くなった理由は判らないが、胎児の突然死は稀にある事なんだそうだ。だが響子は自分のせいだと責めて……それで自殺未遂を起こした」
 隣に座る亮平が、顔を隠したまま溜息と共に呟く。
 そこまでは知らなかったらしい小野里が、一花と同じく驚いた顔をしていた。
「お母さんが……」
 これまで知らなかった両親の悲しい過去。
 一花は、無意識に母親を拒絶していた事をを恥じた。知らなかったとはいえ、一花の態度に響子はどれだけ傷ついただろう。
 少し落ち着きを取り戻したらしい亮平が、静かに顔を上げ、一花を見た。
「一花に隠していた訳じゃないんだ。成の話をすると、お母さんが思い出してしまうからね。それで何も言えなかった」
 すまなそうな亮平に、首を振って見せる。驚きはしたが、両親の悲しみを思えば責めるような事じゃない。むしろ謝らなければならないのは自分の方かも知れないと、一花は思った。
「……すみません」
 ふいに聞こえた声に、振り返る。言葉を発した小野里は、辛そうな顔で項垂れていた。
「どうして、小野里くんが謝るの」
「あの時、俺と会わなければ、お袋さんは子供の事を思い出さなかった」
「そんなの小野里くんのせいじゃないよ」
 確かに小野里と会った事で、響子が成を思い出したのだとは思う。しかしそれに小野里が責任を感じるのはおかしい。彼は事情を知らなかったし、出会った事は偶然なのだから。
 一花と同じように考えたらしい亮平が、大きく頷いた。
「一花の言う通りだよ、君に責任は無い。それに、謝るのは私の方だ。すまない、響子が迷惑を掛けたのだろう?」
 納得しきれていない顔でしばらく何かを考えた小野里は、ゆっくりと首を振った。
「付き纏われたのは事実ですけど、迷惑とは思いませんでした。お母さんは、ただ俺の事を心配してくれただけなんです。夜の仕事してて、生活ガタガタだったし、飯作って持ってきたりしてくれて……俺、親がいないから、ちょっと嬉しかったです」
「そうか……。あいつの事だから、君と成を重ねていたんだろうね」
 静かに訪れる沈黙。
 亡くした息子と同じ名前で同じ歳の小野里に出会って、響子は彼を息子のように思った。その頃もう亮平は福岡にいたし、一花は高校生で今よりも反抗的だったから、その分、彼に依存したとしてもおかしくない。
「お母さんは、それからずっと小野里くんに会いに行ってたの?」
 亮平はともかく、一緒に暮らしていた一花の気付かないところで、響子と小野里は会っていたのだろうか。
 一花の質問に、小野里はかすかに微笑んだ。
「1年くらいした時に、お母さんから夏目の事を聞いたんだ。高校生の娘がいるって。それで、会うのは止めた。俺よりも本当の家族を大事にして欲しかったんだよ」
 そっと目を伏せる。
 響子と、見ず知らずの一花へ向けられた小野里の思いやりに感謝する反面、実の家族だという関係に甘え、母親を気にもしていなかった自分が許せなかった。
「どうして、もっとちゃんとお母さんと話をしなかったんだろう。ちゃんと、見ててあげなかったんだろう……!」
 悔しくて、申し訳なくて、枯れていたはずの涙が溢れる。
 横から伸びた腕に抱き寄せられた一花は、父親の胸に顔を埋めた。亮平の服が濡れるのも構わずに、涙を擦りつけしゃくりあげる。
「一花のせいじゃない。お母さんの傍にいなかった父さんが悪いんだよ」
 優しく背中を撫でる手と共に聞こえてきた言葉は、はっきりと震えていて、亮平もまた泣いているのだと気付いた。
 後悔の涙は止まる事を知らず、次々に流れる。
(……ごめんなさい。ごめんなさい、お母さん)
 優しく自分を呼ぶ声が聞きたい。嬉しそうに笑う顔が見たい。暖かく包んでくれる母に会いたかった。

   

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